2019年

9月

01日

for meな新海ワールド (『天気の子』感想)

(『君の名は』『天気の子』のネタバレあります)

 

研修に明け暮れて冷房で腹を壊し、腹巻きが手放せなかった夏の日の2019……遅ればせながら、お盆休みに『天気の子』を観ました。

すごい。びっくりした。これは『君の名は』とはぜんぜんちがう。

ずっと新海監督が好きですべての作品を見ている人は一連の流れの中での分類があるだろうけれど、「皆観てるから観てみよう!」くらいのミーハーな気持ちで『君の名は』『天気の子』の2作だけ観に行った私にとってはこの2作品が似ているようで全然違うように見えて、そこが「すごい」と思った。

 

まず『君の名は』、見慣れた空や新宿の街が一気に輝き出す映像美や音楽と物語が連動する気持ちよさは、もう1800円払って全然前世余りある感じだったんですけど(ちなみに普段の私は映画に1100円までしか払わないし1100円も結構痛いです)、お話はnot for me だった。

どう言い繕っても恋愛音痴の僻みなので、この際ストレートに言ってしまうと、「近頃の若いモンは村ひとつ巻き込まなきゃ恋愛のひとつもできねぇのかよ」みたいに毒づきたくてしかたなかった。※1 ※2

 

自分でもおかしいと思います。お話の流れはまったく逆で、瀧くんは三葉ちゃんを救おうとする過程で、消えるはずだったたくさんの命を救ってくれたんだから(※1 あと『近頃の』も語弊がありますね。むしろ私が若い頃の方がいわゆるセカイ系全盛期で、そこら中で世界を敵にまわしたり中心で愛を叫んだりしてました)(※2 あと糸守は村じゃなくて町)。

にも関わらず瀧くんや三葉ちゃんに「お前らの惚れた腫れたで大騒ぎさせやがって……」と苦虫噛み潰してしまうのは私の性格が悪いからなんですが、無理やり『君の名は』サイドに責任を押し付けるとしたら、「全滅するはずだった村を救う」という大騒ぎが「何もしてないのにある日突然女子のおっぱいもみ放題になる→その上その娘と恋に落ちる」という高校生の妄想に組み込まれてしまっている感じがしたからではないかなあ。

いやいいんですよ、高校生の妄想>大災害で!映画なんだから!!

何度も言いますがnot for me なだけです。日本中のいい恋してる人たちや、恋を忘れぬ瑞々しい感性を持った方々にこのお話は響いたことでしょう。私だって瀧くんも三葉ちゃんも大好きだよ!いい子だもん!晴れて挙式される折には三くらい包んでもいいかなって思ってる!(さっきから愛を金額でしか示せない、汚れた大人ですみません。しかも金額が微妙で……)

 

それで『天気の子』です。前回以上にガキンチョな主人公どもが、おばちゃんの邪推なんて軽々飛び越えて、はっきり言っちゃいましたよ。

俺達の恋>大災害だ!!って!!

なのに今度は思えちゃうのね、「そうだ!!」って。

それはどうしてだろうって、お盆からこっちずっと考えてました。胸(と腹)の痛みと共に……

 

『天気の子』でも『君の名を』でも東京の街が写実的に描かれてるけど、『君の名は』の東京のキーワードが「キラキラ」「裕福」「リア充」だとしたら、『天気の子』のそれは「イライラ」「貧困」「居場所がない」。

子どもの生活苦を描くのが上手い。リアリティとかじゃなく、「貧困と切っても切れないある種の闇は排除した上での、映画館でお金使えるくらいの人が共感できる貧しさ表現」ではあるのだけど、貧困が大きく影響しているであろう陽菜ちゃんのキャラクター造形が、すごく痛々しい。

話がそれるようだけど、作中のナレーションにあったように、「天気」というのは一番身近で、お金のかからない割に「エモい」娯楽。空の色や夕暮れ、嵐の訪れやふと見上げた虹に、私達はさまざまな形で心を動かされます。

陽菜は「晴れを提供する」エンターテイナーとして稼いだけれど、その前に彼女が性を売らされるか、それに準じるような仕事をさせられそうになっていた描写があります。「天気」と「セックス」は「元手の掛からない娯楽」という点において相似である、と言えます。

その後、天気を変えることは売春同様に『一見元手がかからないように見えるが実は心や体を消費する行い』であるという事実が提示されます。「気候」も「性交」も、ヒト一人が一方的な娯楽として享受できるものではない。

 

帆高と会う前に陽菜が性的な仕事をしてたとかしてないとかいう議論をするつもりはないけれど、彼女はその気になれば自分を投げ出してしまえる子です。

陽菜ちゃんは悲しい。年齢を18歳と偽ることも、ホテルでお風呂から出てくる時に「お待たせしました」と言うことも、食材をやりくりして男たちにおいしいご飯を作ってくれることさえも、私にはなんだか悲しく思えます。

歳が若いことや「女らしい」ことは、物語のヒロインとしてなんら珍しいことではありません。自己犠牲的なことも。

自分の身を削っても誰かに喜んでもらえるほうがいい、自分の身を差し出してみんなのために「人柱」になるのが正しい道である、という価値観は、悪いものではないかもしれない。自分を差し出すことを悪いことと言い切るのも、一方的な価値観なのかもしれない。ただ、15歳という年齢のヒトにその決断をさせるのは、悲しすぎると思う。

そういう価値観に「ヒロイン」を追い込んできた物語はいくつもあります。そして、そういう物語に疑問を持たずに漫然と消費してきた「私」というモンスターがいる。さらに、物語冒頭の陽菜がそうなっていたかもしれないように、心や身体を搾取される現実の子どもが存在します。そういう世界をどうすることもできず、あるいは今の所まだどうにかできずに、私達は生きている。

つまり、この物語は"for me" です。誰にとっても"for me" になり得るから、帆高の決断には陽菜だけでなく、映画を観ている人の頭にかかっていた鎖を解き放つような力がある。そこに『映像の力』『音楽の力』が結集したときの説得力と来たら。カタルシスときたら。

もう、なんかアレ、すごいアレですよ……アッセンブルですよ!新海キャップになんかいろんなものが集結した感!!わたしの言ってること伝わってる!?伝わってないね!? すみません!!

 

文章が下手過ぎて多分伝わってないんですけど、あの、劇中歌の「行けばいい」というとこに私は涙しました。ほんとになんかもう、あの子どもたちが、古い頭が考えるタブーや何かのずっと向こうへ、良いこととされてるものよりずっと遠くへ、行ってくれたらいいなと思います。

かといって彼らの敵や味方になる大人たちにも「かわいげ」を忘れないキャラ設定もすごくよかったです。「行けばいい」を都合よく解釈しちゃダメなんだな、と。

まあ世代なんで「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」って言ってるばっかりなんですけど、逃げずにちゃんと大人をやろうと思いました。

(夏休み最終日に急いで書いた読書感想文みたいなとってつけた感……)

 

 

 

 

 

 

 

2019年

4月

27日

10連休日記

平成31年4月27日

 

後から読み返すと自分が楽しいので、日記をつけておくことにする。

今日は丸ごと休みだけど、昨夜風邪を押して後輩と遅くまで仕事の話してしまったので、声がぜんぜん出ない。うちでゴロゴロしながら、SNSでなんとなく休日の予定を埋めていく。

 

3月の終わりに、同級生で一番近くにいる友だちだったSさんが亡くなった。

Sさんはずっと病気を抱えていたので、いつかお別れするんだろうな、という気持ちがどこかにあったけれど、まだお互い本当に子どもで、死を意識するには若すぎる年齢から続いていることだったので、それが本当に来るとは全然思っていなかった。彼女はいつもひとりで死を思っていたのかも知れないけれど、その気持ちを私に見せることはなかった。

二人ともハードな仕事に就いてしまったり、それぞれにそれなりの経験もなんだかしてしまったようで、でもそれをはっきり語るわけでもなく、お互いの嗜好や人生観を肯定するでも否定するでもなく、ただただ寄り集まっては、ひたすら食べたり、変な工作をしたり、それぞれの萌えを満たす活動に付き合うべくいろんなところに旅したりしていたのだった。

 

Sさんのお母さんから葬儀の連絡を受けたのは、チェーン展開しているカレー屋さんで4月から一緒に働くことになる人たちとご飯を食べている時だった。日本に来たばかりの男子もいて、それは美味しそうに、楽しそうに同年代の男の子たちとはしゃいでいて、私は電話の内容を言えなかった。Sさんが私達から遠くにいってしまったのではなく、私もSさんと一緒に彼らから遠いところにいってしまったような気がした。

 

彼らはとてもいい人たちだから、電話の内容を打ち明けたら、きっと私の気持ちに寄り添おうとしてくれた。それをしなかったのは、多分泣きたくなかったからだ。

彼女は亡くなっているのに私は生きていて、話を聞いてくれる人がいて、それはきっと、「恵まれている」のだと思う。でも「遠いところにいってしまった感じ」を味わってしまったら、恵まれているとかいないとか、得しているとか損しているとか、嬉しいとか悲しいとか、全ての言葉が一度意味を失ってしまった。

葬儀の連絡をきっかけに、同級生たちが私のことも気遣ってくれた。メールでYさんがご友人が亡くなった時のお話をしてくださった。めったに私を褒めない母が、「あなたたちはいい友達だったと思う」と言ってくれた。私を通してしかSさんを知らなかったはずのAさんは「話を聞いて一晩眠れなかった」と書き送ってくれた。明日来日するRちゃんは、私の話を聞いたらぎゅっと抱きしめてくれる(たぶん)。

そんなふうに誰かがSさんのことに触れるとき、急にひとつひとつの言葉が色づいて、文字通り堰を切ったように、涙が溢れてくる。

 

それは彼女を悼む涙なのか、自己憐憫の涙なのか。私は悲しいのか、寂しいのか。その感情の内訳は、先に旅立ってしまった人への罪悪感かもしれないし、遊んでくれる人がいなくなった自分への不安かもしれない。私とSさんは一緒にいる目的がなかったし、他にもっと大切な人がいるのにたまたま近くにいるから遊んでいただけだったかもしれないし、お互いに親友だったのかもわからない。ただただ、「友だち」をやっていた。

自分の感情に名前がつけられないまま、現実から少し離れたような感覚だけが続いている。まだ若い弟さんが喪主だったから葬儀の細々としたことにハラハラさせられたり、恩師による弔辞が自己陶酔気味で思いっきり的外れだったり、それを一番に報告して怒ったり笑ったりしたい相手は、そういう事々に誰よりも共感してくれるはずだった人は、もういない。そうして、もうすぐひとつの時代が終わる。

 

平成31年4月28日

 

風が冷たい。MCU師匠のSYさんと新宿で待ち合わせ。

昨年ものすごく忙しかったし、転職する場合に備えてなるべくお金を使わないようにしているので、久しぶりに電車で都会に出る。

 

格別平成を振り返りたいわけでもないが、学生の時は文庫本を二冊くらい持っていないと長時間電車に乗るのが不安だったな、と思う。

今はスマホもあるし、二時間くらいぼーっとしてたってどうってこともない。立っていても、「みすず学苑」の広告がどうしてこんなことになってしまってるのか考えるだけで30分は潰せる(結局わからん、あとでググる)。

 

シャザム!とアベンジャーズ・エンドゲームを鑑賞。

シャザムで1回、エンドゲームで2回泣いてしまった。

エンドゲーム、私は大満足だったのだが、SYさんはちょっと納得のいかない表情。予約していただいた美味しいメキシコ料理(ファヒータが火を噴く!)を食べながらいろいろ話したけど、ネット上の反応なども踏まえて後日に持ち越される模様。

5時間近くスクリーンに集中したら体はすごく疲れたみたいで、帰りの電車の中で感想をまとめようと思ったものの、何度も寝落ちてしまった。

 

平成31年4月29日

 

午前中うちで仕事だなあ、と起きて掃除や洗い物をしてたら、約束は午後だったことに気づく。やり始めてしまえばエンジンがかかるタイプなので、よい勘違いだった。午後までに起きればいいと思ってたら、絶対二度寝してた。そのまま、換気扇の掃除などもしてしまう。

 

ちょっと時間が余ったので、金曜日に上司の印をもらって平成のうちに出しておきたい(提出日欄に『平成』と印刷されてて『令和』がない)書類を持って郵便局に行く。連休中でも開いてる「ゆうゆう窓口」は長蛇の列で、しかも私の前に並んでいた女性が個人を証明するものを持たずに荷物を取りに来た人で、配達員がどうこうとかお前じゃダメだから上の人間を出せとか、執拗に係の人に絡んでいた。その人が係員さんをさんざん罵倒して帰った後、「お待たせして申し訳ありません」と謝る彼女に「たいへんでしたね。私もこんな日に出しに来てしまって、お手を煩わせてすみません」と労いの言葉をかけたつもりだったのだが、私の声のほうがよっぽどドスが効いていて、係員さんは明らかに一瞬ビクッとしていた。待たせられた私が怒っていると思ったのか、後ろに並んでいる人にも緊張が走った。言葉の意味が伝わるまでの数秒間が長かった。何十人も殺してるみたいな声で、すみませんでした……

 

平成31年4月30日

 

アベンジャーズ・エンドゲーム感想

(アイアンマンとキャプテン・アメリカ周り)

 

トニーは、「つくる人」だった。父の影を追いながら、もっと偉大な、もっと素晴らしい何かをつくろうとし続けた。 

スティーブは「つくられた人」。持って生まれた高潔さと、つくられたものとしての責任感を持って戦い続けた。 

 

トニーは「つくる人」なのに、つくったものたちに去られるという悲哀を味わい続けた。 

アベンジャーズもヴィジョンもピーターも、みんな一度はトニーを置いていってしまった。 

スティーブは「つくられた人」ゆえに、大切なものたちを置いていかなければならなかった。 

安住の地も自身のための人生も持たず、ストイックにやるべきことをやり続ける、それが彼の人生だった。 

(CACWでの選択は彼のわがままだという人もいるけど、スティーブは私情を置いてやるべきことをやっただけで、助ける相手がバッキーでなくても同じことをしたはずだ。CAWSでの彼の行動を見ればバッキーが個人的に大切な存在であっても感情と行動を分けていることは明白だが、不器用さ故にクライマックスの場面で『友人として』バッキーを優先したような発言をしてしまい、トニーの感情をひどく傷つけてしまったことこそがスティーブの罪だと思う) 

 

CACWで二人はそれぞれに間違いを犯したが、EGではそのことへの反省や後悔が垣間見られる。 

帰ってきたトニーはCACWで自分に与しなかった仲間たちに悪態をつくが、その論理は支離滅裂でまったく彼らしくない。実のところ仲間ではなく自分を責めていることを、その場にいる全員が理解している。誰よりも論理的に正義を遂行しようとしていた彼だが、どのみちこの世界ではサノスの掲げる(ある次元ではものすごく論理的な)正義の遂行によって、どんな政治論も意味をなくしてしまっている。その後、愛する娘を育てた5年間で彼がどんなことを学んだのかはわからないけれど、幼い娘の「ママが、パパを助けてあげてって」というセリフから、少なくとも「助ける」という概念の逆転が起こっていたことが窺える。救うという行為は、強者から弱者にだけ行われるものではない。かつてワンダを軟禁したトニーは、もういない。 

スティーブの後悔が見て取れるのは、「タイムトラベル」で過去の自分と向き合った時だ。CAWSでは参加できなかったカウンセリングで人の相談に乗るまでに変容している彼は、かつての不器用で頑迷だった自分を、「(スコットとは全然違う意味で)アメリカのケツ」と吐き捨てる。 

過去への訣別と新たな団結(チームプレイ)を通して、二人が明らかに変容し、人として強くなっていることがわかる。団結した二人は更に過去に遡り、ハワードやペギーとの邂逅を経て、心の傷をも克服する。 

 

戦いが終わり、まずトニーが役割から解放される。 

誰よりも優しくて、誰よりも仲間を喪うことを恐れるトニーは、自分がつくり上げた仲間たちに見送られ、もう誰も喪うことはない。 

次いでスティーブが、初めて「自分のために」行動する。「愛する人と再会してダンスを踊る」という些細なことではあるが、誰かのためでない彼自身のわがままを通し、その帰結として「つくられた人」であることを放棄した。 

戦うことをやめて、自分のために生きること。AoUラストでトニーがその可能性に触れた時、スティーブはまったく意に介さない。しかし、今作でトニーが愛する人と家族になり物語の舞台を降りるまで、あるいはその後のいずれかのタイミングで、スティーブもそうしようと意志したのかもしれない。(『タイムトラベル』でペギーの姿を垣間見た時かもしれないが、老いた姿のスティーブがAoUでのトニーとの会話や、似たような示唆が他の機会にもあったであろうことに触れているので、やはりトニーの影響があると思われる) 

 

もともと二人はハワード・スタークを挟んで表裏一体の存在だった。 

トニーにとってのスティーブは父親の関心を盗んだ者であり、何体スーツを作っても超えられない、父の遺産の象徴でもあったが、そういうトラウマも理屈も何もかも超えて頼ってしまう、絶対的なヒーローだった。 

スティーブにとってのトニーは、置いてきた過去にダイレクトにつながる存在であり、傲慢で嫌なヤツでもありながら、いざという時は自分を超える強さと高潔さを見せるヒーローだった。

 人の出会い方に、自分で選びとる出会いとはじめから決まっている出会いがあるとしたら、この二人のそれは明らかに後者だ。 

ヒーローはいつも運命に抗うことで道を切り拓くが、EGはまさに「運命を変える」ことがテーマだった。 

トニー・スタークにとって、ペッパーやローディ、ハッピーやピーター、そしてモーガンが「選び取った人」だとしたら、スティーブは確かに「運命の人」だったし、同じことがスティーブ側にも言える。 

「運命の人」と「最愛の人」は同じような意味で扱われることが多いけど、必ずしも同じでなくていい。だって私達は、運命を変えることができるから。では、この「運命の二人」はどうするのか? 

CWで訣別した二人がどのように和解するのかと気になっていたけど、ベタな歩み寄りなんてこの二人には似合わないのかもしれない。 

どちらかが怒ったら、もう片方も怒る。どちらかが悲しんだら、もう片方も涙する。どちらかが消えたら、残されたどちらかも退場する。そういう「一対の存在」として描くことでしか、彼らの絆は表現できなかったのだと思う。 

 

ところで、私達「実在の人間」は、なかなか「一対の存在」などにはなり得ない。 

自称するのは自由だし、情緒的な結びつきや、結婚制度や職業上の立場が「一対」を定義することもあるが、第三者が誰かと誰かを「一対」と呼んだ時、それは既にその人のフィクションだ。誰かが作り上げた物語の中にしか存在できない、だからこそ美しい概念だ。 

トニーとスティーブ~アイアンマンとキャプテン・アメリカ~も、何人ものライターに描き継がれてきたフィクションである。この二人に限らずマーベルキャラクターたちの関係性は幾通りもあり、新たな作り手たちは「あなたはどう描くか」という期待を背負うことになる。 

EGで提示された「過去に戻ることで新たな世界線がいくつも作られ、しかしそれぞれの運命を変えることはできない」という前提が私にはよく理解できなくて、細かい疑問がいっぱいあるのだが、既存のキャラクターを動かしてMCUを創るという行為に対する前提でもあるのだろうな、と想像している。 

私はこの時代のこのキャップとこのアイアンマンに、このヒーローたちに出会えて、彼らの物語と同時に歩む数年間を過ごせて、本当に良かった。小さな私の声が直接作り手さんたちに届くことはないと思うけれど、いま世界中で起こっている大きな「ありがとう」に唱和したい。

 

 

平成最後の食事は、たけのこごはん。

みすず学苑の謎センスについては、公式サイトを見て事情を察した。アレは、経営者が変わらない限りあのままだな……

 

令和元年5月1日

 

昨夜風邪薬を飲んだらグッスリ眠ってしまい、仕事の来客があるまで目覚めず。部屋を片付けておいてよかった。セーフ。

 

午前中ちょっと仕事した以外は、洗濯したり床を拭いたり冷蔵庫の掃除をするくらいだったが、Twitterを覗いたり、スコットランドにいる友人とメッセージでおしゃべりしたり(3歳の娘さんとひたすら💩の絵文字を送り合ったりした)、明日・明後日と遊ぶ友人と連絡を取り合ったりして、ずいぶん人と話した気がする。

Sさんのお母さんがお買い物のついでに寄ってくれて、生前貸していたDVDなどを返却してくれた。弟さん一家に囲まれて、楽しそうだった。

年上の人が家族を作るようにうるさく言ってくるのは、誰かを喪っても面倒をみる相手(みなくても、元気に振る舞う理由)を持つためなのかもしれない。そしてそれは、悲しみに足をとられて沈んでしまわないためにとても良い方法なんだろうな、と思う。

私は、一人でこんな風に書き付けたり考えたりする時間がある方がいい、その悲しみを真正面から見つめたい、と思ってしまうのだけど、思えば仕事が忙しくて、4月からは面倒をみなければならない「ボーイズ」もいて、彼らにずいぶん救われたのかも知れない。

ネット上でこうして多くの人と話せるし、やっぱりそんなに孤独でもないような気がする。

 

令和元年5月2日

 

朝4時に起きて、友人と益子の陶器市へ。

早朝の益子はまだ春の匂い。おしゃれな食器やさんに早朝から行列している人の列に加わる。

色とりどりの食器が可愛らしく野の花をあしらって並べられていたり、おしゃれなバンからカレーやコーヒーの香りがしていたり、満開の八重桜の下で花束やレモネードが売られていたり。絵に描いたような、幸せな休日の風景だった。

仕事が好きで一人暮らしで趣味は小説や映画で、それぞれぜんぶ楽しいけど、「生活」を疎かにしがちだ。生活を美しく豊かに育んでいる人たちに触れるのは楽しい。自分の生活に似合う食器や花を選ぶのは難しいけど、家族や友人のつくる料理をイメージして、楽しく買い物した。

夕食用に、道の駅でむかごのおこわと山菜の天ぷらを買ったけれど、おみやげの食器と一緒に家族にあげてしまった。

 

令和元年5月3日

 

友人たちと山の蕎麦屋さんでランチする日だが、数日前に連絡が来て、せっかくだから裏山でハイキングしてお腹を減らそうということになった。

アウトドア沼である。私はインドア派なので、アウトドア派の絡め手戦法には常に警戒している。

やつらは「ちょっと」とか「ついでに」と切り出すが、そうかちょっとなのか、と思って誘いに乗ると「どうせならいい靴を買ったほうが」「どうせならいいレインコートを」と「どうせなら」を繰り出してくる。金を遣わせて退路を断つ作戦だ。昨年も別の友人に真夏の尾瀬ハイクに誘われ、モ●ベルで5万くらい出させられそうになった挙げ句「みんなの足を引っ張らないよう、事前に近くの低山で練習してくるように」と言われ、ぶちキレてお断りした。涼しくて傾斜がないからついて行くことにしたのに、何故単独で気温40度の山に登らねばならぬ。

しかしよく考えてみると、私も「エンドゲーム観るなら前のアベンジャーズ3作も観たほうが」「話がつながらないのでシビルウォーも」「ウィンターソルジャーは名作だから」と自分の好きなことに関してはめっちゃ「どうせなら」している。そのへんの反省も含めて今回は母にトレッキングシューズやら帽子やら借り、素直についていくことにした(借りにいった実家でも、父に『どうせならいいのを一揃い持っておいても』と言われて軽くキレた)。

友人は初心者のサポートがめちゃくちゃ上手かった。綺麗な花があれば止まるなどして適度に休憩をとり、岩場では先に登ってみせて足をかけるポイントをひとつひとつ見せ、比較的ラクな場面では職場の愚痴を吐かせるなどして、なんとなくおしゃべりしているうちに低山ではあるが2つの山を縦走してしまい、まんまと「また来てもいいかな」と思わされてしまった。母に借りたもっさりスタイルの私に比べ、カラフルな装備の友人たちがとても可愛らしかったので思わず「どうせなら」とも思ってしまった。

思えばMCU沼に入った時も、好きな俳優の出演が決まったことを餌…いやきっかけに、友人が人物相関図などを面白おかしくまとめた手書きのノートをくれて、カラオケ屋さんでDVDを観せてくれ、私が好きそうなファンフィクのURLを山程送ってくれたものである。何事にも達人がいるものだ(ちなみにアウトドア沼に引き入れた友人は小学校の先生、MCU沼に沈めた方はピアノの先生だ。私が小学生並みにチョロいのかもしれない)。

 

令和元年5月4日

 

ブロガーさんであり尊敬する人・Yさんがこんどお引越しするというので、手伝いという名目で、本当はブログでちらちらと拝見していたお宅をこの目で見たくてお邪魔した。Yさんのダンナさま(『夫』という言葉に敬称をつけられないのでそう書くしかないのだけれど、このお二人に関してはすごく違和感がある。主従、という印象がまったくない)も大好きなのでお目にかかりたかったのだが、今すごくお忙しくて連休中もお仕事、ということで残念だった。

昼食と美味しいコーヒーをご馳走になって、ベランダの植物を植え替えたり、ホームセンターに行くついでに近所のお店や神社を見せていただいたりしながらたくさんお話した。

Yさんも数年前に学生時代のお友達を亡くされていて、ぽつぽつとしか話せない私の言葉を辛抱強く聞いてくださった。Yさんのご経験や自分の経験を言葉で聞いたり言ったりして少しわかったのは、傷は乗り越えるためにあるものじゃないのかもしれない、ということだ。たぶん心の傷は消えないし、忘れていても、思い出したように痛む。人と別れるということは、大なり小なりの傷を抱えていくことだし、生きていくということは、どうしたって傷を増やしていくことに他ならない。

いつ痛み始めるかわからない傷を抱えていても、普通に仕事をしたり、誰かと話して笑ったり怒ったり、映画にハラハラしたりする(あまつさえ、山に登って降りたりもする)。夕ごはんは、これもよくブログやTwitterで拝見していたお店のカレーを食べに行って、とてもおいしかった。断捨離するという本をたくさんいただいて、とても嬉しかった。それでも、忙しかったり楽しかったりおいしかったり嬉しかったりというのは、心の傷が癒えたということではないのだ。

SさんのことがなかったらこうしてYさんとご友人のお話をゆっくり聞くこともなかったし、聞いたとしても響き方が全然違ったと思う。傷のおかげで得られるものもある。

こうやって、おそらくこれから急加速するように増えていく傷たちと一緒にやっていくしかない。増えていく痛みをどうにかやり過ごしたり、時に良さに気づいたりしながら、受け容れていくしかない。

昼間の熱気が残る生温い夜の電車で、今日は眠らずそんなことを考えた。

 

すごく若い頃、バイトで貯めたお金で外国に資格を取りに行った。

どうにか慣れてきてクリスマス休暇に入った時、ルームメイトと長距離バスで隣の国へ、一週間の旅に出た。

わずかなお金と、現地で買った防寒着と、Sさんが持たせてくれた野点用の携帯お茶セット。持ち物は少なかったしまだまだ語学も心許なかったけど、可能性は溢れんばかりだった。

休暇第一日目の朝は輝かしかった。冷たい空気に震えながら、まだ暗い道でバスを待ちながら、私達はずっと笑っていた。古い石造りの長距離バスターミナルで、マクドナルドの朝メニューを食べた。ひょっとして、ドアを叩きさえすれば怖いものなんて何もないんじゃないか。そんなことを私たちは本気で話し合った。

その時の気持ちはまだ私の中にあって、でも「可能性」が閉じていくことや「別れ」を受け容れる気持ちも、今はある。

まっさらでぴかぴかな異国の冬の朝と、優しくて甘くて苦い春の夜は対になるものではなくて、どっちも私の中にある。いくつもの朝と昼と夜を積み重ねて積み重ねて、いつか消去される。何も残らない。

それは動かせない現実のはずだけど、実感はまだ遠くて、頭をよぎる一つの考えにすぎない。Sさんはひとりで現実に飛び込んで行った。私はいつまで混沌の中にいるんだろうか。

 

令和元年5月5日

 

12月に帰国したRちゃんが10連休に合わせて日本に遊びにきたので、夕方からウェルカムバックパーティーに呼ばれている。

なのだがなんだか起き上がれない。Yさんが本棚から好きな本を持っていっていいよ、とおっしゃったので遠慮するふりをしながらリュックにパンパンに詰め帰ってきたのだが、ついついベッドからその本たちに手を伸ばしてしまう。先日のプチ登山が楽しかったので手にとった『山女日記』を読み始めたら止まらなくなってしまい(何もする気が起きない時、何か手頃なことを始めると度を超えて耽溺してしまう)昼過ぎにやっと沸かした風呂にまで持ち込む。風呂の中で読み終え、ようやく身支度を始め、わたわたと出かける。

 

会ってしまえば久しぶりに会うRちゃんや彼女の友人たちは懐かしく、初めて会う人達も気さくで楽しかった。

そこにいた人たちの大部分が「ここにいることを選んでここにいる人」たちだ。なにか志があってこの国にきた、とかだけでなく、親の都合でこの国に住むことになって嫌だったけどどこかで肚を決めた、とか、配偶者の都合でこの町に長くいるけど故郷は別にあって、でもここに骨を埋めたいとか、一度嫌になって出ていったけどやっぱり戻ってきたとか。

その場所がどこであれ、私はその人たちがそういう選択をしたという事実を、無条件に好ましく思ってしまう。

 

Rちゃんに、共通の友人であるSさんが亡くなったことは話せなかった。

はじめのうちは賑やかな会だっだけど、真夜中過ぎの2時まで飲んで、沈黙が訪れるタイミングもいっぱいあった。みんなはビールだけど私はシラフだったので、ずっとどこかで「話さなくては」と思っていたし、一人また一人と帰っていって最後はRちゃんと私とごく親しい人たちだけだった。でも、言えなかった。

空気の流れがそういう形にならなかったのか、私に流れにのるだけの気力がなかったのか、わからない。

Rちゃんはまだ日本にいる。私の連休はもうすぐ終わるけど、これからしばらくは休みのたびに少しずつ時間を割き合って、共通の友人に会ったり、私の実家に遊びに行ったり、ラーメンやお好み焼きを食べたりするのだ。

その中で、話せる日が来るのかな。

 

 

 

 

 

 

2018年

1月

17日

誰かの中にある国

私は「クール・ジャパン」という言葉をよくわかっていない。

具体的に何を言っているのか、実体がつかめないというか。その言葉を使っている人と指し示そうとしているものの間に、とてつもない距離があるような気がしてしまう。

そんな私だが、『KUBO~二本の弦の秘密』という映画には、自分の背景を強く肯定されたような気がした。

KUBOの監督は、『魔女の宅急便』の宮崎駿が「自分の中のヨーロッパ」を描いてみせたことに感銘を受けて、「自分の中の日本」を描いたそうだ。だから、日本人の目で見ると、細部に小さな違和感はある。

しかし、「彼の中の日本」は美しい。私は彼の中の日本に魅せられ、その中に自分の物語のかけらを見つけた。それが嬉しい。

 

KUBOという物語は、桃太郎とかかぐや姫とか、もっと古い神話とか、いろいろな日本の寓話に似ているようで、どれにも収束せずに転がっていく。

同じように、私はクボには似ていないし、私の両親もクボの父と母に似ていない。

しかし、私には産んでくれた人たちがいて、私自身の人生がある。

どこで生まれどのように育てられたかとか、どれくらい成功したかではなく、ただ、誰かから生まれ出て、自分の物語を生きるということ。『KUBO』は人間の根源的なところを肯定してくれているような気がする。

 

たとえば、自分たちの村を壊滅させた月の帝が記憶をなくした時、村人たちが「あなたは良い人だった」と口々に語る所が私はとても好きだ。あれが唯一の解決法だとは思わない。私があの中にいて、帝に大切な人を殺されていたら、怒り狂うかもしれない。でも、きっと私たちの世界は「目には目を、歯には歯を」の論理に疲弊している。失敗してしまった人や自分たちの理解を越えた人を、闇雲に攻撃したり拒絶するのではなく、あんな風に受け容れられたらどんなにいいだろう。

防衛所の観点では間違っているかもしれない。あとでとんでもないことになるのかもしれないけど、とりあえず目の前で弱っている人を見捨てず、野放しにするでもなく、しなやかに、したたかに共存を模索する。彼らは理性的で尊敬すべき人たちだと、私は思う。

クボの母・サリアツもや父・ハンゾウも、魅力的な人だ。

弱々しい女性と見せかけて、実は元ヤン※(※違う)のサリアツも、飄々として全然威張らないハンゾウも、ステレオタイプな日本の夫婦をイメージさせておいて、実像は全然違った。この二人は、監督にとって理想的な男女のあり方なのではないかと思う。「日本人」ではなく、きっと普遍的な「善い人たち」を、この作品は描いている。

日本が理想郷として描かれているのではなく、この映画を作った人にとっての理想郷が日本に似たかたちをしている。自分の生まれた国が誰かからこんな風に思われるのは、とても嬉しい。

 

絶賛されている「折り紙」や「日本的風景」の描写はもちろんだが、監督の「日本」への目配りがすごく行き届いている、と感じた場面がひとつある。

それは「カンチョー」だ。

病んだ母親や村人の前ではいい子だったクボが、サルと旅を始めたとたんにやんちゃな一面を見せる(きっと、それが彼の本当の顔だ)。クボはサルに「カンチョー」を決めて怒られるが、米国人の友人によると、これは「日本の子どもあるある」なのだ。

かなりの数の小学生がALT(外国語講師)にカンチョーをキメている。そして、文化の違いから、時にマジギレされる。

アメリカの子どももカンチョーをしないわけではないが、よく知りもしない大人に対して行為に及ぶのはかなりハードルが高いそうだ。日本の子どもはALTに対して、学校の教師に対するのとは違った親しみを感じている。カンチョーは、日本の子どもと仲良くなった者だけが経験する『日本らしさ』なのかもしれない。ここに目をつけたスタッフは、彼らなりに日本のことを「深く」調べていてくれているのだろう。

 

2017年

8月

17日

相反するものたちの中で

お勧めをいただいて、『ハートストーン』を観てきました。

 

アイスランドの、おそらく、すごく小さなコミュニティーの物語。外界との繋がりは描かれない。(大人の持ち物として)冒頭にPCがちらっと出てきたりするので現代の話だとわかるけど、子どもたちがそういうガジェットを使ってる姿は一切ない。時代に取り残されたような風景も相まって、お伽話を観ているような不思議な気持ちになる。

 

大人たちは誰も彼も、酒とセックスにしか興味がない。揉め事があったら、拳で解決。主人公のソールは思春期に入ろうとしているのに一人になれる部屋もなく、部屋どころかベッドの上まで、二人の姉がうろうろしては、性の目覚めをからかいまくる。

こんなとこで多感な時代を過ごしたら、そりゃしんどいわ!ソールは偉いよ、私なら週イチでバスルームに閉じこもって片っ端からモノ壊しますよ!枕に顔押し当てて泣きたくもなるわ!!しかも創作を発表する相手が家族とか!(←それはアイスランド関係ないかもしれない)

 

そんな(一部のオタクにとっては特に)過酷な環境ですが、実に雄大な自然に包まれています。この大自然の描写が圧倒的。鬱屈した少年たちも、釣りしたり馬に乗ったりキャンプしたりする姿はホントに楽しそう。「恵まれた環境」で思い切り子ども時代を謳歌する様子も、ちゃんと描かれてる。

山や森や海は、一人になれる場所でもある。そこでだけ、一人で泣くことが許される。

でも、ほんとうに一人で、裸で放り出されたら生きていけない。

生きられたとしても、スヴェンのように変わり者認定を受けて、まともな人間扱いされなくなってしまう。この子たちにとって自然は、受け容れてくれる場所であると同時に、決して脱出できない牢獄の壁でもある。

 

そんな風に、この映画では相反する概念がみっしりと絡み合う。

どこにでも行けるけど、どこにも行けない。唾を吐かずにはいられないほどクソなことばかり起こるけど、そこにある風景は、容赦なく美しい。

何も選べないようでいて、子どもたちは日々、何かを捨てて何かを選ばなければならない。相反するものたちの間で押しつぶされないように。

何を赦すのか。誰を愛おしく思うのか。誰にキスするのか。

そうやって、「成長」に抗うことも出来ず変化していく子どもたちは、愚かで哀しい生き物だけど、その一瞬一瞬の表情がとてつもなく美しい。

 

よく「閉鎖的な漁村」とか「思春期の閉塞感」って言いますけど、閉塞って何なんでしょうね。

「ゲイだとばれたのでレイキャビクに行く」と、ほとんど島流しのような扱いで、都会の地名が出てくるけど、果たしてクリスチアンにとって、そこに行くことは解放なのか。

お伽話の世界のような「閉鎖的な田舎町」を出てしまえば、思春期を過ぎて大人になってしまえば、救われるの?

たとえば、私のいるここは自由で多様性に富んでいて、幸せな世界なのか。

こんな風に、同じ映画を観た人に感想を伝えられれば、それであわよくば「いいね」の1つや2つももらえれば、それが「自由」で「解放的」で、喜びに溢れた世界なんでしょうか。

開かれた環境にいるように見えても、恋が叶っても思い切り創作をしても、ひとは不自由なのかもしれない。

それでも、そういう風にしかできない私たちは、案外に美しいのかもしれない。

 

それに、相反するものたちは相反するだけじゃなくて、時々触れ合う。

厳しい冬を前にしながらも、舞い降りる雪を愛おしく思うように。

クリスチアンとソールのお互いへの想いは違う意味を持っているかもしれないけど、額に触れた唇の感触は、双方にとって、とてもとても大きなものだったに違いない。

あのキスはきっと、ひとつのしっとりとまるい石になる。時に甘く、時に狂おしい重みをもって、人生という川の分岐点に存在し続ける。

ふたりは身体も心も別々に成長していくけど、切なすぎる秘密を共有して、これからを生きてゆく。

 

それにしても本当に主人公の二人が綺麗。ソールはまだキューピーみたいなお腹しててコドモコドモしてるんだけど、劇中で確かに憂いのある表情を見せるようになる。

そしてクリスチアンの表現力!昔の少女漫画みたいな髪型だなって思ったけど、ほんとうに名作少女漫画から出てきたみたいに、繊細で雄弁な表情。この二人のこの瞬間を、動画で残しておいてくれてありがとう!

この環境で、この俳優さんで、この時間にしか撮れなかった。そういうものを見せられると鳥肌が立ちます。

 

2017年

7月

03日

終わりのある地獄

子どもの頃、『地獄』という絵本を読んだ。

釜茹でとか針の山とか色々あるが、もし地獄に行くならどの拷問がいちばんマシか、考えたことはないだろうか。私はかなり真剣に考えて、どれもイヤだが最悪なのは「運営サイド」だという結論に達した。真面目で融通のきかない子どもにとっては、「悪いこと」ニアリーイコール「人に迷惑をかけること」だったので、トゲトゲのついた棍棒で人を殴ったり、子どもたちが積んだ石を崩したりしてる鬼には、あとで地獄以上の怖ろしい刑罰が待っているはずだと思った。

仏教において人が鬼にクラスチェンジするものかどうかは未だに知らないが、死んだら地獄に行きたくない、鬼になるのはもっとやだ、というのが臆病な子どもに定期的に訪れる恐怖だった。

 

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を観て、久々に「鬼案件」を思い出した。今は、鬼に怖ろしい刑罰が待っているとは思わない。もし鬼に怖れる心があるとしたら、休みも終わりもなく人を傷つけ続けることこそが最大の罰ではないだろうか。

そんな風に考える人にとって、主人公の置かれた状況は最悪だが、彼を取り巻く人々は優しい。誰かが喜んでいようと絶望していようと、世界は「笑い」にも「悲しみ」にも振り切らないものだ。肉親の臨終の場面だろうと、いや、だからこそ、とぼけた笑いが生まれたりする。彼や彼女の苦しさを柔らかい布でくるみ、その上からそっと撫でるような、つくり手の慈しみを感じる。

しかし、優しさを享受できない心境の人間には、そんな状況こそがしんどいのかもしれない。絵本にあった「地獄」は、罪を犯してしまった良心にとっては親切設計だったのかもしれない。

仏教の「地獄」に行った人は、罪を償ったらまた生まれ変わるそうだ。この映画を満たす優しさも、かすかな希望につながっている。

 罪にも悲しみにも終わりはないけど、地獄には終わりがある。私たちはいつかそこから旅立たなければならない。

 

こんな想像をする。

もし、誰かが死のうかと思っていたら。

夜更けの部屋で一人、このまま朝が来ないで欲しいと願っていたら。

彼や彼女がつけっぱなしにしていたテレビに、この映画が流れて欲しい。

この映画はエンドロールも素敵だ。終わりの終わりまで味わって欲しい。

そうして、朝が来るだろう。静かで冷たい朝だろう。

喜びにも悲しみにも留まることのできない私たちを、揺りかごのように包むだろう。

 

2017年

6月

27日

見えないものが見えるようになる話

本や映画が好きだ。

服や食べ物や雑貨に関しては無駄遣いをしないように、すごく考える。少しでも「良い買い物」をしようとする。でも本や映画に関しては、比較的自分に甘い。

たぶん私は本や映画に期待をしている。服や食べ物や雑貨よりも効果的に、自分の生活を良くしてくれると思っている。

本や映画は、ひょっとしたら私を変えてくれる。読んだり観たりする前と後で、私に見える世界ががらりと変わっているかもしれない。そういう期待が、財布の紐を緩めている。

 

昨年から始めたTwitterでも本や映画が好きな人たちとつながっていて、リツイートなどを通して映画ファンの「旬の話題」がなんとなくわかるようになった。よく目につくのが、「邦題」と「日本での公開時期」への意見だ。

"Hidden Figures"はたまたま機内上映で観ていたので、『ドリーム~私たちのアポロ計画』という邦題がつき、「劇中に出てくるのはアポロ計画ではなく、それ以前のマーキュリー計画だ」という指摘により副題がカットされる、という公開前の一部始終を、興味を持って追っていた。

 

同時期に目にしたツイートに、『007 スカイフォール』でボンドが民間人のバイクを盗むのを糾弾するような人は映画を観るのに向いていない、というものがあって、これも興味深かった。

私も細かいことが気になるタイプだが、(少なくともこのケースでは)ボンドが民間人のバイクを盗んだことに「筋が通っていない」ことに気づけなかった。

「ボンドは人も殺すでしょ?重箱の隅をつついて茶化さないで」と言ってしまえばそれまでだが、ストーリーを追っていくと、どうして筋が通らないかわかる。その点に気づいて観るのと、気づかずに観るのではボンドやMI6の印象がほんの少し違う。すると、端々に気になる点が見えてくる。

私は「ボンドが民間人のバイクを盗むのが気になる人」に新たな視点を与えられて嬉しいし、面白がっている。でも、「そんな視点を持つなら映画など観ないがいい」というくらい腹を立てる人もいるのだ。

 

ひねくれた見方は受け容れがたい、という意見は、かつての映画業界が作りあげた必然かもしれない。

一時期、映画のCMは、映画を見終えた客たちが「感動しました」「泣きました」または「スカッとしました」などと、似たような感想を述べてみせるものばかりだった。すると何だか、それが「正解の感想」だと、観る前に刷り込まれてしまう感じがある。「ボンドが民間人のバイクを盗んだ所が気になりました」というコメントがあっても、おそらく使われないだろう。

映画をまだ観ていない人に「正解の感想」を見せて集客をしよう、という方法論の延長線上に、「全米第○位」「○○賞獲得」という太鼓判を待って公開するとか、「女性向けに、柔らかい題に付け替える」「日本人には馴染みの薄い題だから、わかりやすいものに変更する」という発想がある。

「(自分達の考えるところの多数派である)こういう人に、こういう基準で選んで、観たらこういう感想を持って欲しい」という前提ありき、なのだ。多くの興行主は、「その意図から外れた人」を宣伝の対象から外してしまう。

少数派の個性に構っている余裕など持てないほど集客が厳しいのだろうし、「個性の伸長より均質化」という傾向は映画業界だけの問題ではないが、たくさんの人に観に来てもらうための宣伝が映画に興味を持つ人を限定してしまうのは皮肉な話だ。

その後、映画の宣伝はSNS主導になった。SNSの発展で「見えた」ことは、人は誰かと同じように感動したいのではなく、むしろその逆だ、ということだ。

もし同じように感動して同じような感想を言ったとしても、それは独立したひとりひとりの行動だ。

「鑑賞前に人の感想を見る」行いに置いても、「見る」「見ない」「ネタバレを避ける」「〇〇さんの感想なら見る」というように、自らの選択を反映できる。テレビの感想CMとは全然違って、ずっと能動的だ。鑑賞というのは、能動的で創造的な行為なのだ。

 

映画を見ている数十分間、観客は、他人の人生を生きる。

どうして少年は椅子でクラスメイトを殴ったのか。セールスマンに店の名前を盗まれた兄弟はどんな気持ちだったか。自分の人生では経験し得ないことを、その時だけ「自分のこと」として感じる。

そうすることで、観客の人生観も少しだけ(時には大きく)変わる。

「変わりよう」はその人だけのものだ。泣くのも笑うのもひねくれるのも、その人の勝手だ。

興行主の期待通りの感想を持つとは限らない。数十分間映画の世界に浸ることで、そこから何かを見出したい。それが何であれ、自分には見えなかったものが見えるようになりたい。だから私は映画館に行く。

 

それで"Hidden Figures"だが、私には「宇宙」よりも「夢」よりも、もっと身近なことを描いているように見えた。

主人公たちを差別するNASAの職員たちは、スクリーンのこちら側から見ているとずいぶんひどい言動もするが、決して悪人として描かれてはいない。陳腐ないじめはむしろ描かれない。しかし彼らには、自分たちにとって当たり前な環境、当たり前な行動に問題があるということが「見えていない」。女性も黒人も人間として尊重されるべき存在であるということや、彼女たちの有能さが「見えていない」。それが彼らに見えるようになるまでを描いた映画だ。

"Was blind but now I see"だ。

私だって無意識に誰かを差別するし、されている。誰かの苦労を平気で消費しているし、されている。社会の枠組みに取り込まれて、見えなくなっていることがきっとある。

 

傲慢、いじめ、差別。

そういうものはやっている人にはそれとして意識されないし、映画の中でも、そういうものとして描かれない限り観客に「見えない」(ボンドの横暴を看破した人のように『見える』人もいるが、私には難しい)。

少年が椅子でクラスメイトを殴るのを見たら、その表情や動きから「何かあったのだろうか」と想像はできても、その行動に至るまでの事情は、彼の心情を映し出す描写を見ないとわからない。

主人公の視点を借りて何度もトイレまで歩いて、ようやく差別とはどういうものなのか、少しだけ実感できる。ほんの少し、「見える」ようになる。

 

Twitter上ではアポロなのかマーキュリーなのかという「宇宙のこと」に議論が集中してしまって、HiddenもFiguresも置いて行かれた格好になったことが、私はちょっと不満だ。

邦題に正解があるとは思わないし、代案がなければ議論に参加する資格がない、とはもっと思わない(実際私には『トイレまで何マイル?』しか思いつかない。どんだけトイレが気になったんだ)が、極端な話、べつに舞台がNASAじゃなくても(対象が宇宙じゃなくても、ロケットじゃなくても)彼女たちは真面目に計算をし、するべき事を全うしたのではないか。

「どんなに無視されようとも、傷つけられようとも、一人の人間として誇りを持って仕事をやり抜くのだ」という切実な思いを表現するのに、「夢」はあまりにも美しすぎて、つかみどころのなさすぎる言葉ではないだろうか。

Hidden Figuresという原題の良さは、その「地味さ」にもあると思う。

 

集中しづらい環境で(しかもチケット代も払わずに)一回しか見ていないので確信を持って主張できるわけではない(人類が宇宙に行くために貢献するのが私の夢なの!って主人公たちが連呼してたらすみません)。

公開されたら、映画館に行こうと思う。その時「夢を叶えるって素敵!」「輝く女性のための応援歌!」「NASAの感動秘話!」みたいなCMが流れていたらやっぱりちょっと影響されるのかもしれないが、私の見る"Hidden Figures"はきっと、夢の話でも女性賛歌でもロケットの話でもなくて、見えない人や見えない力が見えるようになる話だ(トイレが遠いのはすごく困るという話でもある)。

その世界だけに浸る数十分間を経て、彼女たちの物語は私自身の体験となり、現実を生きるために目を開かせてくれる。そういう風に、私は映画を観たい。

2016年

9月

28日

「しない」ことで描く幸せ

2016年前半は、旅行で国際線に乗ったこともあり、私にしては比較的多くの新作映画を観たのだが、ダントツに幸福な気持ちになれた映画はリブート版『ゴーストバスターズ』だった。

(ちなみに鬱々とした映画は『ロブスター』な。アレほぼ現実だからな、私にとっては)

 

前作との比較や女性映画としての分析にもすごく興味があるので、今後ネットで感想を漁りまくる所存だが、この胸熱が冷めないうちに、「どうしてこんなに幸せになれるんだろう」という気持ちを綴っておきたい。

実は、「そんなこと描くんだ!」よりむしろ「そこ描かないんだ!」ということに感動してしまった。

 

1.恋愛しない

この作品の宣伝が始まった時、なんかこう、「仕事に恋に頑張るワタシ」みたいなのを想像してた(そういう映画も好きです)。

「地味なオタクだった私が、頑張ることでキレイになれました」「恋愛なんて興味なかったけど、わかってくれる男性もいる」みたいな。「いくつになっても、オンナであることを諦めちゃダメ」みたいな。伝わるだろうか、このカタカナ遣いも含めて。

 

だって日本版公式Twitterのプロフィールが「オトコには弱いけど、オバケには強い理系女子が起業した……」だよ。

そりゃ彼女たちが「オトコには弱い」だろうな、とは容易に想像できる。オトコどころか対人関係全般ダメそうだ。

非リア充として、彼女たちのスタイリング、すごい生々しいと思う。

地味な者(でもカワイイ物好きで、長靴なんかはカラフルなの履いちゃう)、あまり構わない者、世間一般の支持するところの斜め上に突き抜けてく者。

いずれも「モテ」からは遠い。私の服装歴見てたのか、と言いたい(※全部やって現在アビー)。

そうやって「見てわかる作り」になっているものの、この映画は彼女たちに恋愛コンプレックスを語らせない。今彼女たちが直面しているもの、考えていることは、それじゃないからだ。あとエリン、お前のそれただのセクハラオヤジだが、めっちゃ共感するぞ。

 

2.リア充にならない

 この映画の主要登場人物は何かしらのオタクばかりだが、色々な意味で多数派に迎合しない(できない)ゆえに、彼ら彼女らが受けてきた「いじめ」がストーリー全体の前提となっている。

同じように「世界」から弾かれていたローワンとそんなに変わらない状況下で生きてきたろうに、自然に「世界が危ないから救おう」と考えるバスターズと彼との違いってなんだろう。何か決定的な要因がありそうなのだが、少なくとも映画の中では、それも描かれない。

それもいいかと思う。迷子の小動物を救おうと奔走するオタクも、自らの承認欲求に苦しむオタクもいるし、この二つの感情は一人の人間の中に同居すると、私たちは現実世界を通して知っている。

オタクは、世界を滅ぼすパワーも救うパワーも持っている。その一方で、市長たちのように「表世界」でバランスをとる役だって必要だ。この映画は誰も否定しない。

 

3.人に要求しない

「否定しない」といえば男性秘書(?)のケヴィンだ。

ケヴィンの強烈過ぎるおバカキャラは、長年かけて築かれてきた「可愛いだけのブロンド娘」像に対抗するために必要だったのだろう。でも、彼はその役割のためだけにいるんじゃない。

ケヴィンの美点は、主人公たちを品定めしたり否定したりという発想を一切持たないところだ。この作品が発表されて以来、新生バスターズが女性であることや、彼女らの年齢・容姿へのバッシングが後を絶たないらしいが、そういう人たちの対極に彼はいる。

ゴースト・バスターズの面々やローワンは「キモヲタ」で彼は「イケメン」だが、自分や誰かを社会の価値観と比較してどうこう、という発想が誰よりも薄い(ていうか、ない)のがケヴィンだ。私だって他人を品定めするので自省も踏まえて言うが、これって、すごいことだ。バスターズが「大好きだからケヴィンを助けたいんだ」と言うのには、ちゃんと理由がある。

 

そう、人間には「好きになる」という力がある。

エリンもアビーもホルツマンもパティも、(下ネタも言うしセクハラもするけど)純粋な愛情に溢れた女の子たちだ。その対象がおバカでもいい。男性でなくたっていい。自分の子どもでなくたっていい。人間でなくたって、別にいい。

エリンの変化がそう教えてくれる。彼女の仕事や仲間への思いが高まるのに反比例して、自分の正しさを証明したい、社会に肯定して欲しいという思いが薄くなっていくのが見てとれる。最後に残るのは、ただ「やりたい」「やった」「できた」というシンプルな喜びだ。

やりたい仕事がある。下ネタ……もとい本音を交わせる仲間がいる。多分、それだけで十分幸せなのだ。ワンタンの数は譲れないけど。

 

幸せとは、自分の力を思いっきり注げる「何か」があること。

その「何か」を変に限定しようとする価値観を、自分がいかに内面化してしまっていたかを痛感している。

オンナだったら、恋するべきだ。

オタクだったら、リア充に引け目を感じるべきだ。

オトコだったら、常に女の上をいくべきだ。

安定した仕事に就き、誰からも肯定され、認められて生きるべきだ。

『ゴーストバスターズ』は、そういう窮屈から私を解放してくれる。

 

 

私は、女も男も、リア充もオタクも、否定したくない。恋愛することもしないことも、否定したくない。恋と仕事を両立するのはもちろん素敵だけど、しなくたっていいのだ。

他人の評価から自由になって、自分で選んだ「何か」を思いっきり愛することができたら、きっと幸せだ。ローワンですら、彼を蔑んでひそひそしていた周りの人たちよりずっと楽しそうに生きていたと私は思う。エンディングのクリヘムダンス、あれケヴィンじゃなくてローワンだもんね。

 

ただ、ローワンには「愛」が欠けていた。

登場人物のトラウマを過剰に描写しない、必要以上に自分語りさせないのもこの映画のいいところだが、最後の最後に「愛について」熱弁するのがホルツマン、ていうとこが痺れる。

そしてラストシーン、彼女たちへ「世界」からの心温まるプレゼントがあるのがまた粋だ。オトコにではなく、誰かに押し付けられた物差しにでもなく、でも確かに「世界」に向けられている彼女たちの愛情は、決して片思いじゃない。

 

2016年

4月

30日

みんなが持ち場を守ること

『アイヒマン・ショー』を観た。

「興味あるけど、ホロコーストの資料映像を含んでいると聞いたので、観る勇気が出ない」と言う友人がいるので、感想は彼に向けて書きたいと思う。

 

強制収容所のショッキングな写真や映像が出てくるが、この映画はホロコーストそのものを描いているわけではない。直接描かれているのは、かつてホロコーストに関わった人々と、その周縁に点在する人々だ。

周縁と書いたが、円の中心にいるアイヒマンが真っ黒な存在で、そこを起点に少しずつ白くなっていくようなグラデーションが描かれるわけではない。

 

法の定義は置いておくとして、ある出来事に関わった人々のうち、誰までを当事者と呼べるだろう。裁判を報道することに道義的責任を感じる一方で、視聴率稼ぎの「ショー」とも捉えているプロデューサー。アイヒマンの感情を暴き出すことに固執する監督。『ガガーリンの方が面白い』と笑い飛ばした後で、被害者の証言に打ちのめされる視聴者もいた。その背後には、生存者の体験を信じずに傷つけた、大勢の人々がいた。彼らはホロコーストとまるきり無縁と、いえるだろうか。

 

友人に向けての、私なりの結論を書くと、この映画は怖い。

加害者への憎悪や、被害者への同情を煽ることはない。しかし、裁判を見ている善でも悪でもない人々を描くことで、それをまた見ている「実在の」私たちもその延長線上にいる、つまり、黒ではないにしても白でもないことを、思い知らせてくる。

だからこそ、終盤に現れる「実在の」生存者の証言や死体の山の写真は、怖い。それは、スクリーンの向こう側にいる演技者たちではなく、こちら側の世界の私たちに起こった……だけでなく、私たちに起こるかもしれない、私たちが起こすかもしれない出来事だと、この映画は言っているのだ。

 

この世界に起こるすべてのことにおいて、私たちは加害者であり、被害者だ。当事者であり、傍観者だ。だから世界は混沌としていて、怖い。自分だけは正しいと、そしてその正しさは崩れないと、大丈夫だと、私たちは思いたいのに。

監督のレオは、アイヒマンの人間的な表情を捉えることで、彼なりの納得を見出そうとする。私たちは、ハンナ・アーレントの見解やミルグラム実験に納得を見出そうとする。

納得は救いだ。劇中で強く言い放たれる"learn"という言葉。人間は過去の過ちに学ぶことができる。もうへまはしない。だから希望はある。そう信じることにしか、救いはない。

レオつながりというわけではないが、レオ・レオニの『スイミー』という童話の一節を、私は思い出す。

 

スイミーは言った。 

「出てこいよ。みんなであそぼう。おもしろいものがいっぱいだよ。」 

小さな赤い魚たちは、答えた。 

「だめだよ。大きな魚に食べられてしまうよ。」 

「だけど、いつまでもそこにじっといるわけにはいかないよ。なんとか考えなくちゃ。」 

スイミーは考えた。いろいろ考えた。うんと考えた。 

それから、とつぜん、スイミーはさけんだ。 

「そうだ。みんないっしょにおよぐんだ。海でいちばん大きな魚のふりをして。」

スイミーは教えた。けっして、はなればなれにならないこと。みんな、もち場をまもること。 (レオ・レオニ『スイミー~ちいさなかしこいさかなのはなし』谷川俊太郎訳)

 

結局のところ私たちも、生まれ落ちた、または流れ着いた環境で、そこで得た知識と体を使って、自分の持ち場を見つけて守っていくしかない。プロデューサーとして、監督として、カメラマンとして。

妻として、息子として、娘として。ホテルの女主人として、絨毯売りとして、コーヒー屋として。

時に加害者として、時に被害者として。

そして、考える。いろいろ考える。うんと考える。過去の人達が行ってきた選択を思いながら、私たちも人間としての選択をする。

それでもいつか、大きなものに飲み込まれてしまうかもしれない。

浮き輪のようにアーレントの本を抱えていても、彼女のように強くはいられないかもしれない。でも、考えたことに、学んだことに、少しは救われる。ギリギリのところで、きっと。

 

私には、この映画の登場人物すべてが、大きな魚が通りすぎた世界をふらふらと泳ぎだした、小さな魚たちに見える。

あえて、大きな魚の姿は描かれない。だから、水槽の外の小さな魚である私たちは、自分たちのいる水槽に、静かに思いを馳せる。そういう映画だと思う。

 

 

 

 

 

2016年

4月

03日

これでいいのか?

大ヒットした深夜アニメ、『おそ松さん』最終話の評価が分かれている。

(『おそ松さん』という作品自体については放映中にも記事を書いたので、よろしければご参照ください→過去記事:『おそ松くん』と『おそ松さん』の間

『おそ松さん』は『空飛ぶモンティ・パイソン』のように、短い話をつなげた構成で、個々のエピソードは基本的にリセットされる。キャラクターが骨だけになってしまったり、結婚したりしても、次のエピソードではちゃんと通常の状態に戻っている。

ただ、キャラクターの「意識」は過去のエピソードの記憶を保っているので、死んだり結婚したりしたことも全く別次元の話ではないらしい(この漠然としたつながりも、パイソンっぽい)。

その不確かな連続性の中で、キャラクターのちょっとした成長や関係性の変遷が、繊細に描かれている。特に、四男の次男に対する複雑な感情の描写はさりげなくも丁寧だ。表向きはあくまでギャグアニメの枠を出ないが、ひそかな連続性のおかげで、二人の関係の変化がわかる。「裏(描かれなかった時間の中)で何が起こっているか」に思いを馳せずにはいられない。私も「萌えた」。

 

しかしこの連続性は腐女子のためだけのものではない。六つ子のニート生活がお気楽に描かれる中で、それぞれが「これでいいのか?」という意識を持っていることが、うっすらわかるようになっているのだ。

最終回の1話前にあたる第24話は、その「これでいいのかパート」を総括するような内容だった。

ただ一人、就職活動を続けながら自らの意識と向き合っていた(その行動がギャグとして茶化されていた)三男の就職が決まり、それを契機に弟5人の自立への決意と、心を閉ざしてみせる長男の様子が切なく描かれる。そのまま最終回までの一週間、「私たち」(あえて『腐女子』と括らない。六つ子を見守ってきた人々には色々な人がいる)は、踊りに踊らされた。

もう、六つ子が何をやっても可愛いというか、とにかく泣かせたくないというか、むしろ私が養いたいというか、そういう精神状態に持って行かれているのだ。そりゃ騒ぐ。

そしてついに訪れた最終回は、前回のシリアス展開を開始後1分でひっくり返す、ハチャメチャなストーリーだった。なんだかよくわからない始まりで、やけのようにギャグを連発しまくり、なんだかよくわからない結末を迎えた。

そういう展開の中でも、かつて退場したキャラをちらりと出したり、1期と2期をリミックスしたエンディング曲でお別れするなどのサービスでずっと観てきたファンの「労に報いた」点は見事だったと思うが、ストーリーそのものへの評価は分かれる。

ストーリーテラーとしての製作者は、「これでいいのかパート」の回収を放棄している。広げた風呂敷をたためなかった、と受け取る人は納得行かないはずだ。

擁護する人ももちろんいる。「少なくとも六つ子が別離を迎えずに済んだ」ので喜んでいる人は多いと思うし、もともと『おそ松さん』はナンセンスなギャグアニメとしての骨組みを持っている。2クール目の初めで「自己責任アニメ」と言い出したあたりで、「終わり方」は意識されていたのだろう。

いいか悪いかの議論なら、「これでいいのだ」という赤塚イズムを持ちだされた時点で、「これでいいのか」派は屈服するしかないのだ。

 

だから、私はあえて「これでいいのか」派として物を言わせてもらいたい(本音では、六つ子ちゃん可愛いでちゅね~、もう何でもいいんでちゅよ~、と思考停止していることも否定しないが)。

「これでいいのだ」は『天才バカボン』のバカボンのパパの決め台詞だが、そもそもどんな文脈で使われるのが正しいのだろうか。

 

原作『おそ松くん』を描く上で、赤塚不二夫はさまざまな表現に挑戦してきた。

赤塚不二夫公認サイト「これでいいのだ!」でいくつかのエピソードが紹介されているが、ナンセンスギャグが苦手な私でも「面白そう」と思ってしまう。名画や小説を下敷きにしたストーリー、緊張感溢れるコマ運び、感動を呼び起こすために計算された構図。

笑いというのは、一旦徹底的に構築された世界を崩すことでしか極められないものなのだろう。

公式サイトを閲覧するだけで赤塚不二夫の世界が理解できるとは思わない。もっと、漫画そのものに触れる必要があるだろうし、漫画家本人の人生を知るための資料にもあたらねばなるまいが、現時点での私の理解では、赤塚世界とは、「これでいいのか?(社会に直接訴えかけるシリアスな問題提起や、繊細な感情表現」と「これでいいのだ(現実の不条理を知った上で、すべて受け容れる、はちゃめちゃで大らかな世界」が何層にも積み重なった、ミルフィーユのようなものだ。

『おそ松さん』スタッフは、そのミルフィーユを丁寧においしく積み上げることで、赤塚世界に敬意を払ってきた。でも、24話から最終話の流れでは、「これでいいのだ」を、「これでいいのか」からの帰結ではなく、自らのストーリーテリング能力不足を隠すための免罪符として使っているように見える。綺麗に仕上げるべき「一番上の層」でそれをやってしまったことが、「これでいいのか」派が一番ひっかかっている点ではないだろうか。

私たちは『おそ松さん』スタッフを優秀な菓子職人として信頼してきた。

でも、表面にどんな飾りつけをして終えても、見た目の好みは分かれるだろう。だからこそ、味で勝負して欲しいのだ。

 

しかし、この「事変」はいかに彼らが私たちの心を揺さぶることができるかという証明になった(ひょっとしたら計算づくだったのかもしれない。そう疑ってしまうほど、『おそ松さん』スタッフには余力をうかがわせる何かがある)。きっと、2期からは安心して、よりファンを信頼した上で、さらにおいしいお菓子を作ってくれるだろう。貪欲に、期待していたい。

2016年

4月

02日

優しい嘘

『Mr.ホームズ』は家の近くで上映していなかったため、朝から電車に乗って新宿に出向いた。

うらうらと、暖かい春の日だった。アパートを出たら、外で遊んでいた子どもたちが、手折ったたんぽぽをくれた。畑で働いていた人が、両手いっぱいに抱えるほどの菜の花を分けてくれた。急ぐ必要はなかったので、一旦家に戻り、コートを着たままたんぽぽをコップにさして、菜の花をゆでた。

ひどく、のんびりした気分になっていた。頭のどこかにいつもあるはずの苛立ちや焦りは、とろんとした眠気に包まれて、ずいぶんと遠く感じた。いつか年をとって、仕事や色々なことを辞めたらこんな感じかもしれないなと、ふと思う。

春眠暁を覚えず、という言葉をいつか習ったけれど、子供の頃は春に眠いと思ったことがなかった。田舎で育ったせいか、体はいつも周りの自然と連動していて、春になればうずうずと何かをしたくなり、夏には一層その気持ちがつのり、秋になるとすこし落ち着いて、冬はすぐに眠くなった。

動植物が息づくのに抗うように動きが鈍くなるのは、たぶん私の体が、生のピークに向かうのでなく、死に向かう下降線を辿り始めたからなのだ。

 

映画は、そんな春の日とつながっているかのようだった。

「ホームズ映画」といえば、薄暗い霧のベーカー街、キビキビと走り回る名探偵だが、『Mr.ホームズ』は、陽光と美しい花々に彩られている。私達の知るホームズには、そんなものは似合わなかったはずだ。それが、うっすらと悲しい。

みっちょんさんこと関矢悦子さんは、この映画を「ホームズ、ウメザキ、アンの三人が持っている『悲しみと喪失感と孤独』に対して、三者三様の安らぎ(救済)を得られるストーリー」と評された。

私達の知るホームズは、いつも人を救う側の人だった。その行為によって、彼は彼自身をも救っていた(仕事でも家事でも子育てでも、人の営みにはそういう側面があると私は信じる)。

でも、93歳の彼は体も頭も鈍っていて、もう、探偵として人を救うことはできない。名探偵という肩書はすでに虚しく、彼はただの「ホームズ」だ。そうなってしまった人間は、もう救われないのだろうか。人生の終わりに待っているものとは、悲しみと喪失感と孤独だけなのだろうか?

 

知性という武器を失ったホームズは、「新しいやり方」でウメザキを救おうとする。

そのやり方を使っていたのは、今はもういない相棒のワトスンだ。

ワトスンの書く物語はいつだって曖昧だ。真実という分子は、とろんとした嘘にくるまれて、時にかたちが見えなくなる。ホームズは、ワトスンのそんな姿勢を批判してきた。

ホームズだって上手に「嘘」を使うし、茶目っ気や気遣いがないわけではない。おそらく、自分が導き出した真実よりも、読者の興味や誰かを慮るための嘘を重んじる親友に、ちょっと拗ねてみせる気持ちもあったのだろう。『白面の兵士』という隠遁後のホームズ自ら筆を執った作品では、ホームズはそんな自分を少し反省しているようだ。

 

「じゃ自分で書いてみたまえ、ホームズ君」こう反撃されてペンはとったものの、書くとなるとやはりできるだけ読者に興味を与えるようにしなければならないということに、いまさら気のついたことを告白せざるを得ないのである。(『白面の兵士』延原謙訳)

 

実際の出来事を書く場合でも、読者を楽しませる形で表現する必要がある、と学ばされたのだ。それが避けられない条件だと気づくと、私はたった2作発表しただけでジョン風の物語を書くのはきらめ、あの親切な医者に短い手紙を送り、これまで彼が書いたものを揶揄したことに対して真摯な謝罪の念を表した。(『ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件』ミッチ・カリン作 駒月雅子訳)

 

かつて、アンの手袋をそっと隠したワトスンの「優しい嘘」。

それは、彼の気遣いが消沈した親友を相手に発揮されたものとみていいと思う。ワトスンの優しさとアンの孤独は、手袋の形をして、いつもホームズのそばにある。

逝ってしまった人は、不意に語りかけてくる。音楽や、遺品や、その人を知る誰かからの手紙の中に、その人はいる。

正確には、生きている私たちが、その人を思い描いているだけなのだ。でもいつか、本当に本当に救いが必要な時が来たら、正確であることがどれほどの意味を持つだろうか?アンのように、ウメザキのように、物語にすがるのは、いけないことだろうか?ホームズの追い求めていた真実と、アンが見つめていた彼女にとっての真実は、どこかでつながってはいないだろうか?

すべての真理をつかむには、私たちはあまりにも小さい。だから、頭と体の動く限り、追い求めるしかない。それぞれに与えられた環境で、それぞれにできるやり方で。

 

しかし、人は何かを深く追えば追うだけ、背後に置き去って遠く離れてしまったように思えるものを、強く求めるのかもしれない。ホームズにとって、それは「真実」と「嘘」だったのだろうか。ドイルにとってのそれは、何だったのだろうか。いま私が置き去りにしようとしているものは、何だろう。

原作と映画の結末は違う。その変更も、ホームズや私達の思いをとろりと包み込む、優しい嘘に思える。

焦りや怒り、失望や悲しみはこの世だけのもので、逝ってしまった人達は、とろりとした膜の向こうで微笑んでいる。そう信じて祈ることこそが、きっと、最大の「優しい嘘」だ。

 

2016年

2月

29日

接骨院でアウェイになる

しばらく更新していなかったのは、SHERLOCKのスペシャルにかまけていたからではなくて、骨折していたからだ。

 

正確に言うと、骨折していた「らしい」。

足の甲をひねってしまい、3週間ほど経っても腫れがひかないので近所の接骨院に行ってみたところ、「これは折れてたはずだ」という診断だった。

剥離骨折というやつで、折れたというよりは、筋肉に負担がかかったついでにそこにくっついてる小さい骨がポロッと取れたらしい。

 

そこから先は非難の嵐である。なんでもっと早く来なかった、なんでもっと早く医者に行かなかったんだ、と、あっちこっちで怒られまくりだ。

しかし、こちとら天下のインドア派、怪我の素人である。どのくらい痛ければ捻挫で、どこからが骨折なのかなんてわからない。我慢できる痛みだから医者に行かず、腫れがひかないから接骨院にかかったまでのことだ。

 

……そう開き直れるのはここが医者も職場の人も家族も見ていないブログだからで、現実では、久しぶりにアウェイの不安を味わった。

 

かつて、私はいつでも自分がアウェイにいると感じていた。

「邦楽はダサくて洋楽はカッコいい」という理屈がわからなかった。

「○○ちゃんは△△くんのことが好き」など、皆が「見ればわかる」と言うことが見てもわからなかった。

母に料理を教わっている時の「だいたい」とか「いい加減に」とかがわからなかった。

 

大人になるにつれて、なんとなくわかってきた。

洋楽カッコいい論に、特に根拠はない。誰が誰を好きか推測するのに必要なのは、視覚ではなく興味。「だいたい」や「いい加減」は、経験で身につける。私は異端者だったわけではなく、単にレトリックの理解力が欠けていたのだ。

 

しかし、人生半ばにして圧倒的な「世界と私の間に立ちはだかる壁」に直面している。はっきり言うと、接骨医と全く話が通じない。

 

コミュニケーションの困難さは、以前歯科医にかかった時にも感じていた。

「痛かったら言ってください」と言われたのでどのように痛いか説明しようとすると、「そんなはずはないです」と言われてしまう。

痛みを説明するのって、ものすごく難しい。

変に凝った言葉遣いをしようとせず、素直に、シンプルに伝えようとするのだが、いつの間にか「医者に喜んでもらうために」正解を探しているような気がしてくる。

今回も、そんなに痛くないから来なかったはずが「痛いはずだよ」と言われると、なんか痛くなきゃ申し訳ないような気がしてくる。「痛いはずなのに痛くない」ことが、重要な病気や怪我の発見につながるんじゃないか?という思いもちょっとあるので、正直に「そんなに痛くない」と言いたいのだが、圧倒的な「お前よりオレのほうがよくわかってる」オーラの前に、なす術もない。私の体なのに。

 

落ち着け、私。過去を振り返れ。家族を、教師を、友人を、上司を、ネットの人を振り返れ。「オレはわかってるオーラ」なんて、大抵はこけおどしだったではないか。そのこけおどしのために無駄に傷ついて、無駄に萎縮してきたじゃないか。

 

ただ、お医者さんにとっても私はイヤな患者だろうなと思う。

3週間も放っておく時点で、自分の体に興味がない奴、と思うだろう。

それは、体というものに興味を持って今の職業を選んだ人にとっては、ある種の侮辱なのかもしれない。自分の体すら愛していないお前に、オレの仕事がわかってたまるか、お前の体はお前が責任を持つべきなのに、おざなりにしておいて「さあ治せ」と開き直られても困るぞ、といったところか。

 

お医者さんは「体」のプロなのだから、「言葉」に固執してウジウジしても、仕方ないことなのだ。

それにしても話、通じねえ。もう考えるのが面倒になってきたので、電気治療の間、脳の暇さを紛らすため「おそ松さんをハリウッド映画化するとしたら誰をキャスティングするか」を延々妄想することにした。

チビ太役はマーティン・フリーマンにオファー。この人以外ない。断られたらこの企画は白紙に戻す覚悟である(※もともと白紙です)。

五男役でオーディションを受けに来たクリス・ヘムズワースがまさかの長男役を射止め、六男役は紆余曲折を経てベン・ウィショーに。 ←NEW!

 

……この辺りで思い出した。幼少期の私は、圧倒的なアウェイの人生を、妄想で暇つぶししていた。いつの間にか学生になり、受験生になり、大人になってやりたいことらしきことを見つけ、忙しくしているつもりだったが、本職(?)はこっちではなかったか。

どうせ私はこの世界の正社員にはなれないのだ。派遣とかパートとかバイトですらない。ひたすら終わるのを待ってる子どもが、私の「そもそも」だったのではないか。

とりあえず、長男と次男と三男と四男と五男のキャスティングで完治まで持ち込むつもりである。

 

 

 

 

 

2016年

1月

03日

年末年始だけ、ごはん日記

12月28日 (一人パーリィで痛い目に合う)

 

仕事納め。

誰かと「良いお年を」と言い合って別れるのは嬉しい。仲良しの人も、そうでもない人も、しみじみ大切な人に思える。ふわふわと温かい気持ちは帰り道も続いていて、今まで作ったことないレシピに挑戦するべく、スーパーに立ち寄った。

練りウニをいただいたのだがほとんどお酒が飲めないので、ウニクリームパスタを作ってみることにした。以前無印良品でレトルトのを試しておいしかったのだが、そこそこ高い上にコレステロール値が気になるのでずっと食べてない。今日は解禁だ。

贅沢して生クリームを買って、フライパンの上で練りウニとまぜ、ゆでたパスタを和えてみた。

材料の値段に比例してすごくおいしくなるはず、と期待したがそうでもなかった。少なくとも、レトルトより乳脂肪分が高そうな味はした(実際高い)。おいしくないのにカロリーはしっかり高いものを作ってしまった自分に腹が立ったが、勢いで完食した。

贅沢ついでにカットパインも買ったのだが、こちらはすこぶる美味だった。根拠はないがウニパスタの無念とカロリーを中和してくれるような気がして、食べ過ぎた。

そうしたら夜中にお腹が痛くなって、それに相まってパイナップルの酸でのどや胃の粘膜がひりひりしてものすごくつらかった。消化器官の内側が、口からお尻まで一直線に全部つらい感じだった。ついでにトイレが寒くて、外側も地味につらい。

痛いのはお腹だけでそれ以外はまあ我慢できるのだが、私が何をしたんだ、と恨みたい気持ちでいっぱいだった。何をしたかも実はわかっているので余計にやるせない。脳までつらい。

 

12月29日 (ほぼ断食)

 

パイナップルの後遺症か、まだちょっと胃が痛い(本当は消化器官全体が痛いと言いたいのだが、それは気のせいだと看護師の友人にきっぱり言われた)。パイナップル恐るべし。

明日、お寿司の約束があるのでできれば復活したい。様子をみながら、白湯とか、小さいカップのヨーグルトとか「摂取する」。

大掃除を今日やるつもりだったので、これは痛いロスだ。夜になってようやく、クローゼットの整理とかしてみる。

 

12月30日(大掃除が始まらない)

 

復活した。しょっちゅう具合の悪いようなことを書いているのでご心配いただくこともあるが、胃腸は強いのだ。

近所にあるタッチパネルで注文するタイプの回転寿司に、初めて行ってみる。友人の9歳になるお嬢さんが、慣れた様子で「海老天」を注文して度肝を抜かれた。海老天が乗っかったお寿司が出てきた。タッチパネルの操作を完全に彼女に任せて、大人は口頭で好き放題注文する(9歳児に)。

 

 帰りにスーパーの特設コーナーでわらびもちを買って、大掃除中丸出しのわが部屋でお茶を飲んだ。フードコートみたいなところで『スピン』という米菓子みたいなのも買った。同世代の友人たちは懐かしい、と言っていたが、私にはあまり記憶がない。ざっくりした歯触りでおいしい。

それから皆でゲームをした。動物の生態を当てるゲームなのだが、9歳の子どもに対していい大人のNくんとSさんは一切勝ちを譲らなかった。私は友人二人のこういうところが好きなのだが、9歳の彼女は大泣きし過ぎて吐いた。なかなか病人モードから抜け出せないわが部屋、としみじみ思いながら、夜カーペットを洗う。

 

12月31日(脂との闘い)

 

スーパーに大書きされていた「おせちもいいけどカレーもね」というフレーズが頭を離れなくなってしまい、おせちの準備を放っておいてカレー食えって意味じゃないよな、と了解はしているものの、昼はカレーを作った。と言っても買ってきた材料はおせち用なので、トマト缶と鯖の水煮缶で作るサバカレー。

昨日Sさんが生クリームの残りを泡立ててくれていたので(クリスマスにいただいたパネトーネというお菓子につけて食べた)、思いついてマッシュポテトに混ぜてみたらものすごくおいしかった。ジョエル・ロブションはおいしいマッシュポテトを作るコツを「バターをたっぷり入れること。50パーセントまではバターを入れてよい」と語ったそうだが、生クリームもいい。口当たりがふんわりする。

しかし、これは人をダメにする食べ物だ。5万円のディナーでぽちっと出てくるならともかく、こんなん家で日常的に作って食べたらダメになる。具体的には、映画「セブン」で暴食の罪で殺された人みたいになる。誰か私に記憶を抹消する光線を当てて欲しい。

 

夕ご飯は実家に行って年越しそばをいただく。アパートに帰ってから実家のおせちの担当分(私が独立して台所が二つになったため、分担している)を作る作る作る。

 

・柚子なます

・筑前煮

・オレンジチキン(SHERLOCKのジョンのブログに『パンダ・エクスプレス』に似た名前の中華料理屋さんが出てきて、懐かしくなっておせちに入れてみたところ、好評だったので毎年作っている。オレンジジュース入りの甘酢だれで和えた鶏の唐揚げ。私は青ネギもたっぷり添える)

・豚肉の野菜巻き(八幡巻の豚肉版みたいなやつ。照り焼きにする)

 

……こうして見ると、台所が汚れそうなやつばっかりじゃないか。母に謀られたか。(掃除したばかりの換気扇!)揚げ物する鍋がなくてフライパンでやったので、すごく油が跳ねる。そこら中水拭きし過ぎて手がガッサガサだ。

 一応紅白歌合戦を流しっぱなしにしていたが、エアコンの風が一番よく当たるところにカーペットを干していたら、音すらほとんど聞こえなかった。

 

お祝い用の箸を買い忘れていたので、折り紙で箸袋を折りながらの年越しになった。

どの番組を見ながら年越しするか考えあぐね、結局NHKを観ていたら、予約録画のために画面が切り替わって「キャプテンアメリカ・シビルウォー」の物々しいトレイラーを観ながら年が変わった。まあいいか。

 

1月1日(働き者の友人と甥)

 

雑煮の準備をしようと、「小松菜をさっとゆでて絞る」(←レシピ棒読み)。

コンビニ頼みで平日はほとんど料理しない私だが、料理中の食材とはきれいなものだなあ、と思う。

私は本の装丁を見るのが好きで、美術品よりもずっと興味があるのだが、それはきっと背景に「読む」という楽しみが隠れているからだ(たぶん、音楽とか美術とか、感覚へ直に切り込んでくる芸術と正面から取っ組み合うのが私は苦手なのだ)。

食べ物を美しいと思う気持ちにも、「食べる」ことへの期待が含まれている。

その美しさが、どんどん姿を変えていく。この手でそれを引き受け、見る、触る、音を聞く、匂いを嗅ぐことで「おいしそう」という気持ちが高まる。

正月の朝の、おせちがあるから暖房できない台所のきりっとした寒さもいい。食べるだけの人は、この楽しみの一番終わりのとこしか味わえてないのだな。だからといって今年からもっと料理します、と断言はできないが。

 

大家さんの餅つきにお呼ばれ。新年早々よその家族にお邪魔するのも申し訳ないのだが、通りすがりの人にも餅をつかせたり、飲み物を出したりする太っ腹な御一家なので甘えさせていただいている。こういうお正月を知らずに育ったので、毎年いちいち感動する。昔話の庄屋さんみたいだ。

幼馴染のSさんとYちゃんが合流。

飛び入りの友人たちはたいそう有能で、餅とり粉をまぶしまくり、大福を包みまくり、余った餅をのしまくり、「彗星のように現れた期待の新人」と絶賛されていた。

つきたてのお餅をからみ餅、大福、お雑煮と抜かりなくいただいた。

アパートに戻って料理をつまみながらダラダラしたが、ここでもSさんとYちゃんのスキルが遺憾なく発揮され、かまぼこをウサギの形に切ったり、いくらやアボカドを飾ったりして、いつSNSに投稿しても恥ずかしくないような写真を撮ってくれた。

幼馴染たちがデキる女なのはわかってるんだが、この「いいタイミングでさりげなくいい感じの写真を撮る」技術は、どうやって身に着けたのだろう。いつの間にか、女友達という女友達が同じテクを習得している(私の友人に限った話かもしれないが、男友達はそうでもない。出されればただ食う)。皆が一斉に携帯を出すと、私も目の前にある光景が惜しい気持ちになって同じ構えをとるが、完全に後手後手だ。

 

夕方からは実家に行って、両親と弟夫婦、やたらとペラペラしゃべるようになった甥っ子に会った。甥っ子は英語でしゃべると大人にウケがいい、ということを自覚していて、"Coffee please"と頼むとコーヒーメーカーのところまで走っていき、"Here you are"と(コーヒーに見立てた何かを)渡してくれる。その後はこちらが飲む振りをして"Yummy"と言うまでわくわくと見守っている。

何度も繰り返して飽きたので逆にこっちから"Here you are"と渡したら、しばらく考えた後で一口だけ飲むふりをして「にがい」と言った。

 

ホットカーペットの上で毛布をかぶってうとうとしながら、「エージェンツ・オブ・シールド」の一挙放映を観る。

 

1月2日(急にエンジンがかかる)

 

もちなしのお雑煮をおつゆがわりにして、朝食。

小松菜やかまぼこの残りも入れたらすごく具沢山になった。

おせちの残りをご飯で食べるのが好きなので、幸せだ。

昆布巻きとか煮しめとか、ちょっと余ってしまう系のおせち料理が好物なので、太るの覚悟でたくさん食べた。

一人用の冷蔵庫は余った料理と材料ですぐにいっぱいになる。

隙間作り最優先で「材料検索」し、「鶏肉と大根のさっぱり煮」を作る。

 

友達のブログに表示されていた広告に触発されて、防災袋を作ってみた。

と言っても、リュックとかラジオつき懐中電灯とか、ちゃんとした防災グッズはまだ買っていない。

アルミのシートとか、軍手とか、除菌ティッシュとか、ホテルでもらったスリッパとか、いただきもののキャンドルとか、なんとなく靴箱に突っ込んでいたものをやはり持て余してたイケアのブルーバッグに集結させただけだが、バッグのタグのところに連絡先や血液型を書いたら、急に緊張感が出た。

いつか、これを作っておいてよかったと思う日がくるのかもしれない。

肝心なものがなくてイライラするかもしれないし、全然足りないかもしれない。誰かがこれを見つけた時、私はもういないかもしれない。

その時そういう心境でいられるかどうかはわからないが、小さく「見つけたら使ってください」とも書いてみた。

 

夕方、きんとんとコーヒー、黒豆を入れたヨーグルトを用意して

「グレーテルのかまど」スペシャルを観る。

あと「富士ファミリー」というスペシャルドラマが良かった。

木皿泉作品、友達に絶賛されていたがちょっと説教くさくて私は苦手、と思い込んでいた。今回は何かがかちっとかみ合ったみたいに、説教くさいところも含めていいなと思った。

 

普段は家事を始めるエンジンがなかなかかからないのに、一度かかると今度は冷めない。夜中に突然思い立ち、便箋や封筒、カードに切手やシールなどを適当に詰め込んでた小引出しをひっくり返して整理した。

ついつい、紙物を買ってしまう。服と違ってすぐにはヘタらず、それほど流行がないのもあって、昔買ったものの可愛さに今でも悶絶する。

鳩居堂の絵葉書とか、ドイツのパン袋とか。結局、ここだけは思い切った整理はできない。私が突然死んだら友達皆で分けてください。箱にまとめておきました。

 

年賀状の返事を書きながらエージェンツ・オブ・シールド。

各話のエンドクレジットのあとに3秒くらい出てくる、落書きみたいなエイリアンがふらふらと歩いていくアニメが怖い。

今はネットで「それは何なのか」を簡単に確かめられるけど、昔はテレビを観るときこういう怖さをもっと何度も感じた気がする。

 

1月3日(コンビニ生活への復帰に向けて)

 

朝昼ごはんは八つ頭の煮物、おつゆの残り(かさが減っててちょっと焦がしそうになった)、雑穀ごはん、いくらの残り(賞味期限やばい)、アボカドの残り。

自堕落な生活も今日までかな~と惜しみつつ、洗濯をして年賀状の返事を出しに行く。ローソンの蟹クリームコロッケを一度食べてみたかったので寄ってみるが、なかったのでじゃがいものコロッケを買う。

夜ごはんはコロッケと千切りキャベツ。柚子なますの残りの材料(千切り頑張り過ぎた)で、キャロットラぺと大根の味噌汁。あと、豆乳が豆腐になりかけた小鍋みたいなレトルト食品に、青ネギの残りを振って食べた。

この商品を開封する時、私はいつも豆乳を爆発させてしまうのだが、久しぶりに買ったら蓋に「爆発しない開け方」が書いてあって、ちょっと嬉しかった。粗忽者は私だけじゃなかった。要約すれば「ゆっくり開けろ」なのだが。

小松菜とかまぼこの残りはバターで炒めてみた。これと煮物の残りで明日はお弁当。

嵐の二宮君が主人公の「坊ちゃん」(赤シャツが及川ミッチー!)を録画した。週末はこれを観ながら、クリスマスにSHERLOCKのカレンダーを送ってくれた友人に送る、柚子ジャムと柚子カードを作ろうと思う。

 暮れからずっと台所の隅で小山になってた柚子があっという間に小さな瓶におさまって、大掃除感があるはずだ(もはや『感』で妥協してる)。 

そういうのも料理する人の快感だよな~と、早くもコンビニ生活に一歩足を踏み入れながら思う。

                                  

2015年

12月

19日

銀杏を洗う

記事のひとつをツイッターで拡散していただいた際(それ自体はとてもありがたいことだ)、私の文章の拙さが原因で、読んでくださった方に嫌な思いをさせてしまった。

私自身はツイッターのアカウントを持っていないが、激しく怒っている方のツイートを友人が見かけたそうで、「対処したほうがいいと思うよ」とスクリーンショットを撮って送ってくれた。

 

傷ついた。しかし、身から出た錆だ。

当該記事にも追記をしたが、発端は私が「ワトスンは何もできないキャラクターの代表のように言われている」と書いたことだ。その部分に対し「ワトスンが何もできないだと?この人は何を言っているんだ」という反応があったらしい。ツイッターには発言を一般公開しない機能もあるため、何人の方が同じように思われたかはわからない。

『SHERLOCK』におけるジョンのような重要な役割も含め、『ホームズ』二次創作におけるワトスンの描かれ方には、それぞれの作品においてそれなりの意味がある。だから道化や役立たずとしてのワトスン像を頭から否定するつもりはないが、個人的には、原作のワトスンを揶揄する人には心の中で反発してきた。しかし、いつの間にかそうした評価をひとつの現実として受け容れてしまったようで、別の映画について語る時に一般論としてさらっと出してしまった。

「ワトスンぼんくらイメージ」が存在していたことは、お怒りになった方々も認識していらっしゃったようなので、矛先が私だということはこの際たいして重要ではないのかもしれないが、いずれにしても、先に石を投げたのは私だ。

石ならまだいいのかもしれない。小石であれば、痛いのは短時間で済む。

言葉の暴力で投げられるのは、銀杏の実のようなものだと思う。投げつけられるといつまでも臭い。忘れたくても、不愉快がまとわりつく。

 

以前勤めていた職場には、大きなイチョウの木が何本もあった。

路上にたくさんの実を落としていたので、そこを通学路とする子どもたちに「ぎんなん地獄」と呼ばれて嫌われていた。

上司の一人は少しでも空き時間ができると黙々と銀杏の実を拾っていた。子どもたちには「ぎんなんおじさん」で通っていたらしい。私たち部下も手伝ったが、とにかく量が多いので、毎年かなりの量を彼一人で拾ったはずだ。実は際限なく落ちてくるから、いくつもいくつも、何度でも。

大量の実を水に浸け、掻き回して(お風呂のお湯を掻き回す棒が最適だそうだ)種を取り出し、大きなかごに並べて乾かしてくれるのもその人だった。

いくつもの工程を経て手渡された銀杏の種を使い古しの封筒に入れ、電子レンジにかけると、硬い殻が割れて、透明感のある翡翠色の粒が現れる。その大きさに比して信じられないほど、滋養に満ちた味がした。

 

ツイッターでの生き生きとした言葉のやりとりは、見ていて本当に楽しい。

きっと、タイムリーに怒ってくれた人がいたおかげで、私の言葉に傷ついていた人は救われたと思う。そうだとしたら、その人のおかげで、私もまた救われている。そうした効能はツイッターならではのものだ。

でも、私はまだまだこのツールは使いこなせないと思う。言葉に余計なものをまとわせてしまったり、思ったことをうまく伝えられなかったりするから。

もともとの人間性がダメなのか、言葉の使い方がなってないのか、両方なのか。よくわからないが、とにかく私は、銀杏を洗うような作業を経ないと言葉を発せないのだと思う。

いい人ぶるつもりはない。悪口だって言うし、自分勝手なことも、いいかげんなことも言う。

洗ったところで自分の臭いはとれないし、手をかけても不味い実が出てくる。

しかし、洗わねばなるまい。桜のようにそこにいるだけで皆を楽しませる木もあるが、桜には桜の苦労があるはずだ。臭い実を投げつけて人に悲鳴を上げさせてしまう木に生まれついたら、それなりに努力しなくてはいけないのだろう。

元職場のイチョウは、既に切られてしまった。「ぎんなんおじさん」は、来春定年退職する。

 

徹底的に磨かれた、という感じがする言葉に触れるのが好きだ。

最近『CITY HUNTER』の続編がドラマ化されていて思い出したのだが、アニメ『CITY HUNTER2』の主題歌の一節をよく口ずさんでいた。

 

最初に好きになったのは声

それから背中と整えられた指先

ときどき黙りがちになるクセ

どこかへ行ってしまう心とメロディ

(PSY・S 『ANGEL NIGHT~天使のいる場所』)

 

身近にいる人に恋をする、その過程が四行に凝縮されている。

きっかけは、声という、意識しなくても耳に入ってしまうもの。

つい相手に見入ってしまい、今までは目に入らなかった細かな発見にドキドキする時期を経て、相手の内面を想像するようになり、自分とのつながりを切なく望むようになる。

そういう分析が出てくるのは大人になった今この歌を思い出したからで、子どもの頃は理由もわからずただ惹かれた。助詞の「と」に「整えられた」が続く「と・と・と」という音の並びが心地よかったのを覚えている。

いい言葉は、どんな受け取り方をする人も惹きつける。

いつかこういう言葉が書けたらなあ、と思う。

2015年

11月

22日

『おそ松くん』と『おそ松さん』の間

『おそ松くん』の六つ子が大人になった、という設定の深夜アニメ『おそ松さん』がネットでウケていて、ローカル局の千葉テレビは「この波に乗っかって」『おそ松くん』の再放送を開始したそうだ。

 

この件において、群馬県民は完全に勝ち組である。群馬テレビでは『おそ松さん』が始まる数か月前から『おそ松くん』の再放送をやっていた。

群馬県民は、満を持して新旧作品を比較できたわけである(やっている県民がいたかどうかは知らないが)。

 

私は1988年版の放送をリアルタイムで観ていて、主題歌(仕事とローンに追われるサラリーマンの悲哀を歌ったものだった)を大声で歌っては周囲の大人を苦笑させていた世代だ。

このバージョンもアニメ化としては2作目らしい。当時も、大人に「昔のアニメのほうが毒があった」とか「いや原作の方が」と言われていたが、原作と1作目を知らない私にとっては、十分無茶苦茶だ。

第10話では、六つ子の長男おそ松が高熱を出し、イヤミが彼を死神に売り渡す。最終的にはそこまでの流れとはほぼ関係なく全員死んでしまい、「それでは皆さまさようなら」とミュージカル調に終わる。往年のギャグへのオマージュだとしてもすごい。ボケ、投げっぱなしだ。

 

それに比べると2015年の『おそ松さん』は、不条理は不条理だが、何というかフォローが効いている。

まず、ほぼクローンだった六つ子にわかりやすい個性がついた。性格は六者六様だし、外見も描き分けられている。

そのことによって、六つ子の間に関係性が生まれる。ちゃんと「ツッコミ」がいるので、一つ一つのギャグがきっちり「回収」される。日頃鬱屈している者が愛情を垣間見せるという「ちょっといい話」もある。

『おそ松くん』に限らず昔の漫画には、現実とその世界をつなぐ説明がなかった。例えば、どうして毎日同じ服を着ているのか。安月給のお父さんと専業主婦のお母さんで、どうやって六つ子を育てているのか。

服装に関しては、時代性もあるのでうまい例えではなかったかもしれない(おそ松くんたちはいつも学生服のような服装だったが、現実もそんな感じだったのかもしれない)が、驚いたことにおそ松さんたちは着替えている。ジャケット、パーカ、つなぎなどバリエーションがあるし、丈や着こなし方にも個性が出ている。

一家の経済状況にも言及がある。母に「ニートたち」と呼ばれる兄弟(この『ニートたち~』が何ともいえずあっけらかんとしていて、今はニートって普通のことなんだなあ、と実感する)は「このままではまずい」と思って就職しようとしたりするが、イヤミに「子供のころチヤホヤされた連中はこれだから」というような陰口を叩かれていて、(マンガやアニメ『おそ松くん』の)子役としての収入が一家を支えていたことが、六つ子が自立せず両親もそれを責めないことと関係があるのかもしれないなあ、などと邪推させられてしまう。

 

こうした「現実的な見方」があった方がいいとかない方がいいとか言いたいのではなく、現代のギャグ漫画にはメタ要素というか、視聴者や読者の視線がより多く混ざるんだな、と思う。ストーリーの中で登場人物が自分の立場で語るのではなく、観ている子供たちが翌日の教室で話すようなこと。「いつも同じ服だよな」とか、「見分けがつかないなら変えたらいいのに」とか。

『おそ松さん』におけるツッコミもかなり視聴者目線だ。登場人物の一人として自らの立場からツッコむのと同時に、視聴者の気持ちを代弁するという機能をはっきり打ち出している。「いや、おかしいだろこの状況!」とか、視聴者ではなく登場人物が言う。同じことを、視聴者は翌日の教室ではなくリアルタイムでSNSなどで言っている。

 

では、どうして今、視聴者目線が取り入れられるのか。

それは視聴者もまた優秀な創作者であることが、二次創作の台頭でわかっているからかもしれない。ネットには『おそ松さん』の二次創作が溢れている。製作者がそれを見越しているのは、第一話を見れば自明だ。

視聴者を置き去りにした「それでは皆さんさようなら」から視聴者寄りにシフトすることで、『おそ松さん』は成功し、放送期間も延長されたわけだが、第二作と第三作の間にはビデオゲームの台頭があった。二次創作ブームの背景にはネットの普及もあるが、その更に前の私の世代には、ゲームの影響がある気がしてならない(ゲームはしないが二次創作はする、という人ももちろんいたが、時代の空気はたっぷり吸っていたはずだ)。

当事者なのでよく覚えているのだが、子どもたちに爆発的なファミコンブームが起こったのは『おそ松くん』88年版放送の数年前で、だから88年版おそ松くんを作ったのはファミコンを知らずに育った大人だ。

ゲームは想像力を奪うとか暴力性を引き出すとか、大人には散々言われたものだが、それは半分当たっていて半分はずれている。

初めてゲームを手にした時感じたのは、自らの手で物語を切りひらいていく手触りだ。主人公の運命は私の手中にある。結末を自分で決められないテレビや本とは違い、主体的に関われる娯楽。実生活において自分で選択できることが少ない子どもにとって、それは何ともいえない快感だ。その証拠に、読者の選択で物語が分岐する「ゲームブック」も当時流行った。

一方で、世界やキャラクターは既成のもので、一から物語を作らなくていいという手軽さもある。登場人物をひどい目に合わせても、自分は傷つかない。「腹を痛めて産んだ子」ではなく、借り物の体だからだ。飽きたら、また次の対象に移ればいい。

そういう意味で、他人の作ったキャラクターを借りて物語を作ることは、ゲームをプレイすることに似ている。私はゲームの愉しみも二次創作の愉しみも否定しないが、ゼロから何かを作り出すのとは、やはり違う。どちらがより偉いというのではないが、種類の違う行いだと思う。

 

『おそ松くん』の六つ子は顔かたちはすべて同じで、それに「ツンデレ」とか「無邪気」とかさまざまな色を付けていくのが『おそ松さん』だ。

それは、二次創作が外から見るよりもずっと豊かな創造性に溢れていることと同時に、一歩引いて見れば没個性的にも見える、ということも暗示している。どこに視点を置くか、何を愉しんで生きるかは、人それぞれだ。

 

2015年

11月

16日

『キングスマン~』の中の『最後の事件』

「塚口サンサン劇場」プロデュースによる「キングスマン・レディース&ジェントルマン上映」の東京版(角川シネマ新宿)に連れて行っていただいた。

参加した方々がさまざまな形でレポートしてくださっているが、ここにも「L&G上映」の概要をざっと書いておく。

 

・ドレスコードがある(ジャケット、眼鏡、傘。ただし強制ではない)

・大きな声を上げてもよい。

・クラッカーや紙吹雪が劇場側から配られる(持ち込みも可)


思い思いのお洒落をして、(劇中に出てくる)ギネスを楽しむ。上映までの待ち時間にはかっこいいDJがサントラを回してくれている。観賞グッズを自作してきた人も大勢いて、初対面の参加者とも会話が弾む。本や映画など、ひとりでひっそりやる娯楽を好んでいた私にとっては、上映前から既に異次元である。

主催者の挨拶と"Eat, drink,party!"(これも劇中のセリフ)の唱和で上映が始まる。

上映中は、観客が主役だ。お気に入りの場面でクラッカーを鳴らす。鋭いツッコミにどっと笑いが起きる。人気キャラクターが出てくれば嬌声がわく。

アメリカ人の友人に話したところ、「アメリカでは普通の映画館がそんな感じだよ」と言われたが、違うのは「観客全員が2度目以降の鑑賞」というところではないだろうか。

日本人は自制する。映画の登場人物に対して愛を叫ぶという「オタク的行為」は、「そうでない人もいる環境」では許されない。オタク自身が、それを許さない。

だから、自分たちを隔離する。「ファンだけが集まり、好きなだけ愛を叫んでいい環境」を作り出す。そこから、新たな文化が生まれてくる。

「文化」なんて言い方は大げさかもしれないが、今回私が一番感動したのは、塚口サンサン劇場で、既に独自の鑑賞文化が育まれていたことだ。

歌舞伎の大向うのような「ツッコミ師」がいて絶妙なツッコミを入れるのは、ニコ動のコメントや2ちゃんねる、Twitterでの「実況」を基にしたスキルだし、好きな場面でクラッカーを鳴らすのはFacebookの「いいね」や、ブログの「拍手」である。観客たちが共有するバックグラウンドが、ちゃんと生きている。

観客がごみ袋や軍手を持参して散らかった紙吹雪やクラッカーを掃除するのも、サンサン劇場の恒例行事だそうだ。

ちなみにチケット代は通常の映画料金と同じ1800円なのだが、劇場はクラッカーや紙吹雪を提供したり(紙吹雪も、劇中の写真をあしらった凝ったものだ)、照明や音響で盛り上げたり、クライマックスでは風船を飛ばしたりと、趣向を凝らしてくれている。観客の滞在時間や清掃の手間を考えると、時間的、金銭的には劇場が損しているはずなのだ。

開催する側に、作品が好きで楽しみを共有したいという思いがあり、参加する側もそれに応える。エンターテイメントにエンターテイメントで、ホスピタリティーにホスピタリティーで。これはとても幸福な図式だ。

チケット販売は「瞬殺だった」そうだ。この先、こういうイベントが増えていくのだろう。開催者、参加者、双方への批判も出てくるだろう。同人誌即売会がそうであったように初めは純粋な思いで支えられていても、商業主義に走る者が現れたり参加者のモラルが問われたりするのかもしれない。

そうだとしても、今この時、塚口サンサン劇場や角川シネマの取り組みに参加させてもらえたことを、私は誇りに思いたい。新たな文化の誕生に立ち会えたことを、若い世代に繰り返し自慢してウザがられる婆さんになりたいと思う。

連れて行ってくださったRさん、Lさん、ありがとうございました。スタッフの方々はもちろん、そこにいたすべての人たちに感謝したくなるようなイベントだった。何度も言うようだが本とか映画くらいしか娯楽を知らず、クラブとかライブとかほぼ無縁だったので、生まれて初めて「今夜は最高!」と大きな声で叫びたくなるような夜だったのだ。音楽やダンスより本や映画に痺れるタイプの人間だって、たまにはそんな夜に溺れたい。

 

さて、多分TwitterとかでL&G上映への賛辞は何度も呟かれていることと思う。

せっかく貴重な参加権をいただいたのだから、ちょっとは毛色の違った感想も書いておくべきかもしれない。そんなこんなで、ここからは一シャーロッキアン見習いとして映画「キングスマン・ザ・シークレット・サービス」の内容に触れたい。需要があるかどうかは置いといて。

 

7回目とか5回目とか、手練れの観客ばかりの中で「たった」2回目の鑑賞だった私だが、クラッカーを鳴らすタイミングは心に決めていて、その一つが、主人公エグジーが教官のマーリンを「マイクロフト」と呼ぶ場面だった。

何でもホームズ関連の語句に「空耳」「空目」する習性があるので、本当にマイクロフトと言ったか確信がなかったのだ。しかし、よく聞いてもちゃんと「マイクロフト」と呼んでいたので、私は心おきなくクラッカーの紐を引いた。

IMDbを確認したところ、やはり「マイクロフト」はホームズの兄を意識したセリフだったようだ。マーリンを演じるマーク・ストロングがガイ・リッチーの映画「シャーロック・ホームズ」に出演していたことに由来するらしい。

あっ、と思った。キングスマンのボスになりすましているエグジーは、演技の一環として、パイロット役のマーリンに「おめでとう、マイクロフト。パイロットから執事に昇格だ」と言う。

マイクロフトが御者に扮してワトスンを送り届けるのは『最後の事件』だ。ホームズとワトスンが行きつくのはスイスの山中。エグジーとマーリンが潜入するパーティーの会場があるのも、どっかわからんけど、なんか雪山だ。

 

こじつけもいいところだが、もし『最後の事件』とこの話がつながっているとすれば、共通点はもう一つある。

ハリーとエグジー、ホームズとワトスン。関係性は異なるが、信頼関係で結ばれた二人の、片割れがいなくなるというところだ。

ハリーとエグジーは非常に親密だ。ほとんど疑似父子として描かれる。

エグジーは、血の気の多い若者に見えるが、その実とても素直だ。保護者としては頼れなくても愛してくれる母親には愛情を、軽視してくる義父には軽蔑を返す。信頼を向けてくる友人は全力で庇う。いじめにはきっちりやり返すが、引きずらない。性的な視線を向けてくるプリンセスの誘いには乗るが、男ばかりの候補者の中で孤立するロキシーには、女性ではなく友として対する(だから私は、彼のボンド的なプレイボーイとしての振舞いにさえ、欲望よりも無垢さを感じてしまう。彼は、望まれる自分を望まれるように返しているのだ)。もちろん、ハリーの強い愛情や信頼には、全力で応えようとする。

天才的な活躍を見せるエグジーに「何もできない」キャラクターの代表のように言われる(※追記2)ワトスンを重ね合わせては叱られてしまうだろうが、利他的なところはワトスンに似ているのだ。

自堕落になっていたワトスンは、ホームズに出会って自らの興味のきらめきを感じる。相手の存在のおかげで気持ちが引き立ち、感性が研ぎ澄まされる、というのはホームズにとっても同じである。しかし、ワトスンは家庭と言う新たな居場所を見つけ、ホームズのもとを去る。

 

ハリーの人物像は謎に包まれているが、コードネーム「ガラハッド」に象徴されるように、一貫して高潔な紳士として描かれる。

そのハリーがイライラとした表情を覗かせるのが、エグジーが愛犬を撃つことをためらって試験に落ち、キングスマンになることを諦めてひとり帰宅した時だ。ハリーは強引に彼を私邸に連れ戻し、感情を叩きつける。そこで呼び出されて、例のチャーチ・ファイトが始まる。

この時のハリーの大量殺戮に関しては「SIMカードを所持していないものにも影響がある」と劇中で説明されているが、私には、ハリーがエグジーに対する「個人的な怒り」を秘めていたことも少なからず影響していたように思える。

ヴァレンタインがスイッチを入れる前から、ハリーは感情的だった。聞くに堪えない差別的な説教に苛立ったようにカモフラージュされているが、意見を異にする人間たちの中にうまく紛れる経験は、これまでにもあったはずだ。心中には、エグジーに対する感情が燻っていたのではないか。

正気に戻ったハリーが自覚するのは、操られていた自分ではなく、その前の、私情に翻弄されていた自分だ。ハリーの死は、彼自身にとっては「キングスマンとしての自分の死」なのだ。

 

エグジーに対するハリーの怒りは、SHERLOCK第3シリーズでクローズアップされた「ワトスンに対するホームズの感情」と同じ種類のものだ。

唯一信頼できるパートナーであったはずの者、目をかけて育てたはずの者。一旦懐に入れてしまった相手が、一番根っこのところでは自分と同類ではありえない。その事実を知ってしまうということは、孤独な天才にとってはどんなに嘆かわしいことだろう。それはすなわち、完全に孤高でいることができない己の限界を知るということでもある。

 

しかし、だからこそ、ハリーの死はホームズの死と同様に、肉体の死ではない、と思う。ハリーが生きている根拠は劇中にもいくつか提示されているのだが、私は「キングスマン」の後半部を『最後の事件』に見立てる、という酔狂をやった上で、ハリーの「帰還」を信じたい。

エグジーは、ハリーを失った上で立派なキングスマンになった。

ワトスンは、ホームズを失った上で人気作家になった。

同じように、痛みを知った上で蘇る者には成長があるはずだ。

ヒーローは、全てを切り捨てた、ストイックで完璧な存在でなくてもいい。そうでない部分をこそ、私たちファンは愛する。

 

追記(2015年11月20日)

エグジーがマーリンを「マイクロフト」と呼んだくだりについて、「マイクロフトがマーリンの本名なのでは?」と友人から意見をもらった。

その可能性もあるが、仮にエグジーがマーリンの本名を知っていたとしても、敵地で唐突に本名を用いるというのは周到な彼に似つかわしくない気がするので、私は(メタ的な解釈を置いておくとしても)「ホームズ由来説」を取りたい。

エグジーはButlerではなくvaletという言葉を使っているので、本来は執事(従者の仕事に加え、屋敷全体のの業務を統括する)よりも従者(主人に付き従って身の回りの世話や秘書業務をする)という訳が適当なのだと思う。

従者といえばジーヴス&ウースター、と私はすぐに連想してしまうのだが、それは私の英文学の知識の裾野が短いからで、同様に「咄嗟に出した従者の名前」が「ホームズの兄・マイクロフト」というところに、エグジーの読書歴が見えてくるのかもしれない。

エグジーは「プリティ・ウーマン」を観たことはなくても、「マイ・フェア・レディ」はなぜか知っている。いかにも不良少年、という服装をしている一方で、キングスマンに並ぶ高級スーツにも憧れる。

無知でもなければ博識というわけでもない。下品なだけでもなければ、スノッブでもありえない。優等生的な資質を持ちながら、不良少年の社会に馴染んでいる。知識や興味のグラデーションにおける、ある部分がばっさり抜け落ちている、という感がある。

英国において、何を読んでいれば読書家っぽいのか、そのあたりの空気感は私にはわからないのだが、日本の青年に置き換えれば、今はヤンキー漫画雑誌に熱を上げる一方で、子供時代は読書を好み、新刊書は買ってもらえなくても学校の図書室にある本はよく読んだ、という感じではないだろうか。そうだとすれば、「シャーロック・ホームズ」のキャラクターが口をついて出てくるのにもうなずける。

マイクロフトが選ばれたのは「マーリン」と頭文字が同じで、格式の高そうな名前、ということだろうが、もしもそこに「最後の事件」を読んだ記憶が紛れ込んでいたとしたら、やはり自分にとって一番のヒーローであるハリーに、子供時代のヒーローだったホームズを重ねちゃったんじゃないの!?もしかしてだけど!もしかしてだけど!と言いがかりに近い妄想を重ねる私である。

 

追記2(2015年12月5日)

上記の記事中、「ワトスンが何もできないキャラクター代表のように言われる」というくだりについて、ツイッター上で「この記事を書いた人はワトスンを何もできない人間扱いしている」というご意見をいただいていると、友人から聞きました。

まず、ご不快な思いをされたことに対して謝罪致します。大変申し訳ありません。

これは長年ワトスンが好きだった私の「世間一般の評価に対する」実感であって、私自身がワトスンを役立たずだと思っているわけではないのですが、さまざまな作品がワトスンの素晴らしさを説いてくれている現在、一般論をそんな風に決めつけるのも乱暴だったと思います。

ツイッターのアカウントを持っていないので直接お話できず恐縮ですが(取ろうかとも思ったのですが、直接抗議なさっているわけでなく『呟いて』いらっしゃる方々に対してそれもまた不調法かなあと……)、これ以上嫌な思いをされる方が増えないよう、また、ツイッター上でワトスンの魅力を呟いてくださっている方々にどうにかして謝意をお届けできないかと、一縷の望みを託して追記させていただきます。

また、自身の表現力不足への反省の意味もあり、記事中の文は改正せずに追記のみさせていただいております。ご了承いただければ幸いです。

 

2015年

10月

18日

晴れたらいいね

福山雅治が結婚して、ショックを受けているファンと、そういうファンに対して「お前が福山と結婚できるわけでもないのに、どうしてショックを受けるんだ」と不思議がっている人がいるようだ。

 

私はショックだ。福山雅治だけでなく、誰が結婚するのも少しショックだ。

それは自分が結婚していないからで、宿題が終わっていないのに友達に「もう終わった」と言われるのと似たショックだ。人が終えていることを、自分はまだやっていない、という焦り。

しかし、宿題をしなくても死なないように、結婚しなくても死なない。

好きな人が結婚した時にショックなのは、その人が私の側の人じゃなくなるから、だと思う。

 

「どうしてショックを受けるんだ」と言う人は、人間を「独身側」と「既婚側」ではなく、「知人」と「他人」みたいなもっと小さなくくり、または更に小さく、個人単位で切り離して考えているのだろう。

そんな風に、論理的にものを考えられるのはすごくいいことだと思う。確かに、人を「独身側」と「既婚側」に分けるのはナンセンスだ。自分は結婚してるけど福山雅治が結婚するのはイヤ、という人だっているだろう。

一方、人の結婚を自分のことのように喜んだり悲しんだりできる人は、共感する力がある。それも素敵なことだ。

共感を持てるからこそできることも、客観を保てるからできることもある。

どちらの考えも、世の中に必要なはずだ。そして、二つの考えは同じ人の中に共存していて、かわるがわる顔を出す。

 

たとえば皆「いじめをなくそう」と言うが、人を憎む力と愛する力は同じ人から出ているわけで、誰かを嫌うことをやめてしまったら好きになることもできなくなってしまう気がする。

「いじめをなくす」というのは考えや行動を理性でコントロールする、ということであって、負の感情をなくす、ということではない。人の感情を強制的に変えることは、誰にもできない。

感情を捨てなくても、いじめをやめることはできる。同じように、誰かの結婚を寂しく思うということと、その人の幸せを願うということは両立する、と私は思う。

 

そんなこんなで、Cさん、ご結婚おめでとうございます。

花嫁姿があまりに綺麗で、すごく寂しくて、すこしショックです。

独身自虐ネタを連発している私からの「おめでとう」はそらぞらしく聞こえてしまうかもしれないなあ、と危惧した末、この際徹底的に本音を書いてみることにしました。

拙くとも本当の気持ちを記したブログを受け止めてくださったCさんだからこそ、下手な例えにも「しょうがないなあ」と笑ってくださる……と良いのですが。


ご自身と旦那様を幸せにしてあげてください。Cさんのお力を持ってすれば、それは簡単なことではないかと思うのです。

もしもいつか、それを難しいと感じてしまう時が来たら、会ったこともない私という人間の心を温めてくださった、その実績を思い出してください。

 

遠い場所で私がCさんの幸せを願っているという事実は、基本的には何の役にも立たないと思います。でも、ないよりはあったほうがいい、かもしれません。

晴れたらいいね、と皆が願っていた日が晴天だったら嬉しいように、私の願いも、Cさんの幸せをほんのすこしだけ彩ることができますように。

 

2015年

10月

11日

エリンギ アンドニューヨーク

小さな子どもに英語を教えている。

人間にとってまず重要な表現は、否定や攻撃なのだなあ、としみじみ思う。

YesよりもNoを先に活用する。

Excuse me はなかなか出てこないくせに、いたずらした子にたった一度"Excuse you"を使ったらあっという間に流行ってしまった。

教えてもいないのにOh, my god!やGo to hell! What a f××k!は連呼している。どこで覚えた。(たぶんネットゲーム)

私の真似もよくする。

自分では気づかなかったが、"No problem"が私の口癖らしい。

(ちなみに日本語の口癖は『それはおいといて』らしい。日本語勉強中の友人が黙々とカウントしたところ、1時間に平均3回使っているそうだ)

そんないいかげんな教師とわちゃわちゃした生徒なので、双方に、叱責というか罵り合いというかのボキャブラリーばかりが増えて行く。

教え子たちがGo to hell! Be nice to your friend!と楽しそうに怒鳴りあいながら道を歩いていた、と聞かされた時は頭を抱えた。

 

先日、「友達にインタビューをして、結果をまとめてミニ新聞を作る」という課題を与えた。

新聞の名前も自由に考えてよいと言うと、子どもたちは喜び勇んで色々とバカな名前を考えていたが、ある男子に「何にした?」と聞いたらCNNのキャスターのようなイントネーションで「エリンギ アンド ニューヨーク」と答えたのが、数日経った今も忘れられない。何というか、大人には真似できないタイプの馬鹿である。

 

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2015年

9月

05日

アッセンブル!

「夏休み、何してた?」という質問にはいつも答えにくい。

普段会えない人に会ったり、興味があるけれど時間がなくてできなかったことをしたり、充実してるつもりなのだが、私の場合その楽しさが家族や同僚に伝わりにくい。

正直に言うと、アメコミ嵌りたてで、サービスデーの度に淡々とアベンジャーズを観る夏だった。私の職場は8月比較的暇なので、退勤後は避暑を兼ねて映画館に通った(エアコン代と天秤にかけた上で、比較的料金が安い日だけだが)。

晩夏のある夜、ふっと確信した。通ってるのは、私だけじゃない。

 

・50代くらいの男性(いつも一番乗り)

・30過ぎくらいの男性(『スターウォーズ』宣伝J.J.エイブラムス監督の挨拶の前くらいのタイミングで入ってくる。スーツ姿)

・20代半ばくらいの男性二人組(いつも『映画泥棒』の直前くらいにポップコーンを抱えて入ってくる)

 

そして私。

 

他にカップル一組か二組くらいはいるのだが、レギュラーメンバーは固定されている。エンドロール後の「Avengers will return」まで席を立たないのはこの5人だけだし、終了後駐車場までとぼとぼ歩く(『私の想い出のマーニー』参照)メンバーも同じ5人だ。

こっち(観客)も毎週アッセンブル。言ってみればアベンジャーズ群馬支部である。

だったら私がナターシャではないか。胸より下腹が出ていようと、暖かい飲み物とレンタルブランケットが手放せず、上映前に念のためトイレに立つプレ更年期であろうと、遺伝子学上私が一番ナターシャ・ロマノフである。

最終上映(の直前のサービスデー)の夜、私は俄然「このメンバーをまとめたい」という気持ちになっていた。

なんとなく「また会いましたね……」というアイコンタクトを交わしながらも、駐車場までの長い道のりを無言で歩く、内気なマーベルおたく4人組、プラス私。縁あって同じ夏を過ごした仲間に交流をもたらすのは、紅一点の私の使命ではないか。

その時男子二人組の片割れが、しみじみとした声で相方に「終わっちゃうな」と話しかけた。すかさず私は、さりげなさを心がけつつ「終わっちゃいますねえ。よく通いましたね~」と割り込んだ。

「あ、おねえさん何回か会いましたよね。俺ら初日から来てました」

「実は俺も……」

駐車場までの無言の道行きは全員にとって気づまりだったようで、和やかに会話が始まった。思い切って話しかけてよかった。毎度気まずかった数分間が、一気に心楽しいものに変わった。

駐車場の入り口で、一番年嵩の男性が「じゃ、『アントマン』で会いましょう」と茶目っ気たっぷりに振り向いた。

するとスーツの男性が

「あ、私マーベル好きというわけではないので、次来るのはスターウォーズだと思います」

……わざわざ言わなくてもよくないか、それ。

そこで男子二人組が「俺らもアントマンはあんまり」

だから言わなくていいじゃん。おじさん気まずそうじゃん。

私に視線が集まる。

「えーと、アントマンは観に来ると思いますが、次にこんなに通うのはシビル・ウォーかも……」

途端に場の空気がほぐれた。皆、仕方なさそうな苦笑を浮かべた。

なんか、「所詮腐女子か」的な。

「どうせクリス・エヴァンスの尻観に来てるんだろ、わかってねえな」的な。被害妄想かもしれんが。

思ってたのと違うけど、紅一点の活躍によってなんとなく穏やかに解散し、我々の夏は終わったのだった。

 

 

結論:アベンジャーズ群馬支部は帰ってこない。

 

追記(2015年10月10日)


その後、『アントマン』上映で男子二人組の片割れと遭遇。

「ちくしょう、『アントマン』めちゃくちゃよかった~!」

「次におじさんに会ったら土下座して謝りましょう……」と反省しながら駐車場に向かったのだった。


結論:おじさんがキャプテン。

 

2015年

8月

28日

霧雨の東京で

知らない街を歩いていると、急に不安になる。

都会に住んでいたこともあるので、全く状況がわからないわけではないのだけれど、初めて親元を離れて街を歩いた時の自意識過剰な不安を、全く同じように今も感じる。

今日のように仕事を休んでいる時は尚更だ。あの、煩わしくも居心地のいい場所で安穏としていることもできたのに、どうして私はここにいるんだろう。時間も場所も曖昧になり、自分の意志でやってきた、ということすら忘れてしまいそうになる。

自分ではどうにもならない力で、遠いところまで流されてしまった、と思う。

 知っているチェーンのお店が現れると、道しるべを見つけたようにほっとする。大丈夫だ。まだ、そんなに遠くには来ていない。

 

昔の駅舎を利用した、素敵なカフェでコーヒーを飲んだ。

霧雨が降り続けていたが、川に面したテラス席を選んだ。物慣れた感じの人人たちが楽しそうにビールなど飲んでいる、暖かそうな店内には居たたまれなかった。

熱いコーヒーと、マグのしっかりした重さが心強いと思った。

暫くそこにいたかったけれど、外国人観光客がお店の外観を撮りたそうにしていたので、邪魔にならないようにそそくさと席を立った。

 

目的地には近づいていたのだが、早く着きすぎたらまた途方に暮れてしまいそうなので、真剣に探さないことにしてぶらぶらと(でも、人目には目的ありげに見えるように意識しながら)歩いた。ふと、愛読している漫画の発売日が過ぎていることに気づいて、傘を畳んで書店に入った。

本屋さんも、私の味方だ。本屋さんは、ぶらぶら歩きを許してくれる。知っている本もあるし、知らない本もある。それを手にとってもいいし、とらなくてもいい。

 

高校生の時、世界には二種類の人間がいるのだと思った。

誰とでも家族のようになれる人と、たとえ家族といてもひとりぼっちになってしまう人。

そう考えたとき、私は後者だ、と思った。後者だと気づいてしまった、と。

もちろん世界はアホな女子高生が考えるほど単純じゃなく、たぶん誰もが前者にも後者にもなる。

人は、時々異邦人になる。どこにいても、誰といても。

そうとわかっても、さびしさが消えるわけではない。でも、本屋さんは異邦人を受け容れてくれる場所だと思う。ひとりの異邦人になって良い場所、と言ってもいい。

 

友人のレクチャーでマーベルコミックに嵌っているのだが、うっかり彼女が教えてくれた範囲を超えたところまで立ち読みをしてしまい、うわー!うわー!マジで!?と震えながらチェーンのコーヒー店に駆け込んで、友人にメールをした。

友人は仕事中なのですぐに返信がくるはずもなかったが、もう大丈夫だ、と思った。いつの間にか、知っている場所に帰ってきていた。

『夕焼け小焼け』のやわらかなメロディが街に流れ、スーツ姿の、でもリラックスした顔の人たちがビル群から溢れ出てきた。

まだ濡れている窓から見下ろすと、本屋さんの前に自分の傘が見えた。

2015年

8月

21日

すこし、イヤだと思ったこと

「久保みねヒャダこじらせナイト」というトーク番組がすごく好きで、レギュラー化される前からずっと録画して観ているが、先日少しだけ「好き」という気持ちに影が差した(たぶん、出演者のせいではない)。


「こじらせすき間ソング」というコーナーでは、例えば「節分の歌」とか「ゴールデンウィークに働かなくてはならない人の歌」とか、ニッチな需要しかない曲を、出演者たちが類いまれなセンスで作っていく。出演者はポップスへの造詣が深く、出来上がった曲はB'z風だったり、中島みゆき風だったりと、既存のアーティストへのリスペクトが込められている。

先日は小室哲哉風だった。「毛サバイバル」というタイトルで、小室テイスト満載の言語感覚と音楽に載せられたバカバカしい歌詞がたまらなく可笑しかったのだが、小室哲哉本人にコメントさせていたのには「ん?」と思った。

これって、小室が不快に思っていたとしても、その気持ちを出せないんじゃないか。本人たちの事情がよくわからないので余計なお世話かもしれないが、「馬鹿にされた気がするな」「嫌だな」と思っても、洒落のわからない男と後ろ指さされるよりはと、人気番組という長いものに巻かれるしかないんじゃないか。

弱者が強者をおちょくっているようでいて、結局は弱い者いじめをしているんじゃないだろうか。


私は小室哲哉の大ファンだったわけではないが、曲を耳にすると、学生時代がわっと蘇ってくるような興奮を覚える。番組はライブの中継という形式だったのだが、おそらく観客のほとんどにとっても同じだろう。でも、観客や視聴者にも、コムロに対してどこか侮りがあるのではないか。その曲を口ずさんでいた自分を過去の物にすることで、その時代を彩った人までも過去の遺物のように感じているのではないか。私たちが「その後」を生きているのと同じように、その人も「その後」を生きているのに、だ。

人をおちょくるのも侮るのも、一つの表現だし、表現をするなら自身が誰かの表現の標的になるのも覚悟しておくべきなのだろう。でも、「私たちはあなたが大好きなんですよ!だからこれはリスペクトなんですよ!笑って許してくれますよね!」という大義名分のもとに「おちょくっている現場」に本人を担ぎ出すのは、なんかやだな、と思う。

 

同じように「なんかやだ」と思ったことがあって、それは『コクリコ坂から』という映画の公式サイトで宮崎駿からの『メッセージ』を読んだ時だった。この『メッセージ』は「自分がいかに駄作を名作に仕立て直してやったか」という風に読めてしまって、私には不快だった。

「原作の生徒会会長なんか“ど”がつくマンネリ」「脇役の人々を、ギャグの為の配置にしてはいけない」などの批判には共感するし、宮崎映画の「そうしないところ」が好きだ。ぶっちゃけ、原作より映画の方が好みだ。

でも、原作にもその時代ならではの輝きがあったはずだ。少女漫画には少女漫画の存在意義があるし、独自の作法がある。そこを全否定するような文章を公式サイトに載せるくらいなら、その原作使わなきゃいいじゃん。

他人の褌で相撲をとっといて、貸してくれた人に「褌って時代遅れですね。っていうか相撲つまんないんで、ボクシングしました」って言ってるようなものだ。

 

以前、アガサを騙したホームズむかつく、みたいなことをブログに書いて、その時代背景も考慮しなくては、とコメントをいただいたことがあった。私は「現代人の立場からの意見があってもいいはず」という旨の反論をしたが、私の書いた文章にも「やな感じ」があったのかもしれないな、と思う。私がホームズを批判しても弱い者いじめにはあたらないだろうが、後出しはいつだって、ある程度卑怯だ。

時間が経っているからこそ気づけることもあるから、後出し自体は悪いことじゃない。でも、現在の自分の価値観だけを基準にして、過去の物事を公然と笑い者にするのはやっぱりみっともないことなのかもしれない。

とはいえ、「みっともなくない」ことだけに拘泥していては、何も言えなくなってしまう。そのままの自分を見てもらうのも、表現ということなのだろう。

よく考えてから口を開く、というのは、いくつになっても自戒しなくてはいけないことだと思う。

みっともない、とかやだな、と人に思われないためではなく、自分で自分をそう思わなくて済むように。

 

2015年

8月

02日

感想を言わずにはいられない

読書感想文の季節である。

私は物心ついた頃から本を読むのが好きだった。しかし、読書感想文を書かされるのは苦痛だった。

大人の期待に応えたい一方で、どう書けばいいのかまるでわからなかった。お手本を理解して取り入れる賢さもなければ、心のままに綴るような奔放さもなかった。

 

自分でも不思議なのだが、感想文を書かなくてもよくなった今、何故か頼まれもしないブログを綴っている。

人の感想を読むのも大好きになった。感想を書いたり読んだりするということが、いつの間にか小説や映画を楽しむことの一部になっている。

 

『マッド・マックス~怒りのデス・ロード』は、感想や考察を誘発する映画だ。さまざまな人がそれぞれの視点から感想を書いてネットにアップしている。

最初は大興奮!とかすげえええ、とかV8!V8!とか、「単語の感想」を言いたくなるが、だんだん「自分はこの作品のどこに惹かれたのか」と考えさせられる。人の感想を読んでなるほど、と思い、もう一度映画館に行く。即効性のアドレナリン誘発剤のような映画と思わせておいて、実は遅効性の毒も仕込まれていて、あっという間に中毒にさせる。

二種類の毒の正体は、すでに語り尽くされていると思うが、手っ取り早く言うと「キャッチーさ」と「奥深さ」で、どちらかだけではダメなんだろう。

「薄っぺらい作品」という表現は、入口が一つしか見当たらず、入ってもその先がなかった、という気持ちの表れだと思うが、この映画においては、背後に作りこまれた世界の発露としてのかっこよさ、かっこよさに説得力をもたらす世界観が相互に作用して、きれいな立方体として結晶している。あらゆる面にファンが取り付き、よってたかって研磨することで何面体にも進化し、最後には球体になる(それって、もはや宗教かもしれないが)。

 

私がどんな入り口から入って何を感じたかも書いておきたい。

私の住んでいる地域はおそらく日本で一番暑く、もし冷房がなかったら、体力のない者から順に死ぬ。子供のころは「贅沢品」だった冷房が、もはや生命維持装置である。

熱中症癖のある私は、ぼーっとした頭で「電気代が払えなくなった時が私の寿命かもしれない」と考えてしまう。

大げさに聞こえるかもしれないが、暑さには逃げ場がない。サウナに閉じ込められたような不快感がどこまでも続き、体力も思考力も落ちていく。頑健な体を手に入れるか、対価を支払って生命維持装置のスイッチを入れない限り、生き延びることはできない。「冷房を適切に使ってください」ってなんだ。使えないなら死ねと言うのか。これって既に立派なディストピアじゃないか。私たちは、最悪の未来に向かって緩慢な自殺を続けているんじゃないか。

 

『マッド・マックス』はディストピアをかっこよく描いていた。

過去の人たちが犯した過ちのせいで短命にされ、搾取者への妄信にすがって生きている人たちをかっこよく描いていた。その絶望的な状況を打破しようとする人たちをかっこよく描いていた。ついでに独裁者たちまでかっこよく描いていた。彼らの圧倒的な生き様を見てしまったら、漠然とした不安など吹き飛ばされる。

『マッド・マックス』を観た帰り、電車の暗い窓に映る私は、ほんのちょっとだけフュリオサ大隊長だ。

げっそりした、将来を悲観した、他者への不満ばかり募らせた中年のおばちゃんじゃない。静かな怒りに満ち、状況に負けない意志と弱い者を庇う覚悟を持った、背筋の伸びた中年のおばちゃんなのだ。

そういう風に人を鼓舞する映画って、やっぱりすごい力があるのだと思う。 

2015年

7月

18日

局力が欲しい

友人たちとショッピングモールを歩いていた時、一人が荷物を紛失した。

案内所には人形のように可憐な女性が座っていて、遺失物センターに問い合わせをしてくれた。その間、私たちの目は彼女の完璧なメイクに釘付けだった。

忘れ物はすぐに見つかった。しかし受け取りの手続きは煩雑で、案内嬢のちょっとした手違いのため、さらに面倒になった。

帰り道、私と友人たちはふざけて「お局様トーク」を始めたのだが、「睫毛盛ってる暇があったら○○してくれないかしら」みたいなベタなフレーズしか出てこなくて、ちょっと愕然とした。

 

いい年こいて、我々には「局力(つぼねりょく)」が全くない。

 

以前書いた「びじゅチューン」に「お局のモナリザさん」という歌がある。

人気作家・柚木麻子の小説を映像化した「ランチのアッコちゃん」というドラマも、最近まで放映されていた。

どちらにも、戯画化された「お局様」が出てくる。共通するのは、仕事ができ、社内を熟知していて、後輩に厳しい(そして実は優しい)こと。冴えわたる厭味、謎に満ちたアルカイック・スマイル。

 

女同士の友人関係において、昔から私は面倒を見られる側だった。

そんな私と長年付き合っているくらいだから、友人たちは後輩に厳しそうでは全然ない。おそらく、優しい先輩だと思う。 

私はわりとずけずけ言う方だが、あまり周りが見えていないし、謎めいてもいない。ボケかツッコミかで言えばボケだ。後輩が育ったとしても、先輩のおかげですなどとは毛ほども思われてない、そういうタイプだ。

 

チームで働くのに必要な人材とは何だろう。

信頼され、決断力のあるリーダー。実務をまとめるサブリーダー。そして、ドラマでは大抵「お局様」がいる。

サブリーダーを兼ねていることもあるが、お局はただのサブリーダーではない。批判ができ、状況によっては嫌われ役も引き受け、しかし愛情を持ってチームを支えることができる。

人は人に好かれたいものだ。嫌われることを厭わない、というのはすごく精神力のいることだ(もちろんただ単に嫌われるのではなく、『チームのためを思ってあえて嫌われる』という場合に限るが)。

困るのは、精神力が育っていないのに、年齢と立場だけどんどんお局ポジションに近づいていることだ。無邪気キャラでいるのは、年齢的にも、仕事上の経験値から言ってもアウトな気がする。しかし局力がないままお局的な言動をしても、それはただのイヤな女だ。

 

女の子からお局になる段階で、母親と言う立場を経験していれば違ったのかもしれない。母親は、子どもから嫌われないという自信のもとに、時に嫌われ役をすることもあるだろう。絶好の局実習だ。

独身女性が多いことを考慮して、ある程度の年齢に達したら、研修をしてくれないものだろうか。局の。

しかし、されたらされたでセクハラだと騒ぐのが我々だ。もうちょっと個々の自覚に訴える感じで、女性誌で「局特集」とかやってくれないか。「愛される局になる!」とか。愛されちゃだめか。

いっそのこと『TSUBONE』とか創刊してくれたら、私は買うぞ。「この一言がオフィスを変える!絶妙な厭味とそのフォロー」特集とか、「クール系局VSお母さん系局・一週間着回しコーディネイト」企画とか、食い入るように読むぞ。創刊号の付録は、ロッテンマイヤーさんの眼鏡がいい。

局という言葉が悪いのかもしれない。男性しかいない職場でも、女性でいうお局にあたるポジションの人が要るはずだ。

TSUBONEに代わる、親しみやすい名称を次の会議までに各自考えてくるように。下半期の査定に響くので、そのつもりで。

 

 

2015年

5月

30日

鑑賞という芸術

つい先ほど、「びじゅチューン」DVDをamazonで購入した。

 

「面白いな」「もっと観たいな」「手元に置きたい」という動機でDVDを購入したことは、これまでにもある。しかし、今回はちょっと違って「あんたの才能に、私はお金を払う!払わせてくれ!」というニュアンスがある。

 

3000円足らずでパトロンヌ気分かよ、と言われそうだが、ワーキングプアの私にそんな錯覚を抱かせてしまう井上涼という人はすごい。

何度もブログの日記欄に書いているが、もともと「びじゅチューン」は好きだった。しかし私の経済状況では、テレビやネットで鑑賞できるものをわざわざ購入する余裕はない。DVDも買う予定はなかった。

 

パトロンヌ気分が爆発したきっかけは、「紅梅図屏風グラフ」という作品だ。

それまで私のベストワンだった「樹下鳥獣図屏風殺人事件」では、方眼状に区切って彩色された絵 をパズル(謎)のピースに例えていた。そこまではまだわかるが、梅の枝が折れ線グラフに、敷き詰められた正方形の金箔がグリッド線に見えるって。あんた天才か。天才だろ!

 

私は読書が好きだし、美術館に行くのも好きだ。

でも、作家や画家を「天才」と表現したことはない。

単純に、わからないのだ。誰が天才で、誰が天才じゃないか。どれがすごくて、どれがすごくないのか。確信を持って言えるのは、「好きか嫌いか」だけだ。

井上涼を「天才だ」と言ってしまえるのは、「鑑賞する者同士」でもあるからだと思う。同じ作品を見ても、私はあの屏風に折れ線グラフを見出すことはできない。ゆえに井上涼はすごい。心から尊敬する。

 

創作者としての彼が天才か天才じゃないかは、断ずることができない。「びじゅチューン」は大好きだし、彼の歌は毎日口ずさんでいるし、発想も表現力も素晴らしいと思うけど、仮に「美術を歌にする人評論家」が現れて理路整然と「びじゅチューンがすごくない理由」を述べたとしたら、反感を抱きつつも「そうですか」と言ってしまうかもしれない。私は創作者じゃないから。ぶっちゃけよくわかってないから。

でも、もし「仕事をする」こととか「ブログを書く」ことが創作のはしくれであるならば、私は井上涼のような創り手になりたい。

「びじゅチューン」は一応教養番組だと思うが、難しい理屈など一切出てこない。紹介する作品を、彼の目で見て、彼が面白いと思い、そこから産まれてきたものだけが、ばーんと叩きつけられる(感触としては、ふにゃっと差し出される)。

 屏風絵が折れ線グラフ、というのは「正しい解釈」では絶対にないだろう。しかし、正しさが何だというのだ。そんなもんちょっと検索すればいくらでも出てくる。

彼がそれぞれの作品を深く理解し、広範な知識を持っているという事実は、作品の端々から読み取れる。しかし、知識の切り貼りや既存の解釈の羅列は、人を惹きつけない。

「びじゅチューン」が教えてくれるのは、美術の知識ではなく、鑑賞という行為の楽しさそのものだ。創作も、鑑賞も、本来は個人の楽しみであると思う。そこに他人を巻き込むことができるのは、やっぱりすごいことなのだ。

私も、小理屈を唱えなくても本質を伝えられる仕事をしたいし、「物知りなブロガー」よりも「ドラマ鑑賞や読書の愉しみを伝えられるブロガー」になりたい。しかしそうなるには知識を得ることが大前提なので、仕事関係の皆さまにもブログでお世話になってる皆さまにも引き続きご教示賜りたく思います、と土下座する次第であるわけだが。

 

ところで、初版分には、DVDについているハガキを送ると井上涼が好きなキャラクターを描いて返送してくれる、という、後世の人が聞いたら泣いて悔しがりそうな特典がついていたそうだ。

もし描いてもらうとしたら、誰を選ぼうか。

機嫌のよい時「かみがた~をかえたい~の♪」と思わず口ずさんでしまうのに収録されなかった「ファッショニスタ大仏」をお願いして、次巻への収録希望をアピールするか。正統派美少女「真珠の耳飾りのくノ一」で行くか。好きなキャラは「アイネクライネ唐獅子ムジーク」の作曲家コンビなのだが、描線が多くて描くのに時間がかかりそう。リクエストはたくさん送られてくるだろうに、うっとおしがられないだろうか。

……たかが購入特典なのに(しかも実際もらうわけでもないのに)、「このキャラクターを選ぶとは、わかってるな」と井上涼に思われたい、という自意識がバリバリに働いている。

自らの意思を表明するという行為は、どんなに小さなことでも、表現の始まりなのだろう。

 

 

2015年

4月

29日

YOUは何しにギロッポンへ

六本木という街には、働くようになって初めて出入りするようになった。

アメリカ人の同僚に連れられて、T.G.I.FRIDAYに行ったのが最初だった、と思う。

以来、赤坂、六本木界隈は、何かにつけて「初めての体験」をする場所になった。体験型レストランに行ったのも「NINJA」が初めてだったし、初めてマーティン・フリーマンを見たのも、「観客が歌う映画」を観たのも六本木ヒルズだ。お金持ちが多そうな雰囲気に気後れして、「何かないと行かない」というのが正直なところかもしれない。

そんな気後れの街・赤坂や六本木で、唯一リピーターになったパブがある。リピーターと言っても群馬に住んでいるので両手の指に足りない回数だが、なんとなく落ち着ける場所で料理もおいしいので、遠方に住む友人たちとの集合場所のようになっている。がやがやしている上に周りの会話が英語なので、日本語である程度気兼ねなく萌え話ができるのもいい。

先日も利用した。Rさん、Lさんと私の3名で入店しようとすると、店員さんが「イベントをやっているが、構わなければ」と申し訳なさそうに告げた。

真冬で、外は雨降りで、お腹は空ききっていた。それに気を遣われないことこそが私たちにとっての利点なので、全くもってノープロブレムである。構わん構わん、と意志表示すると、店の真ん中にあるテーブルに通してくれた。

食事より、酒や調味料を置くのが目的という感じの、丈が高く天板が二段になっている、小さな丸テーブルだ。着席すると、向かいに座るRさんの顔が、一段目と二段目の間に顔を差し入れて覗かない限り見えない。座ってくつろぐよりも、伊達男が肘をかけてもたれかかっていたり、吹っとばされた男になぎ倒されて、周りの客が悲鳴を上げるような場面が似合いそう。

しかしまあ、なんとか食事はできる。使用面積は小さくても、二段あるからお皿は倍乗るし。気にしないことにして飲み物を注文していると、けたたましくホイッスルが鳴った。

客の全員、いや半分が、さっと席を立つ。立ったのはいずれも男性、残ったのは女性だ。よく見ると、私たち以外の全員が名札をつけている。

我々3人の丸テーブルを世界の中心として、時計回りに男たちの大移動が始まる。さっき申し訳なさそうだった店員が声を張り上げ、「次のホイッスルは15分後」と告げる。

 

初めてだが間違いない。これ、お見合いパーティーだ。外国人の。

おそらく外にもお知らせがあったろうに、ちゃんと見ずに入店したこちらが圧倒的に悪い。悪いのはわかってるが、言わせて欲しい。

 

断れよ!

 

かくして、15分おきにホイッスルが鳴り響く中、私たちは飲み食いを堪能し、人にうるさがられる心配全くなしに(周り皆それどころじゃない)、マッツ・ミケルセンやリチャード・アーミティッジへの愛を伸び伸びと語りあったのだった。

時々名札を付けた男性が陽気に飛び込んできては、全ての椅子が(若干お姉さん気味の)女性で占められてることに戸惑いを隠さなかったり、隣のテーブルのエリカ(仮)をボブ(仮)が席を離れた後も狙ってるのにエリカ(仮)はユージーン(仮)に惹かれてるのが丸わかりでこっちがハラハラさせられたりしたが、それもまた良い思い出である。

他人の恋愛模様の情報が一方的にインプットされ過ぎて、アウトプットするべく近くのコーヒーショップで自主反省会を行わずにはいられなかったが……。


そんなこんなで、就職したての頃から今に至るまで、六本木は新しい何かが起こる街であり、未体験のことだってまだまだあるのだ。

とりあえず「いい年してふらふらしてないで、婚活しろよ」攻撃に対し「お見合いパーティーに参加したことならあるんですけどね~」とにっこり笑う、という迎撃パターンがひとつ増えた。めでたし。

 

2015年

3月

10日

スネ夫のママのケーキ屋さん

そのメールは、年に2回か3回やってくる。

文面はいつも同じで、至ってシンプルだ。

 

「例のアレ、そろそろどうですか」

 

私の返信も大抵同じ。

 

「了解。いつものメンバーでいいですか。連れてきたい人がいたら人数を教えてください」

 

金曜が来ると、私は残業せずに早めに職場を出る。仕事が残っていたとしても、翌日に休日出勤すればよい。

帰宅したら、簡単な料理を作る。ショートパスタとか、ピザとか、ワカモレとか、あまりお腹がいっぱいにならないようなもの。

6時くらいになると、職場の仲間がスナック菓子や飲み物を携えてやってくる。軽い夕食をとりながら、職場の愚痴を言い合う。金曜ロードショーでジブリ映画がやっていたら必ず観る。ジブリのキャラクターと付き合うなら誰がいいかとか、くだらない話をダラダラとする。

映画が終わると、私はおもむろに湯を沸かし、紅茶やコーヒーを淹れる。この辺りで、子育て中のメンバーが子供を寝かしつけ終えて集まってくる。本番はここからである。

メールをくれた友人が台所から大きな紙箱を持ってきて、解体する。開けるのではなく、側面をはずして文字通り解体するのだ、箱は一枚の展開図になり、色とりどりのケーキが現れる。

歓声。キレイ、かわいい、おいしそう。

ケーキを選んで買ってきてくれる友人は、地元で有名なパティスリーの近所に住んでいる。旬のフルーツがたっぷり使われていたり、動物を模していたりと、どのケーキにも工夫が凝らされている。シーズンごとにたくさんの種類のケーキが出てくるので、網羅するにはこの「ケーキ会」が一番いい。

切り分けたりせず、四方八方からフォークを入れて食べる。下品かもしれないが、少しずつメンバーを変動させながらも、もう何年も続いている習慣だ。こういうケーキは一人ではなく、分け合ったり、SNSにアップしたりと、人と感想を共有しながら食べるのがいい。

深夜に甘いものを食べる背徳感と、明日は休みというささやかな幸せに浸りながら、眠くなるまで雑談を続ける。飲み会とはまた違った楽しみである。

 

実は、先輩に教えていただいたお気に入りの店がもう一つある。

先輩曰く「三角のケーキしかない」小さな店だが、入るとふわっといい匂いがする。クッキーやシュークリームのチェーン店から漂うこれ見よがしなバターの匂いとは違う、バニラのとも、洋酒のともつかない甘い香り。「ケーキ屋さんの匂い」としか言いようのない匂いだ。

ケーキは8種類ほどしかなく、もう見事に「想像通り」のケーキばかりだ。ショートケーキ、と聞いて10人中10人が思い浮かべるような形のショートケーキ。チーズケーキもプリンもそうだ。でも、チョコレートケーキにはお酒がしっかり効いているし、アップルパイのリンゴは甘過ぎず大振りで、ぎっしり詰まっている。どのケーキも、それぞれきちんとおいしい。端正な味がする。

このケーキに似合うのは、一人暮らしのアパートではない。海賊が町を襲うようにフォークを振るう女たちでもない。

ズバリ「応接間」だ、家具調テレビの上にレースかかってるみたいな。黒電話にカバーかかってるみたいな。飲み物は砂糖壺まで揃いのティーセットで淹れた「お紅茶」で決まり。スネ夫のママみたいな上品な夫人に淹れてもらえれば完璧だ。

テストで100点をとったスネ夫のように、ささやかないいことがあったら、私はこのケーキ屋さんに行きたい。応接間はないけれどきれいに片づけた部屋で、ティーセットはないけれどちゃんと手順を踏んで紅茶を淹れて、うやうやしく箱から取り出したケーキを皿に載せ、正座して食べたい。

その際SNSにアップはしないが、スネ夫のママの物まねは絶対にすると思う。

 

 

2015年

3月

01日

赤く塗れ

Blogというのはそもそも「自分が気になったニュースやサイトなどのURLを、寸評つきで紹介した英語のウェブサイト」だったらしい(Wikipedia)。「21世紀探偵」ではSHERLOCKのことばかり書いているが、そこで出会った方々のブログを拝読していると、SHERLOCKのこと以外にも、ブログ主さんが興味を持ったことが色々書いてあって、非常に面白い。現在YOKOさんがハマっていらっしゃる「イングレス」なんて、職場とアパートとスーパーマーケットしか行かない自分には全く縁がないが、YOKOさんが陣地を増やしていくさまを見ているだけで手に汗握る。「ラインハルト様、宇宙を手にお入れください」という心境だ。さすがのYOKOさんも群馬にキルヒアイスがいるとはご存知なかろう。キルヒアイスと違って役に立ってるわけじゃないし。

ドイルの外典発見事件でリンクさせていただいたTomoさんは海外を飛び回るお仕事をなさっていて、ブログもその行動範囲に連動するかのようにさまざまな話題に満ちている(実はかなり昔からファンだった)。

3月1日現在のTomoさんの最新記事で紹介されたのが、「行った国を赤く塗りつぶす」サイト

Tomoさんはお仕事で50か国以上に行かれたそうだ。

私は旅行にもほとんど行かないので真っ白だろうな、と思ってやってみたら

意外と赤かった……

 

しかしこれにはトリックがある。

まず中国。職場の慰安旅行で、2泊3日で香港に行っただけである。そんだけでこの塗られっぷり。

アメリカは、仕事関係の資格を取るためにカナダにいた時に、バスでちょっと遊びに行っただけだ。何アラスカとか塗っちゃってんの、その上の方の島々も知らないから!ぶっちゃけ名前すらぱっと出てこないから!

アルゼンチンに至っては、ブラジルからイグアスの滝を見に行った時にちょこっと「アルゼンチン側」に回っただけだ。確かに国境は越えたし、パスポートも出したが、滞在時間2時間くらいじゃないか。そんなんでいいのか、塗っちゃって。

見た目の印象としては小さいが、日本列島がまるまる塗られてるのも感覚的にはとんでもない詐欺である。告白するが、私は北海道にも四国にも九州にも沖縄にも行ったことがない。基本的に関東ひきこもりだ、ハロー。

 

というわけで内情を告白すると(しなくても)、Tomoさんの50ヶ国には及びもつかないのだが、何だろう、この「塗りつぶす」気持ちよさは。なんかもう、内容が伴わないとかどうでもいい。赤けりゃいいんだ赤けりゃ。今、私はラインハルトだ。我が征くは星の大海。

 

……気付いてしまったのだが、人はこういう心境の時に「三大陸の婦人」とか言っちゃうんだよな、多分。

 

2015年

1月

31日

不用意な想像

「SHERLOCK」に関することは「21世紀探偵」の方に書くべきなのかもしれないが、なんとなく(より個人的な雑記である)こちらに書きたい、と思うことがある。

それは特に共感や承認を求めていない……いや、だったらネットに書かなきゃいいので承認欲求はそれなりに伴っているものの、どちらかというと「問いかけたい」よりも「吐き出したい」という動機によって書いた文なのだと思うが、その分類基準は自分でもよくわからない。

しかし、この記事をこちらに書いた理由ははっきりしている。「腐女子」的だからだ。

とはいえ、私はシャーロックとジョンが性的な関係を持つことにも、「腐女子」と呼ばれることにも抵抗はないつもりだ。

「腐女子」とは、「そういう見方」しかできない人、という目で見られがちだが、私の知る「腐女子」たちは、対象を鑑賞するうえで「腐女子的な視点」と「そうでない視点」を巧みに使い分けていると思う。鑑賞眼のチャンネルが一つ多い、とでも言おうか。

何と呼ぶのかは知らないが、女性同士の恋愛に「萌える」人たちにも同じことが言えるだろう。部外者の嫌悪感と本人たちの自虐的な自己演出が相まって必要以上に反社会的な存在になっているのは、色々な意味でもったいないことだなあ、と思う。性的なことに関する言動に理性が求められるのは、異性愛者も同じことなのに。まあ、反社会的な世界だからこそ惹かれる人もいるのかもしれないが。

いずれにしても、性に関することは生理的な嫌悪感に直結している。腐女子と思われるのが嫌なわけでも、腐女子が嫌いなわけでもないが、そういう話題への「心の準備」のない人の居心地を悪くするのは不本意なので、やはりこの記事は「日記」に書きたいと思う。

前置きが長くなった。「21世紀探偵」の記事も内容がシャーロックとジョンの関係性に偏っているので、見る人が見れば十分に「腐っている」と思うが、ここではストレートに二人の間の恋愛感情について書きたい。

そこに触れない限り、あの場面が解釈しきれないと思うからだ。

 

結婚式前夜、色々あって二人はひどく酔っぱらっている。つまり、言葉の上での駆け引きができない、少なくともそれが困難な状態になっている。

スタグナイトだから律儀にそうしているのだろうが、二人はパーティーゲームを始める。初級英語の授業でもやるような、単純極まりないゲームだ。

まず、物や人の名前を書いたカードを額に貼る。貼られた本人には、自分に何のカードが付けられたのかわからない。周りの人間に質問をして、「自分は誰なのか」を導き出す。

独身最後の夜に二人にこのゲームをさせるのは、お互いについての思いを正直に述べさせるためだろう。相手にとって、自分は何者なのか。どういう存在なのか。それを確かめ合う場面だ。

 

シャーロックの額には「SHERLOCK HOLMES」と書かれたカードが貼られている。ジョンが書いたカードだと思うが、おそらくこの場合の「シャーロック・ホームズ」はシャーロックの名前というよりも、有名な探偵としての「シャーロック・ホームズ」であり、"The Empty Hearse"のラストシーンで、記者会見に臨むシャーロックが帽子をかぶって「さあ、シャーロック・ホームズになる時間だ」と言った方の「シャーロック・ホームズ」だ。

「シャーロック・ホームズ」言い過ぎて何が何だかわからなくなってきたが、二人が改まって「シャーロック・ホームズ」と言った場合、それはシャーロックが事件を解決し、ジョンがブログを書くことで二人が作り上げた「シャーロック・ホームズ」という人物像なのだ。

しかし、ジョンは作者の片割れであるにもかかわらず、「シャーロック・ホームズ」を理解しきれていない。彼にとってそれは、依然としてシャーロック自身でもあるから。

もちろんシャーロックにも理解しきれない。ジョンの語る「シャーロック・ホームズ」像を聞いて「それは君だ」と結論付けたのは、おそらく本心だろう。「シャーロック・ホームズ」の半分は「ジョン・ワトスン」なのだから。

未完成のままの「シャーロック・ホームズ」をシャーロックに残して、ジョンはシャーロックのもとを去ろうとしている。見ようによっては、とても残酷なことであるが、誰も断罪はできない。

「犯人」は一人もいないのに、悲しいことが起こる。この世界ではそういうことがたびたび起こるが、この二人には解決できない。犯人がいて、事件が起こって、依頼人が来ないと「シャーロック・ホームズ」は何もできない。ある意味では、とても無力な存在だ。

 

ジョンの額には「MADONNA」というカードが貼られる。

有名な歌手の名だが、当然、崇拝の対象となる「聖母」も連想させる。

"His Last Vow"でマグヌッセンはジョンをシャーロックの「damsel in distress(嘆きの乙女)」と表現する。これまで多くの人を「誤解」させてきたが、本人が否定しても、周りの見方ではジョンはシャーロックの「恋人」なのだ。

そもそも、友情と恋愛の境目とはなんだろうか。定義するのは難しい。人間関係の定義は本人たちの主観次第だが、時に客観のほうが本質をついていたりする。

ジョンはシャーロックに"Am I a woman?""Am I pretty?"と問いかける。

異性愛者のジョンが発した場合、Am I a pretty lady?という問いは、「(男性である)君にとって、僕は恋愛対象になり得るのか」という質問にも受け取れはしないだろうか。

シャーロックの答えは "Beauty is a construct based entirely on childhood impressions, influences and role models."

「美とは子ども時代に受けた印象、影響とロールモデルで 決まる概念だ」

と彼らしいが、どんな意味においてもジョンの質問に答えていない。酔っているせいか、それとも、わざと答えていないのか。

そもそも、数年にわたる付き合いにおいて、この二人は恋愛やセックスの話をしたことがあるのかな、と考えてしまう。A Study in Pinkのアンジェロの店の場面で、ほとんど初対面に等しい二人がお互いを探り合う場面はいかにも遠慮がちだった。ジョンには次々にガールフレンドができ、シャーロックはそのことを正確に把握しているが、妨害しようという意図は見えない(結果的に邪魔してしまうことはあるが)。シャーロックとアイリーンの関係においても、ジョンとメアリの関係においても、二人はお互いの恋愛について否定も肯定もしない。というより、お互いその領域に踏み込むのを避けているように思える。原作でホームズがワトスンの結婚に「おめでとうは言わない」と言ったように、あるいはワトスンがホームズとハンター嬢のロマンスを願ったようには、踏み込まないのだ。それは、男性同士の友人関係において、一般的なことなんだろうか。シャーロックが女性に興味を示さないことを差し引いても、デリケートというか、わりと気を遣ってるんじゃないだろうか。

もちろんドラマに映ってない場でガンガン猥談してた可能性もあるけれど、少なくとも確認できる限りでは、そういう話題を持ち込むことに関して、二人は過剰に清潔だ。

そういう背景を踏まえて見ると、この場面はちょっと際どい。ジョンもシャーロックも「気遣い」を捨てて、かなり無防備な姿を相手に晒す。じっと相手を見つめたりもする。ジョンはより率直に、シャーロックはより素直になっているように思える。

ジョンはいきなり"Am I a vegetable?"(僕は野菜か)と問いかけるが、vegetableには異性愛者という意味もある。シャーロックはおそらく「二つの意味」を捉えていて、"You or the... thing...?(『君自身か、それともそこに書かれていることか』)"と反応する。また、よろけたジョンがシャーロックの膝を掴んでしまうが、シャーロックはわざわざ"I don't mind."と言う。ちょっと、妙な空気ではないか。さっきまで折り重なって階段で寝てたのに……

 この夜、二人が恋愛関係に転んだ可能性もあったのかもしれない。おそらく無意識にだと思うが、ジョンは、友情よりも恋愛を選んで去っていく者として、最後のチャンスをシャーロックに与えたのかもしれない。シャーロックにもまた、同じような意図があったのかもしれない。

いずれにしても、二人がそうなることはなかったわけだが。

 

ここに書いたことをこの脚本を書いた人たちに問いかけたら、巧妙に否定されるだろう。「シャーロックとジョンの間に恋愛感情はない。想像するのは勝手だがね」というのが賢い彼らのスタンスだから。

でも彼らは、私たちが知っていることを知っているはずだ。そもそもこの作品は「想像する」ことから生まれたと。

自分にない想像を持った人を糾弾するのも、カテゴライズしたりされたりすることで優越感や自意識を持つのも自由だ。しかし、どんな想像であれ、想像をした時点で私たちは皆「共犯者」なのだ、と思う。

2015年

1月

05日

誰かの幸せを祈るということ(映画『ホビット』」3作目感想)

私は、トールキン作品が苦手な子供だった。

意外な展開よりも予定調和を望む、自分の理解の範疇外に物語が転がっていくのを恐れる、そういう子供だった。

私の「常識」では、主人公は竜を倒して宝物を取り戻さなくてはならない。

湖の町の人たちは、勇敢なドワーフたちに協力しなくてはならない。

ビルボはドワーフたちと仲良くなったのだから、エレボールでいつまでも幸せに暮らすのだ。


しかし、この物語はそんな風に綺麗に収まってはくれない。

トーリンは死に、湖の町は焦土と化し、ビルボの家財道具は競売にかけられる。ついでに言わせてもらえば、私自身の人生も王子様に出会ったり大金持ちになったりしてハッピーエンド、というわけにはどうも行かなそうである。


負け惜しみかもしれないが、幸せでない、ということは、いいことでもあるのだ。幸せの外にいると感じるときにだけ、幸せというものの形が見えるからだ。

物語はいつも、幸せの外に転がり出てしまった人たちが、幸せを掴む、あるいは取り戻すために始まる。

その願望は「欲」と呼ばれることもある。欲は人を動かしてくれるが、時にひどく人を苦しめる。

欲の対極にあるものは、自分ではない誰かの幸せを祈る、ということなのかもしれない。


自らの中に潜む欲に打ち勝ったトーリンは、ビルボに「本や肘掛椅子が待っているぞ」と告げる。

かつてビルボが「君たちの気持ちがわかったから、手伝いがしたい」と言ったように、トーリンもビルボの望みがわかっていた。わかっていただけではなく、共感し、叶えてやりたいと思っていた。本来の彼は、そういう人だった。


初めにそれを見せてくれたのは、ドワーフの一人であるボフール。

彼は、王族ではなく、戦士ですらない。しかし、自分たちに不信と不満を抱いて逃げ出そうとするビルボに、何の迷いもなく「幸せを祈ってる」と言ってやれるという美点を持っている。

ボフールの優しさが、ビルボを変えた。変わらなければ、ビルボはトーリンを救えなかった。

結局、すべてはつながっている。

そして、次の世代へも続いていく。

前の世代がかなえられなかったことを、次の世代がかなえていく。

自分と全然違う人でも本当に大切に思える、つまり無私になれるというのがこの作品のテーマのひとつだとしたら、異種族の二人がお互いの幸せを祈る、というのはその究極の形かもしれない。

ビルボとトーリンの友情、キーリとタウリエルの恋は悲しい結末を迎えたが、それを見ている人がいる。伝え聞く人もいる。ビルボやタウリエルの悲しみは、レゴラスとギムリの友情や、私のまだ知らないたくさんの登場人物の幸せというかたちで報われるのだろう。どんぐりが芽吹いて、大きな木になり、たくさんの実を結ぶように。

そのどんぐりとは、ボフールの優しさのように、素朴な、小さな、どこにでもある、しかし何よりも尊いものなのだろう。

2014年

10月

18日

「SHERLOCK」の「居心地悪さ」

北原尚彦著「ジョン、全裸連盟に行く」を読んだ。

とても楽しかった。事件の構造がドラマよりしっかりしていると感じた。シャーロックとジョンのやりとりも軽妙で面白い。

個人的に嬉しかったのは、読んでいて心地良かったことだ。

ホームズの舞台は  ロンドンの下町、テムズ河、ダートムアの湿地と多岐に渡るが、221Bというホームがある。どんなに陰惨な場面でも、暖炉に火があかあかと燃え、お気に入りの椅子にかけて煙草をふかしたり、本を読んだりしているホームズやワトスンの場面に戻ってくるという、安心感がある。

どんな事件でも、ホームズはちゃんと解説してくれる。そして、ワトスンは読者と同じように、「ちゃんと、わからない」。

スマートフォンやインターネット、ネットスラングは「SHERLOCK」の時代のものでも、この作品は「正典」のコージネスを受け継いでいる。

 

ここに、ドラマ「SHERLOCK」とこの作品の違いが見えてくる。

「SHERLOCK」はどのエピソードも必ず「クリフハンガー」または新たな脅威、新たな謎を提示しながら終わることに象徴されるように、わざと視聴者を「居心地悪く」させている。

 

私は第1シリーズから第3シリーズまで、原作とドラマを見比べ、ドラマがどの程度原作を踏襲しているか考えている。非常に拙い作業ではあるが、ひとつわかったことがある。それは、「元ネタ探し」にゴールがない、ということ。かっちりと、綺麗にピースがはまるようには作られていないのだ。

 シャーロックは原作のホームズをモデルにしてはいるが、ホームズの性格はマイクロフトにも振り分けられている。いわゆる「ワトスン役」の枠を超えた活躍をジョンが見せることもあるし、ワトスンの役割をレストレードが担っていることもある。メアリに至っては、原作よりオリジナル要素の方が上回っている。単純に原作の登場人物を引き継ぐのではなく、性格の一部分を増幅させたり、解体・結合させて、新たなキャラクターを作っているのだ。

エピソードの扱いにも同じことが言える。

「ピンク色の研究」の元ネタは一応「緋色の研究」とされているが、単純に一つの作品が一つの作品の元ネタであるわけではない。どの作品も細かく解体され、再構成されている。

フランケンシュタインの怪物のように、切り刻まれ、不穏なかたちに造形されているのだ。原作を知っている者も、知らない者と同じ不安感を持って観なくてはならない。

 

原作の持っている安定感を崩す一方で、不安定さは再現しようとする。

ワトスンの名前や傷の位置の矛盾に合理的な回答を提示して見せたりもするが、時系列の矛盾やシャーロックのサバイバル方法、ジョンのブログに散見される「語られざる事件」などは、わざと曖昧にしてある。そういう部分にファンが躍起になるのを、確信してのことだと思う。

 

そして、「作り方」。第3シリーズではジョンの妻やシャーロックの両親に俳優の実際の家族をキャスティングしたが、あれは冒険だったのではないだろうか。イギリスのショービズ界の空気は良く知らないが、どれだけスタッフが「役に合っているから配役したのだ」と言い張ろうと、俳優のプライベートを持ち込むのは、「作品の質の追及を放棄した」という誹りを免れないはずだ。個人的な感想を述べれば、フリーマンのパートナーもカンバーバッチの両親も好演だったとは思うが、「この役は絶対に、この人でなければダメだ」とまでは感じなかった。

これだけの名声を得ておいて、なぜ、あえて「おままごと的な」ことをするのか。人気に胡坐をかいている、とも、逆に話題作りに必死になっている、とも言われているだろうが、その目的は好意的な評価を振り払うこと自体にあったのではないか。

その根底には、シリーズを重ねても「名作」になりたくない、視聴者の期待を良くも悪くも裏切り続けたい、という、ひねくれた中学生のようなマインドがあるのではないか、と邪推している。

(悪いことだとは全然思わない。ひねくれた中学生の素養なくして、誰が『ホームズ』を愛するものか)

「ひねくれ」とは、「最高傑作」と称される正統派グラナダ版ホームズへの反骨精神かもしれないし、逆に、そのポジションを尊重したいという敬意の表れかもしれない。アメリカPBSで放映された時のファンとのチャットだったか、モファットとゲイティスはシャーロックの年齢を聞かれて「8歳」と答えた。製作者が自分たちのホームズに施した「子供」という位置づけは、そのまま彼ら自身の立ち位置を表していたのかもしれない。

 

もっとも、原作にコージネスを感じるのは、完結してから時間が経っているからであって、リアルタイムで読んでいた読者は、私たちが「SHERLOCK」に感じているような不安を感じたかもしれない。

そして、あと数十年して「SHERLOCK」が「過去の名作」になる頃、後世の視聴者はシャーロックとジョンの不器用なつながりや、どことなく殺風景な部屋にコージネスを感じるのかもしれない。

北原氏の作品に心地よさがあるのは、原作に対する読者の「居心地悪さ」を補正しようとするシャーロッキアンの視点で書かれた作品だからでもある、と思う。「居心地の悪さ」にこだわる「SHERLOCK」とは、そこが違う。

言うまでもなく、どの作品にも「ホームズとワトスンの友情」というしっかりとした軸は感じられて、そこには揺るがないコージネスがあるのだけれど。 

2014年

9月

29日

「花子とアン」最終回

先日、アメリカ人の友人が泊まりに来た。

夕食後にローズティーを出したら、「どうして日本にはバラの匂いのものがいっぱいあるの」と不思議そうな顔をされた。

二人でバラの匂いのするものを列挙してみる。バラの香水、化粧品、石鹸、シャンプー、ルームフレグランス、洗剤、入浴剤、トイレットペーパー……

日用品に「香り」をつけるとしたら、バラの香りは選択肢の第一に挙げられるのではないだろうか。アメリカではそうでないのだとしたら、逆に驚く。

だが、彼女がそう来るなら私にも言いたいことがある。なぜ、アメリカ人はあそこまで「キュウリの香り」を推すのか。

「変じゃないよ!キュウリはいい香りだよ!」「バラの方がいい香りだよ!キュウリは…ほら、キュウリは食べるものじゃん!」「それはミルクもそうでしょ!バラは女っぽすぎるよ。香水ならわかるけどケア用品には合わない!」

もう「感覚の違い」としか言いようがないのだが、私はこういう不毛な争いをしている時、ものすごく楽しい。「ぞくぞくする」と言っても過言ではないかもしれない。

 

次の日、職場の飲み会で、別のアメリカ人の同僚に「さつま揚げ」を説明していたら、"fish cake"という言葉に、日本人の先輩が驚いた顔をした。ケーキは甘いもの、というイメージがあったそうだ。

本当に個人的なイメージだが、cakeとは、物の名前というより形状を表す言葉のような気がする。何かが、みっしりと固まっているイメージ。そして、私にとってはその「何か」は、なんだか素敵なもの、という感覚がある。

たぶん、これは「資生堂ホネケーキ」のイメージだと思う。親戚が近所で化粧品店を営んでいたため、私は販促品のあまりをもらっては綺麗なケースや瓶を眺めて楽しんでいた。「ホネケーキ」は色のついた半透明の石鹸で、まるで大粒の宝石のようだった。私はホネケーキを持ち物の中でも最上ランクの宝物と位置付けていたので、誕生日に食べる特別なお菓子と特別な宝物が同じ名前を持っているのは、とてもしっくりくることだった。

 でも、人によっては、石鹸は別に心ときめくものではないかもしれない。辞書で調べてみると、鉱床や氷も a cake of で数えられるようだ。

すると、cake=甘いお菓子、と考えるのも、cake=素敵なものの塊、と考えるのも、間違いであることになるが、私はこの「個人の感覚」と「共有される感覚」の境界線に興味がある。

 

言葉に背負わせる感覚は、国や地域によっても違うけれど、個人によっても違う。自分の持っている感覚は、どこまで他人と共有できるのか。まだ自分の知らない言葉は、どんな感覚を背負わされているのか。それを知るための案内役として、辞書がある。辞書は世界を知るための案内役だ。

 

「花子とアン」で、主人公がわからない言葉に出会うと、辞書を引きたくて居ても立ってもいられなくなる気持ちは、とてもよくわかる。その言葉は一旦置いておいて先を読み進めるという手もあるが、どうしても「今」

知りたいポイント、というのはあるのだ。すぐにスマートフォンで検索をかける人は、共感できるはずだと思う。

言葉を知ることは、他者を知るための手がかりだ。その喜びが「辞書のある場所に向かって駆け出す」というアクションをもって描かれたのは、とても良かったと思う。

人を結びつけるための手がかりとして、主人公の武器であるはずの「言葉」があまり活用されず、魅力的なキャラクター達や彼らの「言葉」が雑多に放り込まれたまま整理されなかった感があるのは残念だが、私にとっては毎朝宝箱を開けるような半年間だった。

「言葉」の仕事を映像化するのは難しいのかもしれないが、「推理」を可視化した『SHERLOCK』が現れたように、また誰かが果敢に挑戦してくれたらいいな、と思う。

 

2014年

9月

22日

ビルボの誕生日

『シャーロック・ホームズ』に関連するブログを作って3年程になるが、一度もホームズやワトスンの誕生日を祝ったことがない。ファンの間ではそれなりに盛り上がっているようで、クリスマスだエイプリルフールだといちいち騒いでいるミーハーな性格の私は「お誕生日企画はやらないの」と友人に聞かれたことがあるが、単に忘れているのだ。気がきかない性格なので、作中でばーんとアピールしてもらわないと覚えられないのだと思う。

その点「ホビットの冒険」「指輪物語」の主人公、ビルボとフロドの誕生日である9月22日は、作中で盛大に祝われているので忘れたことがない。花火は上げられなくとも、ケーキでも食べてお祝いしたいところだが、あいにく天から降ってくるお菓子しか食べられない身だ。


仕事中に突然、そうだ、フル・イングリッシュ・ブレックファストを食べようと思いついた。

現代版ハドスンさんのように、アメージングなフライアップを作るのだ。ベイクドビーンズはあんまり好きじゃないから省略するけど、作中でビルボが何度も懐かしがるベーコンエッグに、ハッシュドポテトに、焼いたトマトとマッシュルーム。

帰りにスーパーに寄って買い物をしよう。新鮮な卵とおいしいベーコンを買おう。明日も仕事だから朝はゆっくり食べられないけど、今日の晩ごはんにすればいい。早めに帰ってのんびり食べながら、二人の誕生日を祝おう。ああ、楽しみだ。


仕事を終えて、スーパーに駆け込んだのが7時30分。

まず、ちょっといい卵を買う。卵はトーリンみたいに6個、いや、今の私にはコレステロール的な意味で冒険になってしまうので1個にしておこう。

コレステロールといえば、ベーコンを買うのは久しぶりだ。塊で買いたいが、脂肪と塩分が多く、お医者さんの「控えたほうがいいリスト」に入ってるので86円の「朝食使い切りベーコン」にする。これでカルボナーラも角切りベーコンのカレーも作れない。束の間の逢瀬となる。

いつかロンドンで食べたブラウンマッシュルームはないので、ホワイトマッシュルームを手に取った。一袋168円か……ないな……ブナシメジ98円に変更。トマトも、つい最近まであんなにいただきものをしたのに、採らないと重みで苗がダメになってしまうという義務感に駆られて食べていたくらいなのに、色もよくないのが一袋300円台。諸行無常の響きあり。

ふと飲み物コーナーに目をやると、トマトジュースが安売りしていたので、「腹の中に入れば同じ」という精神でそちらを買うことにする。

伊藤園「健康と美容にリコピン135g・理想のトマト」だ。文句はなかろう。少なくともリコピン含有量において、こっちのほうが勝ってるだろう。

鮮魚コーナーでは、店員さんがきびきびと魚のパックに値下げシールを貼っている。魚好きの私としては、いつもなら迷わず飛びつくところだ。

大好物のしめ鯖が半額になってる。しめ鯖にビール、いいな……

いや、でもビルボとフロドの誕生日だから!鱒のソテーはセーフでもしめ鯖はアウトだから!と心を鬼にしてレジへ。


帰宅すると8時過ぎ。じゃがいもをハッシュなり何なりする気力は、とうに失っている。レンジでチンか、なんなら省略でもよい。8時過ぎて糖質摂らないほうがいいし。

出来上がった「ベーコンエッグ・しめじソテーとトマトジュース添え」には見事になんのスペシャル感もなかった。一応i-phoneで写真を撮って「HAPPY BIRTHDAY★ BILBO and FRODO★」などと絵文字で可愛らしくデコったメールを友人宛に作成してみたものの、アップル社の威力をもってしても「夜の9時に一人で朝ごはんを食べてる奇矯な女」という事実しか伝わらなそうなので速攻消した。


というわけで、ブログには書かないし、SNSもやっていないが、私も微力ながらそれなりにオタクとしての日常を営んでいる。現実との兼ね合いにおいて微妙に空回りして、素敵企画としてアップロードできるレベルに至っていないだけである。

2014年

9月

20日

アリのままで

小学校3年生の担任教師をしている友人が、児童の日記に「ひるやすみに、●●ちゃんがアリのままをうたいました」と書いてあったという話をしてくれた。

私も、アリの巣穴を掘り返しながらこの歌を熱唱している幼児を見かけたことがある。一部の子どもにとっては、昆虫の歌として理解されていると思われる。

 

幼稚園児の頃の私は、「まっかなおはなのトナカイさんは いつもみんなのわらいもの」を「いつもみんなのにんきもの」と歌っていた。黒い鼻より、ぴかぴかの赤い鼻のほうが断然クールだと思っていたのだ。

トナカイが人気者だとすると「いつもないてたトナカイさんは こよいこそはとよろこびました」の部分に破綻が出てくるのだが、これは「容姿のみをもてはやされることに虚しさを感じ、華やかなスポットライトを浴びながらも陰では涙を流していたトナカイが、人の役に立つことで真の喜びに目覚めた」と解釈していた。当時のアイドル漫画の影響だと思う。未だに、トナカイ役は田原俊彦(※当時のトップアイドル)という感じがする。

 

「ありのままで」を「虫であることで迫害を受けながらも、本来の姿を隠さずに生きる蟻の歌」という解釈で歌ってみても、大した破綻はない。「アナと雪の女王」という邦題も、字面がちょっと「アリの女王」っぽい。どうせ『虫の歌』などと解釈している子どもはちょっと聞きかじった程度の関わりだろうから、見間違いもしている可能性は大きい。擬人化作品文化や「バグズ・ライフ」や「アンツ」などのCGアニメ作品の存在も、誤解に拍車をかける。

 

ちなみに私が「赤鼻のトナカイ」の真実に気づいたのは、大学1年の時だった。ぼんやり道の後進たちにも、「アナと雪の女王」が蟻の女王の話でないことに気づく時が来ると思うが、なるべく遅くなるように呪いをかけている。

2014年

9月

15日

お菓子は天から降ってくる

ダイエット及びコレステロール値問題から、甘いものを控えることにした。

しかし、仕事関係のいただきものが多い。政治家とかではないので、豪華な贈り物をもらうわけではないのだが、30代という年代は、先輩の仕事をちょこっと手伝ったり、後輩になにか便宜を図ったりするたびにちょっとしたお礼をいただくことが多いように思う。オフィスの机の上におせんべいが載っていたり、貸した資料にチョコがついて返ってきたりする。誰かが旅行に行った時も、おみやげに個包装のお菓子を配ることが多い。


そういうものはありがたくいただきたいので、自分でお菓子を買うのを一切やめることにした。これからは、スーパーに行っても、じゃがりこもキットカットも、存在しないことにするのだ。今後私がお菓子を食べられるかどうかは、一切が運まかせだ。


そんなこんなでここ2週間ほどお菓子を買っていないが、たまにいただくお菓子がものすごくおいしい。同僚がクッキーをくれたのだが、口に入れたとたんに、バニラの香りをはっきりと感じた。バターの滋味、そして砂糖の甘さがじんわりと全身に広がっていく。以前なら小袋ひとつ分くらいパクパク行ってしまったが、今は一枚一枚ありがたくいただいている。次の供給がいつだかわからないのもあるが、一枚の満足度がものすごいのだ。ダイエットしている方だけでなく、甘いものがお好きな方にも、1週間くらい甘いもの断ちすることをお勧めしたい。次に食べるお菓子は、五臓六腑に染み渡るおいしさだ。

ドラマの戦争中の食糧難の描写なんかで、子どもたちが本当に幸せそうな顔で食べ物を味わっているが、食糧難でも、飽食の社会でも、与えられている幸福の量は等量なのかもしれない。ないよりはあるほうがいいはずだけれど、当たり前に食べていると、おいしさがわからなくなる。


そんなある日、職場に行ったら机の上に子どもの顔ほどの大きさの「ジャンボどら焼き」があった。前の晩にお客様にいただいたものの、スタッフ全員に分けられる量ではないので、一番喜びそうな私の机にそっと置かれたらしい。

「もらったものは食べていい」ルールとはいえ、一人でこれを食べてしまったら本末転倒ではないだろうか。早くも天に試されている。

2014年

9月

13日

月見バーガー不要論

月見バーガーに納得がいかない。

贅沢過ぎやしないだろうか。ハンバーグとパンだけでも十分おいしいし、目玉焼きとパンでも十分おいしい。


組み合わせるともっとおいしいんだよ!と月見派の友人は言うけれど、これがベーコンと卵や、チーズとハンバーグの組み合わせだったら、私も理解できないでもない。これらは、組み合わせたほうが絶対おいしい。肉や卵に、ベーコンやチーズの塩気が影響するからだ。

しかし、、目玉焼き+ハンバーグってなんだ。結局はハンバーグソースを目玉焼きに対する塩気にしているのではないか。だったら目玉焼き+ソースでよくないか。ハンバーグが入っているのは、「○○バーガー」として売るための方便ではないだろうか。


私は月見バーガーの高カロリーを憂えているわけではない。伊達にこんなコレステロール値を抱えて生きてるわけじゃない。ビバ高カロリーだ。

しかしながら、私は「贅沢」と「期待値」のバランスにはこだわる人間だ。いつからだったか我が家のハンバーグにも目玉焼きが乗るようになったが、私は固辞している。ただでさえ楽しみなハンバーグに目玉焼きまで乗ったら、それは身に余る贅沢というものだ。一回の食事に、主菜二回分。目玉焼きハンバーグに値するような生産的活動及びカロリー消費を、私がした試しがあったろうか。

それに、単純にもったいない。ハンバーグも目玉焼きも、私は大好きだ。できることなら、思う存分楽しみにしたい。

以前の上司が食い道楽で、突然ケーキを買ってきてくれたり、「今夜寿司を奢ってやろうか」などと誘ってくれる人だった。ありがたいことで、みんな喜んでいたが、私としては3日くらい前に予告していただければもっと嬉しかった。そうすれば、寿司やケーキを楽しみに、幸せに暮らした3日間があったはずなのだ。

「なにかを楽しみにして待つということが、そのうれしいことの半分にあたる」と、赤毛のアンも言っていた。アン説に従えばハンバーグ×(待つ楽しみ+食べる楽しみ)+目玉焼き×(待つ楽しみ+食べる楽しみ)=2。対して月見バーガー×(待つ楽しみ+食べる楽しみ)=1であり、数学的にも月見バーガーの楽しみ度が低いことが立証されている。

だいたい、現代人は快楽を追求し過ぎた結果、素朴な楽しみを忘れてしまったのだ。月見バーガーの存在そのものが我々に警鐘を鳴らしているのだ。


ここまで黙って聞いた月見派の友人は、静かに「でもアンタ、カツ丼好きだよね」と呟いた。

無論、カツ丼はおいしい。卵丼もカツもおいしいが、合わせることによって全く別物になる。カツ丼はプライスレスだ。カツ丼を否定するなんてナンセンスだ。

2014年

9月

02日

すべてが薄くなる

前回の日記のタイトルが「すべてがfになる」なのに当該作品にまったく触れなかったので、犀川先生ファンの友人Yが立腹していた。

そうだ、「すべてがfになる」が映像化するんだった。犀川先生役は綾野剛だそうだ。

まず若くないか!?と思ったが、原作が出版された時点で犀川は私より年上だったけど、考えてみればだいぶ追い越した。これからは、若い頃読んだ小説が映像化される度にそう思わされる運命である。つらい。

次に薄くないか!?と思った。綾野剛の演技が印象薄いと言ってるのではなく、顔立ちの話である。これも、原作を読んでいた当時の流行りの顔が木村拓哉だったり、福山雅治だったり、今より甘めだったせいと思われる。

考えてみれば当時の私の犀川先生のイメージはなんとなく理系っぽいという理由でおぎやはぎ(どちらでも可)だ。別に濃くもなかった。

あまり俳優さんに詳しくないので、理由がざっくり過ぎて犀川ファンにもおぎやはぎファンにも失礼だが、この理由を適用するなら、岡田あーみん「こいつら100%伝説」に出てきたニセ歯医者も捨てがたい。


薄すぎないか!?といえば、御手洗潔が玉木宏、石岡が堂本光一で映像化という噂はどうなったんだろう。

友人にコメントを求められて、ミタライはもう少しコレステロール値の高そうな顔がいい、というわかりにくい返事をして失笑を買った。その時頭の中がコレステロール値のことでいっぱいだったと思われるが、これも犀川先生に感じたのと同じ感慨だろう。

今は、線が細くてすっとして、バタくさくない顔の俳優が「ハンサム」なのだ。私も綾野剛や玉木宏の顔が大好きだが、御手洗シリーズは今までに何度となく映像化の噂があって、御手洗役は鹿賀丈史だの豊川悦司だの言われていた記憶を保持しているから、その記憶と現代の俳優さんの印象のギャップが、時差ボケのような違和感を生み出している。ベネディクト・カンバーバッチをホームズとは認めない、という意見の根底にあるのも、こういう感覚なのかもしれない。

それにしても、石岡君はもう少しうっかり八兵衛感がなくていいんだろうか。堂本光一は身体能力ばっかり評価されてる気がするが、私は『銀狼怪奇ファイル』のぽやぽやした演技が一番好きだ。どの原作を映像化するか知らないが、「あの作品」以外はあえて王子様を封印してほしい。


何だかんだで人形劇のホームズもカンバーバッチとフリーマンっぽい顔だし、SHERLOCKのヒットを受けて、すべての探偵と助手コンビが「あんな感じ」にならないか、勝手に心配している。あれは、ステレオタイプに流れず原作を誠実に受け止めた脚本を中心に、皆がそれぞれベストを尽くした結果が「いい」のであって、できあがった「あんな感じ」を真似るのではなく、そういう制作者たちの姿勢こそ真似て欲しいなあ、と思う。どちらも、そう扱われるべき原作のはずだ。

2014年

8月

29日

すべてがfになる

ダイエットをしている。

友人たちには何度めかと呆れられそうだが、とにかくダイエット中である。


健康診断の帰り道、保険センターで体脂肪率を計る機械にうっかり乗ってしまった。


体型や年齢の話は難しい。「太った」と言えば自分より重い人にキレられ、「老けた」と言えば年上の人にキレられる。しかし太るの老けるのもあくまで本人の中での比較の問題だ。

ハタチだって、本人がおばさんだと言えばおばさんなのだ。体重だって、それが何キロだろうと、オーバーウェイトとみなすのは本人次第だ。

逆に、何キロだろうと何歳だろうと、「まだまだイケる」と思いこんでしまうこともある。

しかし、体脂肪率は客観的な数字だ。自分の体の何割が脂肪でできているかがはっきりわかってしまう。相当な精神的ダメージである。

何度も何度もダイエットらしきものを決意して、最近ようやくわかったことがある。ダイエットとは、知ることだ。ランダムな知識を詰め込むのではなく、体の状態をつぶさに理解すること。

体脂肪率は何パーセントか、基礎代謝量は何キロカロリーか、何を、一日に何グラム食べるべきか、どんな運動をどのくらいの頻度で何時間するか。すべてに、その時々の正解がある。それらを把握しなければ、健康的に痩せるのは不可能だ。


とはいえ、去年あたりまでは食べなきゃ痩せた。

もちろん、暴飲暴食すれば太ったが、どんな状態からであろうと、普通に生活すれば適正体重に戻っていった。だからダイエットとは、「漠然と食べるのを我慢する」ことだった。

でも今はそうじゃない。食べなければ代謝が落ちて脂肪がつくし、運動しなければ筋肉が落ちて脂肪がつく。すべてがfになるとはこのことである。

今までそうならなかったのは、若さが代謝量と筋肉量を勝手に維持してくれたからだったのだ。そして、その件に関して言えば、私は既に若さを使い果たしたらしい。


そういうわけで、ホームズが運動のための運動はしてないというのは、ワトスンの勘違いだと思う。ワトスンが見てないだけで、寝室でこっそりロングブレスダイエットとかやってたはずだ。サー・イアンにはぜひその辺の事情を赤裸々に演じていただきたい。

2014年

8月

23日

人形劇「シャーロックホームズ」は、ちゃんとホームズだ

人形劇「シャーロックホームズ」がすごく面白かった。

面白かった、だけでは終わらず、録画して何度も観てしまうほど、好きになった。

人形が演じ、学園ものに変換されているにも関わらず、「ちゃんとホームズ」だからではないか、と思う。

 

15歳の少年に設定された人形を「ちゃんとホームズ」と感じる理由を一言でいうと、「リア充じゃない」ことではないだろうか。リア充といってもさまざまな定義があるのだろうが、ここでは「コミュニケーション力があり、人付き合いに長けた」人物としておきたい。

私がホームズに出会ったのは、小学校の図書館だった。

同級生の大多数がケイドロやらドッジボールやらに興じる休み時間、一人で毒々しい表紙の本をめくっている小学生はなるほどリア充とは程遠いが、そういうことだけでもない。

一人で物語の世界に没頭する時、人は皆、社会生活から切り離される。一人ぼっちで、未知の世界に放り込まれる。だから、「非リア充」として物語の登場人物と出会う。自意識が確立していない子どもは、特にそうなのではないだろうか。クラスではジャイアンや出木杉くんの立場にいる子も、のび太に感情移入できる。

物語の世界の中にも、現実世界と同様にリア充も非リア充もいるが、ホームズとワトスンは絶対に「クラスの中心的存在」ではない。そこは、子どもの少ない社会経験においても重要なポイントだ。微妙なポジションで生きる子どもを、人形が人間以上に繊細に表現している。

 

そして「ホームズ」は、影の世界の物語だ。主人公二人はどちらも孤独だし、依頼人たちはもれなく困って、弱って、人生の暗い時を生きている。

しかし、影の世界にも冒険があり、笑いがあり、友情がある。

子どもたちの求めるものは、光のあたる教室や運動場にはない。授業中の静かな保健室、何年も使われていない部室、立ち入り禁止の区域、忘れられた飼育小屋。そして、子どもたち自身が主人であり王である、「寮の二人部屋」としての221B。

役者も舞台も、非の打ちどころなく「ちゃんとホームズ」なのだ。

 

三谷幸喜脚本ならではの、温かですっとぼけたユーモアも大好きだ。

個人的に嬉しかったのは、「まだらの紐の冒険」でロイロットにしらをきるホームズが「寒いとね、クロッカスが綺麗に咲くらしいよ」と言うところ。

ここは原作にまったく忠実なのだが、子ども時代の私が声を上げて笑った箇所だ。

私が生まれるずっと前に、ホームズという作品への言及はシャーロッキアーナという学問に昇華されてしまったが、ここは「『緋色の研究』で園芸に興味を持たないと書かれたはずの彼がどうのこうの」ではなく、単純に「ツッコミ待ちだ」と思っている。三谷幸喜に拾ってもらえて嬉しい。

できれば「赤い輪」で新聞広告を探すホームズの「 『日ごとわが心は君を思いこがれ……』何をたわけたことを!」という一人ツッコミも使ってもらいたい。焦って道具を見つけられず、ポケットからガラクタを出してはポイポイ投げるドラえもんにそっくりで、この場面もかなり笑った。

 


2014年

8月

14日

私の思い出のマーニー

盆休みも中盤。アパートの駐車場に出たら、近所の小学生に、出会い頭にいきなり「思い出のマーニー」のオチを言われた。

お母さんが「それは『ネタバレ』といって、たいへんいけないことなのだ」と叱っていたのが少し面白かったが、原作未読の私としてはこれ以上ネタバレされないうちに観たほうがよさそうなので、その足でレイトショーに行くことにした。

 

私はなぜか壮大な話が苦手な子供で、どんな映画が好きか、と聞かれると、「なるべく何も起こらない話がいい」と答えて大人を困らせていた。特に、映画の面白さは劇中の爆発の規模に比例すると思っている父は、娘の嗜好の掴みどころのなさに困惑したらしい。

具体的に言うと、ジブリ映画では『ナウシカ』や『もののけ姫』よりも『トトロ』や『魔女の宅急便』が好きだ。

『マーニー』は、何も起こらないけれど、主人公から見える世界の何もかもが変わる話だ。たぶん、杏奈と同じ世代の子供の多くが、こういう劇的な世界の変化を待っている。

杏奈は悩んでいる。冒頭でいきなり鉛筆をへし折るくらいイライラしてる。ナイフみたいにとがっては触るもの皆傷つけた、とはこういう状態だ。

何もしなくては何も変わらない、だから行動しなさい、と行動できる人はいう。でも、行動できない人は、動けないから悩んでいるのだ。それでいいと思う。悩んでいるだけでも、頭の中では次々に変化が起こる。空に嵐が来て晴れるみたいに、海に潮が引いて満ちるみたいに。ちゃんと、自分の世界は動く。何もしないでぐだぐだ考えているのは、苦しいけれど、決して無駄な時間ではない。

悩むのはやめて、とか、あなたはひとりじゃないよ、と言ってくれる人はいたほうがいい。でも、一人きりで思う存分悩むのも、必要なことだ。

これは私の解釈だけれど、助けやきっかけを与えてもらったにしても、杏奈は一人でちゃんと悩み終えたんだと思う。

 

ところで、夜10時を過ぎると映画館が入っているショッピングモールが閉まってしまう。開放されている出口はひとつしかないので、反対側の駐車場を利用した場合、巨大な建物をまくように半周歩かなくてはならない。カップル客ならそれも良かろうが、女一人客は舌打ちしたくなる。

カップルの皆さんの邪魔をしないように、かつ、これからご出勤と思われる暴走族の皆さんになるべく近寄らないように、結構な距離をウォーキングして駐車場に戻ると、私のほかにもう一人いた女一人客が、なぜか前を歩いていた。

彼女が私のマーニーだと思う。たぶんイオンモールから離れられないと思うので、声はかけなかった。以上が今年の私の夏の思い出である。

 

2014年

8月

12日

スプーンおばさんの女子力

NHKで朝放送している「あさイチ」という情報番組がある。昨夜「夜だけど…あさイチ」として放映されたので、なんとなく観ていたら、「家庭内別居」というディープなテーマだった。

 

まともに話を聞いてもらえず、人間としての尊厳を失っていく奥さん。

仕事だけでも辛いのに家でも安らげず、居場所を失っていく旦那さん。

私は独身なので、どちらの言い分も一理あるように感じて、観ていて2人分辛い。さらに、そんな環境で暮らさなければならない子供の気持ちを思うと3人分辛い(いずれも、1人分が当事者の何億分の一ではあると思うけれど)。そりゃ別れた方がいいだろうよ、所詮別々の人間なんだから、我慢なしで快適に生きてこうなんて無理なんだよ、もう皆別れちゃえよ、と世知辛い気持ちになっていたところで、今日群馬テレビで、アニメ「小さなスプーンおばさん」第一話の再放映を見た。

 

スプーンおばさんは、頭が固くて怒りっぽいご亭主と暮らしている。

洗濯中突然小さくなって、洗濯ものの下じきになってしまう。

おじさんは、妻が小さくなったことに気づかず、突然いなくなったことにぷりぷりしながら仕事に出かけてしまう。小さくなったおばさんは必死で洗濯ものの下から出てくるが、第一声が「たいへん、これじゃお洗濯できないわあ~」である。

夫の無理解とか家事労働の理不尽とか、そこにはない。いや、あるかもしれないんだけど、おばさんにそういう発想がないので、存在しないことになる。

結局おばさんは、動物たちの力を借りて(小さくなると動物と話ができる。こちらも結構なミラクルだが、おばさんは『あんた私の話がわかるのね。ちょうどいいからこのかごを押してちょうだい』とあくまで洗濯最優先)、洗濯を完遂する。

 

おばさんは、時々小さくなるという事実をおじさんに隠している。

その理由を私は知らなかったのだが、「あの人は気が小さいから、小さくなった私を見たら腰を抜かしちまうわ」と言ったきりだった。

結局、病院にも行かず、警察にも知らせず、ダンナにも相談せず、「今日はいろいろあって楽しかったわ~」で第一話は終わる。

 

おじさんは、休みの日に1人で釣りに行ってしまったり、むっつりして朝ご飯を食べなかったり、なかなか家庭内別居の素質がある感じなんだが、おばさんは一切気にしない。

いつ小さくなるかわからないというリスクを抱えながらも、おじさんの失くした帽子を探してあげたり、好物のジャムを作ってあげるために野イチゴを摘みにいったりするのだが、全然「夫のために割を食ってる」感じがしない。

勝手に行動して、勝手にトラブルを起こして、勝手に解決する。

一話につき確実に二~三度は死の淵に立たされてる気がするが、最後はいつも「今日も一日楽しかった!」で終わる。

 

何というかもう、ダンナどうこうではなく、人間として強いのである。言い換えると視野が狭くて自分勝手で鈍感なのかもしれないが、とにかく強いのだ。

そして、ダンナとして一切いいとこがなさそうなおじさんは、なんだか可愛い。

おばさんには「大きな赤ちゃん」などと言われているが、おじさんはおじさんで、この奥さんにはわかってもらえないような繊細さや神経質さがあると思う。細かいことはわからないが、引きでみると、頑固な亭主と陽気な奥さんで「お似合いの夫婦」だ。

 

漫画と一緒にするな、と言われてしまえばそれまでなのだけれど、私は漫画の登場人物にも、見えていないところに細かい心の動きがあるはずだと思うし、逆に、細かく色々と考えてしまう現実の人間が、自分や周りの人々を、漫画のキャラクターを見るように「引きで」見ることも時々役に立つんじゃないかと思う。

私は人に厳しく自分に甘いし、邪推してしまうし、重箱の隅をつつく癖があるし、すぐに『あっちの道の方が良かったんじゃないか』と後悔したりするから、もし結婚したら、家庭内別居や離婚の種を山のように見つけてしまうんだろう。

そういう自分との付き合いもいい加減長いので、今更否定したいわけではないけれど、スプーンおばさんみたいに、なんだかよくわからないけど一日楽しかったわ~とさばさば言えるような私もいると、もっといいと思う。

 

そういえば、私は原作も愛読していた。(例によって図書館で読んだので記憶違いかもしれないが、原作のおじさんはおばさんが小さくなることを知っていたと思う。アニメも後半はそうだったかもしれない)

小学生の頃の記憶だが、唯一はっきり覚えているのが、おばさんを怒らせたおじさんが、「冷たい魚だんごとジャガイモの皮」しか食べさせてもらえない、というくだりだ。

冷たい魚だんごがどんな料理なのか、未だに気になっている。ジャガイモの皮に関しては、おじさんのために誤訳であってほしいと祈りたい。

何の話だかわからなくなったが、まあスプーンおばさん夫婦にも色々あるのだ。多分。

 

2014年

8月

02日

京都の猫

鴨川沿いのホテルに宿泊。蝉時雨で目がさめる。

ホテルの朝食をしっかりいただいて、鴨川をちょっと散歩。

部屋に戻ってだらだらとワイドショーを観てからチェックアウト。

荷物を預けて、さまざまな路地をてくてく歩く。

Rさんは猫のように、たくさんの小さな道を知っている。私は京都には何度か来ているけれど、団体旅行が多かったので、こうして自分の足で歩くと、車で巡ったお寺や神社の間を線でつないでいるような気持ちになる。地元のRさんにもそういう感覚があるらしく、何度か「ああ、わかった」と呟いていた。

地元は車社会なので、おいしいものや綺麗なものに次々と出くわせる街を歩くのは、とても楽しい。いよいよ疲れたら、いつでもバスやタクシーに乗れるのもいい。ホームズが歩いたロンドンも、こういう感じだろうか。

気が付くと、おいしいパンをたくさん持たされて、子猫が親猫に咥えられるようにして新幹線に乗せられていた。

 

2014年

8月

01日

喫茶店めぐり

日頃コーヒーばかり飲んでいるが、Rさんには日本茶カフェや紅茶専門店にも連れて行っていただいた。

 

日本茶は、丁寧に淹れてその味を全部引き出すと、すごくうま味が強いのだと知った。舌の両側でうま味を強く感じる気がしたのだが、調べてみたら舌の上で味覚を感じる場所が分かれているわけではないらしい。錯覚か。

それにしても旅の途中に煎茶と和菓子はいい。胃がもたれず、頭がしゃっきりする感じ。お菓子は、ご主人が日本全国からお取り寄せした7~8品から選べて楽しい。柑橘類の皮の入った、きれいな緑の羊羹を選んだ。

ソファがいくつかあるだけのそっけないインテリアだけど、とても落ち着く。ソファはほとんど窓に向いていて、お店はひんやりと静か。近所のお店の人がひっきりなしに現れては、お茶を味わって、置いてある本をめくったり、目を閉じたりして一息ついていた。

 

ムレスナでは、本当に驚いた。

アイスミルクティーが一杯1500円くらいするけれど、ケチではないがコストパフォーマンスにやたら厳しいRさんが納得していることに納得。これ一杯に、ケーキと紅茶のセット3つ分くらいのおいしさが入っている。何でも、普通の紅茶3杯分くらいの茶葉を使っているらしい。

紅茶の苦みや渋み、ミルクの臭みなどのマイナス要素を取り除いて、香り、こく、甘みなどいいところだけ凝縮したような、奇跡の一杯。

紅茶にこだわる人は、果物などの香りがついているフレーバーティーをあまり好まないと思う。それに、アイスティーじゃなくて香りが出やすいホットを選ぶんじゃないだろうか。

Rさんもホットミルクティーを薦めようとしていたのだけど、お店のお兄さんは控えめに、しかし断固としてアイスミルクティーを飲ませたがっていた。メニューにアイスミルクティーは一種類しかなかったが、お兄さんは私たちとの会話の中で、好みはもちろん、暑い中を荷物を持って歩いてきたこととか、旅行の二日目であることとか、普段はコーヒーが好きなこととか、周到に聞き出して、Rさんにはキャラメル、私には苺の風味のついた紅茶でアイスミルクティーを作ってくれた。

これが、飛び上がるほどおいしかった。交換して飲んでもやっぱりおいしかったけど、最後はやっぱりそれぞれ自分のものに落ち着いた。問診には意味があったのだ。

アイスミルクティーにはホットティーがついてくる、という変なシステムで、最初は首を傾げたが、大きなカップが渡されて、お店の人が次々に色々なフレーバーを試させてくれる。すべての紅茶に、開発した時の苦労話とか、意外な飲み方とか、物語があるのだった。

あたたかく、薫り高い紅茶を何杯も試して、話に夢中になっている間も、アイスティーのおいしさは入っている氷に全然負けない。

 

人を静かな気持ちにさせる店も饒舌にさせる店もあるが、お店の人に、お客さんに対する思いやりのようなものを感じると、どっちでも居心地がいい。よく来たね、おいしいお茶を淹れてあげるから、楽しんでいってね、という顔をした人に迎えてもらえるのは、しみじみありがたい。

Rさんはすべて心得ていて、お店の人の気持ちを潰さないようにしている。お金を払ったんだからお客なんだ、と言わんばかりの態度はとらない。へつらったりはしないけど、傲慢でも事務的でもない。してはいけないような状況で何時間も長居したり、お店の雰囲気を壊すような声で話したりもしない。ちゃんと、お客さんの役割を演じているから、お店の人も気持ちよくお店の人の役割を全うしてくれる。


ドラマで見るバーや居酒屋さんでは、お客さんが本音をむき出しにして騒いだり、酔いつぶれる場面がよく描かれるけれど、私はそういう気の置けない人間関係を築くのが苦手で、ちょっとコンプレックスを感じていた。

気が小さいせいか、変に気を廻してしまい、くつろいでね、と言われても心からはくつろげない。世の中に使う人と使われる人がいるとしたら、私はとことん、使用人側の人間なんだと思う。同席した人が頼んだものを食べなかったり(居酒屋ではよくある)、大声でお店への不満を口にしたりすると冷や冷やして、お店の人の視線を気にしている。

いつか私もオープンマインドでお店の人に甘えられるようになるのかもしれないが、遠い未来の話になりそうだ。今は、Rさんとお店の人の距離感をかっこいいと感じる。

 

 

 


2014年

7月

31日

関西へ

早起きして、東海道新幹線に乗った。

空がぱっきりと青い。雲が流れている。

京都に近づくと山が多くなってきて、雲が濃い影を落としている。ものすごく暑そうだ。

後ほど、シッター役を引き受けてくださったRさんと落ち合うことになっている。Rさんは、大阪、兵庫、京都あたりのカフェにすごく詳しい。今日は、かねてから行ってみたい、とお願いしていた梅田の「ペンネンネネム」と、Rさんお勧めの淀屋橋「オフィシナ・デル・カフェ」に連れて行っていただく。

どちらも、隅々までこだわりがつまったお店だ。

Rさんも私も、今は飲食業とはまったく関係ない仕事をしているけれど、「お茶を飲む店」がすごく好きだ。

もちろん、外で食事するのも好きだけれど、ごはんを食べる店が味に重きを置きがちなのに対して、お茶を飲む店は椅子やテーブル、壁の色、ちょっとした飾りなんかにもこだわりや誇りが感じられることが多く、それを覗き見るのが楽しい。

おいしければ汚い店でもいい、という人もいるけれど、お店にいる間は味覚や嗅覚だけじゃなく視覚、聴覚、触覚も働いているので、汚れていたり、テーブルがべたべたしてたり、店員同士大声で喋っていたりする店は、味にも集中できなくて私はちょっと苦手だ。「猥雑な雰囲気を楽しむ」という心構えさえできていれば、それはそれで良いものだが。

一時、感覚を全部預けるという意味で、本を読んだり映画や演劇を観たりすることと、誰かが演出した空間に身を委ねるのは似ている。

Rさんは印刷や製本を工夫した同人誌を作っていらっしゃって、私はRさんがデザインした本や雑貨がすごく好きだ。だから、Rさんが選んでくださったお店を訪ねるのは、私にとっては何重にも贅沢なこと。

時間が許せば、Rさん愛用の印刷所や紙のお店もちょっとだけ覗かせていただく。楽しみ。

 

2019年

9月

01日

for meな新海ワールド (『天気の子』感想)

(『君の名は』『天気の子』のネタバレあります)

 

研修に明け暮れて冷房で腹を壊し、腹巻きが手放せなかった夏の日の2019……遅ればせながら、お盆休みに『天気の子』を観ました。

すごい。びっくりした。これは『君の名は』とはぜんぜんちがう。

ずっと新海監督が好きですべての作品を見ている人は一連の流れの中での分類があるだろうけれど、「皆観てるから観てみよう!」くらいのミーハーな気持ちで『君の名は』『天気の子』の2作だけ観に行った私にとってはこの2作品が似ているようで全然違うように見えて、そこが「すごい」と思った。

 

まず『君の名は』、見慣れた空や新宿の街が一気に輝き出す映像美や音楽と物語が連動する気持ちよさは、もう1800円払って全然前世余りある感じだったんですけど(ちなみに普段の私は映画に1100円までしか払わないし1100円も結構痛いです)、お話はnot for me だった。

どう言い繕っても恋愛音痴の僻みなので、この際ストレートに言ってしまうと、「近頃の若いモンは村ひとつ巻き込まなきゃ恋愛のひとつもできねぇのかよ」みたいに毒づきたくてしかたなかった。※1 ※2

 

自分でもおかしいと思います。お話の流れはまったく逆で、瀧くんは三葉ちゃんを救おうとする過程で、消えるはずだったたくさんの命を救ってくれたんだから(※1 あと『近頃の』も語弊がありますね。むしろ私が若い頃の方がいわゆるセカイ系全盛期で、そこら中で世界を敵にまわしたり中心で愛を叫んだりしてました)(※2 あと糸守は村じゃなくて町)。

にも関わらず瀧くんや三葉ちゃんに「お前らの惚れた腫れたで大騒ぎさせやがって……」と苦虫噛み潰してしまうのは私の性格が悪いからなんですが、無理やり『君の名は』サイドに責任を押し付けるとしたら、「全滅するはずだった村を救う」という大騒ぎが「何もしてないのにある日突然女子のおっぱいもみ放題になる→その上その娘と恋に落ちる」という高校生の妄想に組み込まれてしまっている感じがしたからではないかなあ。

いやいいんですよ、高校生の妄想>大災害で!映画なんだから!!

何度も言いますがnot for me なだけです。日本中のいい恋してる人たちや、恋を忘れぬ瑞々しい感性を持った方々にこのお話は響いたことでしょう。私だって瀧くんも三葉ちゃんも大好きだよ!いい子だもん!晴れて挙式される折には三くらい包んでもいいかなって思ってる!(さっきから愛を金額でしか示せない、汚れた大人ですみません。しかも金額が微妙で……)

 

それで『天気の子』です。前回以上にガキンチョな主人公どもが、おばちゃんの邪推なんて軽々飛び越えて、はっきり言っちゃいましたよ。

俺達の恋>大災害だ!!って!!

なのに今度は思えちゃうのね、「そうだ!!」って。

それはどうしてだろうって、お盆からこっちずっと考えてました。胸(と腹)の痛みと共に……

 

『天気の子』でも『君の名を』でも東京の街が写実的に描かれてるけど、『君の名は』の東京のキーワードが「キラキラ」「裕福」「リア充」だとしたら、『天気の子』のそれは「イライラ」「貧困」「居場所がない」。

子どもの生活苦を描くのが上手い。リアリティとかじゃなく、「貧困と切っても切れないある種の闇は排除した上での、映画館でお金使えるくらいの人が共感できる貧しさ表現」ではあるのだけど、貧困が大きく影響しているであろう陽菜ちゃんのキャラクター造形が、すごく痛々しい。

話がそれるようだけど、作中のナレーションにあったように、「天気」というのは一番身近で、お金のかからない割に「エモい」娯楽。空の色や夕暮れ、嵐の訪れやふと見上げた虹に、私達はさまざまな形で心を動かされます。

陽菜は「晴れを提供する」エンターテイナーとして稼いだけれど、その前に彼女が性を売らされるか、それに準じるような仕事をさせられそうになっていた描写があります。「天気」と「セックス」は「元手の掛からない娯楽」という点において相似である、と言えます。

その後、天気を変えることは売春同様に『一見元手がかからないように見えるが実は心や体を消費する行い』であるという事実が提示されます。「気候」も「性交」も、ヒト一人が一方的な娯楽として享受できるものではない。

 

帆高と会う前に陽菜が性的な仕事をしてたとかしてないとかいう議論をするつもりはないけれど、彼女はその気になれば自分を投げ出してしまえる子です。

陽菜ちゃんは悲しい。年齢を18歳と偽ることも、ホテルでお風呂から出てくる時に「お待たせしました」と言うことも、食材をやりくりして男たちにおいしいご飯を作ってくれることさえも、私にはなんだか悲しく思えます。

歳が若いことや「女らしい」ことは、物語のヒロインとしてなんら珍しいことではありません。自己犠牲的なことも。

自分の身を削っても誰かに喜んでもらえるほうがいい、自分の身を差し出してみんなのために「人柱」になるのが正しい道である、という価値観は、悪いものではないかもしれない。自分を差し出すことを悪いことと言い切るのも、一方的な価値観なのかもしれない。ただ、15歳という年齢のヒトにその決断をさせるのは、悲しすぎると思う。

そういう価値観に「ヒロイン」を追い込んできた物語はいくつもあります。そして、そういう物語に疑問を持たずに漫然と消費してきた「私」というモンスターがいる。さらに、物語冒頭の陽菜がそうなっていたかもしれないように、心や身体を搾取される現実の子どもが存在します。そういう世界をどうすることもできず、あるいは今の所まだどうにかできずに、私達は生きている。

つまり、この物語は"for me" です。誰にとっても"for me" になり得るから、帆高の決断には陽菜だけでなく、映画を観ている人の頭にかかっていた鎖を解き放つような力がある。そこに『映像の力』『音楽の力』が結集したときの説得力と来たら。カタルシスときたら。

もう、なんかアレ、すごいアレですよ……アッセンブルですよ!新海キャップになんかいろんなものが集結した感!!わたしの言ってること伝わってる!?伝わってないね!? すみません!!

 

文章が下手過ぎて多分伝わってないんですけど、あの、劇中歌の「行けばいい」というとこに私は涙しました。ほんとになんかもう、あの子どもたちが、古い頭が考えるタブーや何かのずっと向こうへ、良いこととされてるものよりずっと遠くへ、行ってくれたらいいなと思います。

かといって彼らの敵や味方になる大人たちにも「かわいげ」を忘れないキャラ設定もすごくよかったです。「行けばいい」を都合よく解釈しちゃダメなんだな、と。

まあ世代なんで「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」って言ってるばっかりなんですけど、逃げずにちゃんと大人をやろうと思いました。

(夏休み最終日に急いで書いた読書感想文みたいなとってつけた感……)

 

 

 

 

 

 

 

2019年

4月

27日

10連休日記

平成31年4月27日

 

後から読み返すと自分が楽しいので、日記をつけておくことにする。

今日は丸ごと休みだけど、昨夜風邪を押して後輩と遅くまで仕事の話してしまったので、声がぜんぜん出ない。うちでゴロゴロしながら、SNSでなんとなく休日の予定を埋めていく。

 

3月の終わりに、同級生で一番近くにいる友だちだったSさんが亡くなった。

Sさんはずっと病気を抱えていたので、いつかお別れするんだろうな、という気持ちがどこかにあったけれど、まだお互い本当に子どもで、死を意識するには若すぎる年齢から続いていることだったので、それが本当に来るとは全然思っていなかった。彼女はいつもひとりで死を思っていたのかも知れないけれど、その気持ちを私に見せることはなかった。

二人ともハードな仕事に就いてしまったり、それぞれにそれなりの経験もなんだかしてしまったようで、でもそれをはっきり語るわけでもなく、お互いの嗜好や人生観を肯定するでも否定するでもなく、ただただ寄り集まっては、ひたすら食べたり、変な工作をしたり、それぞれの萌えを満たす活動に付き合うべくいろんなところに旅したりしていたのだった。

 

Sさんのお母さんから葬儀の連絡を受けたのは、チェーン展開しているカレー屋さんで4月から一緒に働くことになる人たちとご飯を食べている時だった。日本に来たばかりの男子もいて、それは美味しそうに、楽しそうに同年代の男の子たちとはしゃいでいて、私は電話の内容を言えなかった。Sさんが私達から遠くにいってしまったのではなく、私もSさんと一緒に彼らから遠いところにいってしまったような気がした。

 

彼らはとてもいい人たちだから、電話の内容を打ち明けたら、きっと私の気持ちに寄り添おうとしてくれた。それをしなかったのは、多分泣きたくなかったからだ。

彼女は亡くなっているのに私は生きていて、話を聞いてくれる人がいて、それはきっと、「恵まれている」のだと思う。でも「遠いところにいってしまった感じ」を味わってしまったら、恵まれているとかいないとか、得しているとか損しているとか、嬉しいとか悲しいとか、全ての言葉が一度意味を失ってしまった。

葬儀の連絡をきっかけに、同級生たちが私のことも気遣ってくれた。メールでYさんがご友人が亡くなった時のお話をしてくださった。めったに私を褒めない母が、「あなたたちはいい友達だったと思う」と言ってくれた。私を通してしかSさんを知らなかったはずのAさんは「話を聞いて一晩眠れなかった」と書き送ってくれた。明日来日するRちゃんは、私の話を聞いたらぎゅっと抱きしめてくれる(たぶん)。

そんなふうに誰かがSさんのことに触れるとき、急にひとつひとつの言葉が色づいて、文字通り堰を切ったように、涙が溢れてくる。

 

それは彼女を悼む涙なのか、自己憐憫の涙なのか。私は悲しいのか、寂しいのか。その感情の内訳は、先に旅立ってしまった人への罪悪感かもしれないし、遊んでくれる人がいなくなった自分への不安かもしれない。私とSさんは一緒にいる目的がなかったし、他にもっと大切な人がいるのにたまたま近くにいるから遊んでいただけだったかもしれないし、お互いに親友だったのかもわからない。ただただ、「友だち」をやっていた。

自分の感情に名前がつけられないまま、現実から少し離れたような感覚だけが続いている。まだ若い弟さんが喪主だったから葬儀の細々としたことにハラハラさせられたり、恩師による弔辞が自己陶酔気味で思いっきり的外れだったり、それを一番に報告して怒ったり笑ったりしたい相手は、そういう事々に誰よりも共感してくれるはずだった人は、もういない。そうして、もうすぐひとつの時代が終わる。

 

平成31年4月28日

 

風が冷たい。MCU師匠のSYさんと新宿で待ち合わせ。

昨年ものすごく忙しかったし、転職する場合に備えてなるべくお金を使わないようにしているので、久しぶりに電車で都会に出る。

 

格別平成を振り返りたいわけでもないが、学生の時は文庫本を二冊くらい持っていないと長時間電車に乗るのが不安だったな、と思う。

今はスマホもあるし、二時間くらいぼーっとしてたってどうってこともない。立っていても、「みすず学苑」の広告がどうしてこんなことになってしまってるのか考えるだけで30分は潰せる(結局わからん、あとでググる)。

 

シャザム!とアベンジャーズ・エンドゲームを鑑賞。

シャザムで1回、エンドゲームで2回泣いてしまった。

エンドゲーム、私は大満足だったのだが、SYさんはちょっと納得のいかない表情。予約していただいた美味しいメキシコ料理(ファヒータが火を噴く!)を食べながらいろいろ話したけど、ネット上の反応なども踏まえて後日に持ち越される模様。

5時間近くスクリーンに集中したら体はすごく疲れたみたいで、帰りの電車の中で感想をまとめようと思ったものの、何度も寝落ちてしまった。

 

平成31年4月29日

 

午前中うちで仕事だなあ、と起きて掃除や洗い物をしてたら、約束は午後だったことに気づく。やり始めてしまえばエンジンがかかるタイプなので、よい勘違いだった。午後までに起きればいいと思ってたら、絶対二度寝してた。そのまま、換気扇の掃除などもしてしまう。

 

ちょっと時間が余ったので、金曜日に上司の印をもらって平成のうちに出しておきたい(提出日欄に『平成』と印刷されてて『令和』がない)書類を持って郵便局に行く。連休中でも開いてる「ゆうゆう窓口」は長蛇の列で、しかも私の前に並んでいた女性が個人を証明するものを持たずに荷物を取りに来た人で、配達員がどうこうとかお前じゃダメだから上の人間を出せとか、執拗に係の人に絡んでいた。その人が係員さんをさんざん罵倒して帰った後、「お待たせして申し訳ありません」と謝る彼女に「たいへんでしたね。私もこんな日に出しに来てしまって、お手を煩わせてすみません」と労いの言葉をかけたつもりだったのだが、私の声のほうがよっぽどドスが効いていて、係員さんは明らかに一瞬ビクッとしていた。待たせられた私が怒っていると思ったのか、後ろに並んでいる人にも緊張が走った。言葉の意味が伝わるまでの数秒間が長かった。何十人も殺してるみたいな声で、すみませんでした……

 

平成31年4月30日

 

アベンジャーズ・エンドゲーム感想

(アイアンマンとキャプテン・アメリカ周り)

 

トニーは、「つくる人」だった。父の影を追いながら、もっと偉大な、もっと素晴らしい何かをつくろうとし続けた。 

スティーブは「つくられた人」。持って生まれた高潔さと、つくられたものとしての責任感を持って戦い続けた。 

 

トニーは「つくる人」なのに、つくったものたちに去られるという悲哀を味わい続けた。 

アベンジャーズもヴィジョンもピーターも、みんな一度はトニーを置いていってしまった。 

スティーブは「つくられた人」ゆえに、大切なものたちを置いていかなければならなかった。 

安住の地も自身のための人生も持たず、ストイックにやるべきことをやり続ける、それが彼の人生だった。 

(CACWでの選択は彼のわがままだという人もいるけど、スティーブは私情を置いてやるべきことをやっただけで、助ける相手がバッキーでなくても同じことをしたはずだ。CAWSでの彼の行動を見ればバッキーが個人的に大切な存在であっても感情と行動を分けていることは明白だが、不器用さ故にクライマックスの場面で『友人として』バッキーを優先したような発言をしてしまい、トニーの感情をひどく傷つけてしまったことこそがスティーブの罪だと思う) 

 

CACWで二人はそれぞれに間違いを犯したが、EGではそのことへの反省や後悔が垣間見られる。 

帰ってきたトニーはCACWで自分に与しなかった仲間たちに悪態をつくが、その論理は支離滅裂でまったく彼らしくない。実のところ仲間ではなく自分を責めていることを、その場にいる全員が理解している。誰よりも論理的に正義を遂行しようとしていた彼だが、どのみちこの世界ではサノスの掲げる(ある次元ではものすごく論理的な)正義の遂行によって、どんな政治論も意味をなくしてしまっている。その後、愛する娘を育てた5年間で彼がどんなことを学んだのかはわからないけれど、幼い娘の「ママが、パパを助けてあげてって」というセリフから、少なくとも「助ける」という概念の逆転が起こっていたことが窺える。救うという行為は、強者から弱者にだけ行われるものではない。かつてワンダを軟禁したトニーは、もういない。 

スティーブの後悔が見て取れるのは、「タイムトラベル」で過去の自分と向き合った時だ。CAWSでは参加できなかったカウンセリングで人の相談に乗るまでに変容している彼は、かつての不器用で頑迷だった自分を、「(スコットとは全然違う意味で)アメリカのケツ」と吐き捨てる。 

過去への訣別と新たな団結(チームプレイ)を通して、二人が明らかに変容し、人として強くなっていることがわかる。団結した二人は更に過去に遡り、ハワードやペギーとの邂逅を経て、心の傷をも克服する。 

 

戦いが終わり、まずトニーが役割から解放される。 

誰よりも優しくて、誰よりも仲間を喪うことを恐れるトニーは、自分がつくり上げた仲間たちに見送られ、もう誰も喪うことはない。 

次いでスティーブが、初めて「自分のために」行動する。「愛する人と再会してダンスを踊る」という些細なことではあるが、誰かのためでない彼自身のわがままを通し、その帰結として「つくられた人」であることを放棄した。 

戦うことをやめて、自分のために生きること。AoUラストでトニーがその可能性に触れた時、スティーブはまったく意に介さない。しかし、今作でトニーが愛する人と家族になり物語の舞台を降りるまで、あるいはその後のいずれかのタイミングで、スティーブもそうしようと意志したのかもしれない。(『タイムトラベル』でペギーの姿を垣間見た時かもしれないが、老いた姿のスティーブがAoUでのトニーとの会話や、似たような示唆が他の機会にもあったであろうことに触れているので、やはりトニーの影響があると思われる) 

 

もともと二人はハワード・スタークを挟んで表裏一体の存在だった。 

トニーにとってのスティーブは父親の関心を盗んだ者であり、何体スーツを作っても超えられない、父の遺産の象徴でもあったが、そういうトラウマも理屈も何もかも超えて頼ってしまう、絶対的なヒーローだった。 

スティーブにとってのトニーは、置いてきた過去にダイレクトにつながる存在であり、傲慢で嫌なヤツでもありながら、いざという時は自分を超える強さと高潔さを見せるヒーローだった。

 人の出会い方に、自分で選びとる出会いとはじめから決まっている出会いがあるとしたら、この二人のそれは明らかに後者だ。 

ヒーローはいつも運命に抗うことで道を切り拓くが、EGはまさに「運命を変える」ことがテーマだった。 

トニー・スタークにとって、ペッパーやローディ、ハッピーやピーター、そしてモーガンが「選び取った人」だとしたら、スティーブは確かに「運命の人」だったし、同じことがスティーブ側にも言える。 

「運命の人」と「最愛の人」は同じような意味で扱われることが多いけど、必ずしも同じでなくていい。だって私達は、運命を変えることができるから。では、この「運命の二人」はどうするのか? 

CWで訣別した二人がどのように和解するのかと気になっていたけど、ベタな歩み寄りなんてこの二人には似合わないのかもしれない。 

どちらかが怒ったら、もう片方も怒る。どちらかが悲しんだら、もう片方も涙する。どちらかが消えたら、残されたどちらかも退場する。そういう「一対の存在」として描くことでしか、彼らの絆は表現できなかったのだと思う。 

 

ところで、私達「実在の人間」は、なかなか「一対の存在」などにはなり得ない。 

自称するのは自由だし、情緒的な結びつきや、結婚制度や職業上の立場が「一対」を定義することもあるが、第三者が誰かと誰かを「一対」と呼んだ時、それは既にその人のフィクションだ。誰かが作り上げた物語の中にしか存在できない、だからこそ美しい概念だ。 

トニーとスティーブ~アイアンマンとキャプテン・アメリカ~も、何人ものライターに描き継がれてきたフィクションである。この二人に限らずマーベルキャラクターたちの関係性は幾通りもあり、新たな作り手たちは「あなたはどう描くか」という期待を背負うことになる。 

EGで提示された「過去に戻ることで新たな世界線がいくつも作られ、しかしそれぞれの運命を変えることはできない」という前提が私にはよく理解できなくて、細かい疑問がいっぱいあるのだが、既存のキャラクターを動かしてMCUを創るという行為に対する前提でもあるのだろうな、と想像している。 

私はこの時代のこのキャップとこのアイアンマンに、このヒーローたちに出会えて、彼らの物語と同時に歩む数年間を過ごせて、本当に良かった。小さな私の声が直接作り手さんたちに届くことはないと思うけれど、いま世界中で起こっている大きな「ありがとう」に唱和したい。

 

 

平成最後の食事は、たけのこごはん。

みすず学苑の謎センスについては、公式サイトを見て事情を察した。アレは、経営者が変わらない限りあのままだな……

 

令和元年5月1日

 

昨夜風邪薬を飲んだらグッスリ眠ってしまい、仕事の来客があるまで目覚めず。部屋を片付けておいてよかった。セーフ。

 

午前中ちょっと仕事した以外は、洗濯したり床を拭いたり冷蔵庫の掃除をするくらいだったが、Twitterを覗いたり、スコットランドにいる友人とメッセージでおしゃべりしたり(3歳の娘さんとひたすら💩の絵文字を送り合ったりした)、明日・明後日と遊ぶ友人と連絡を取り合ったりして、ずいぶん人と話した気がする。

Sさんのお母さんがお買い物のついでに寄ってくれて、生前貸していたDVDなどを返却してくれた。弟さん一家に囲まれて、楽しそうだった。

年上の人が家族を作るようにうるさく言ってくるのは、誰かを喪っても面倒をみる相手(みなくても、元気に振る舞う理由)を持つためなのかもしれない。そしてそれは、悲しみに足をとられて沈んでしまわないためにとても良い方法なんだろうな、と思う。

私は、一人でこんな風に書き付けたり考えたりする時間がある方がいい、その悲しみを真正面から見つめたい、と思ってしまうのだけど、思えば仕事が忙しくて、4月からは面倒をみなければならない「ボーイズ」もいて、彼らにずいぶん救われたのかも知れない。

ネット上でこうして多くの人と話せるし、やっぱりそんなに孤独でもないような気がする。

 

令和元年5月2日

 

朝4時に起きて、友人と益子の陶器市へ。

早朝の益子はまだ春の匂い。おしゃれな食器やさんに早朝から行列している人の列に加わる。

色とりどりの食器が可愛らしく野の花をあしらって並べられていたり、おしゃれなバンからカレーやコーヒーの香りがしていたり、満開の八重桜の下で花束やレモネードが売られていたり。絵に描いたような、幸せな休日の風景だった。

仕事が好きで一人暮らしで趣味は小説や映画で、それぞれぜんぶ楽しいけど、「生活」を疎かにしがちだ。生活を美しく豊かに育んでいる人たちに触れるのは楽しい。自分の生活に似合う食器や花を選ぶのは難しいけど、家族や友人のつくる料理をイメージして、楽しく買い物した。

夕食用に、道の駅でむかごのおこわと山菜の天ぷらを買ったけれど、おみやげの食器と一緒に家族にあげてしまった。

 

令和元年5月3日

 

友人たちと山の蕎麦屋さんでランチする日だが、数日前に連絡が来て、せっかくだから裏山でハイキングしてお腹を減らそうということになった。

アウトドア沼である。私はインドア派なので、アウトドア派の絡め手戦法には常に警戒している。

やつらは「ちょっと」とか「ついでに」と切り出すが、そうかちょっとなのか、と思って誘いに乗ると「どうせならいい靴を買ったほうが」「どうせならいいレインコートを」と「どうせなら」を繰り出してくる。金を遣わせて退路を断つ作戦だ。昨年も別の友人に真夏の尾瀬ハイクに誘われ、モ●ベルで5万くらい出させられそうになった挙げ句「みんなの足を引っ張らないよう、事前に近くの低山で練習してくるように」と言われ、ぶちキレてお断りした。涼しくて傾斜がないからついて行くことにしたのに、何故単独で気温40度の山に登らねばならぬ。

しかしよく考えてみると、私も「エンドゲーム観るなら前のアベンジャーズ3作も観たほうが」「話がつながらないのでシビルウォーも」「ウィンターソルジャーは名作だから」と自分の好きなことに関してはめっちゃ「どうせなら」している。そのへんの反省も含めて今回は母にトレッキングシューズやら帽子やら借り、素直についていくことにした(借りにいった実家でも、父に『どうせならいいのを一揃い持っておいても』と言われて軽くキレた)。

友人は初心者のサポートがめちゃくちゃ上手かった。綺麗な花があれば止まるなどして適度に休憩をとり、岩場では先に登ってみせて足をかけるポイントをひとつひとつ見せ、比較的ラクな場面では職場の愚痴を吐かせるなどして、なんとなくおしゃべりしているうちに低山ではあるが2つの山を縦走してしまい、まんまと「また来てもいいかな」と思わされてしまった。母に借りたもっさりスタイルの私に比べ、カラフルな装備の友人たちがとても可愛らしかったので思わず「どうせなら」とも思ってしまった。

思えばMCU沼に入った時も、好きな俳優の出演が決まったことを餌…いやきっかけに、友人が人物相関図などを面白おかしくまとめた手書きのノートをくれて、カラオケ屋さんでDVDを観せてくれ、私が好きそうなファンフィクのURLを山程送ってくれたものである。何事にも達人がいるものだ(ちなみにアウトドア沼に引き入れた友人は小学校の先生、MCU沼に沈めた方はピアノの先生だ。私が小学生並みにチョロいのかもしれない)。

 

令和元年5月4日

 

ブロガーさんであり尊敬する人・Yさんがこんどお引越しするというので、手伝いという名目で、本当はブログでちらちらと拝見していたお宅をこの目で見たくてお邪魔した。Yさんのダンナさま(『夫』という言葉に敬称をつけられないのでそう書くしかないのだけれど、このお二人に関してはすごく違和感がある。主従、という印象がまったくない)も大好きなのでお目にかかりたかったのだが、今すごくお忙しくて連休中もお仕事、ということで残念だった。

昼食と美味しいコーヒーをご馳走になって、ベランダの植物を植え替えたり、ホームセンターに行くついでに近所のお店や神社を見せていただいたりしながらたくさんお話した。

Yさんも数年前に学生時代のお友達を亡くされていて、ぽつぽつとしか話せない私の言葉を辛抱強く聞いてくださった。Yさんのご経験や自分の経験を言葉で聞いたり言ったりして少しわかったのは、傷は乗り越えるためにあるものじゃないのかもしれない、ということだ。たぶん心の傷は消えないし、忘れていても、思い出したように痛む。人と別れるということは、大なり小なりの傷を抱えていくことだし、生きていくということは、どうしたって傷を増やしていくことに他ならない。

いつ痛み始めるかわからない傷を抱えていても、普通に仕事をしたり、誰かと話して笑ったり怒ったり、映画にハラハラしたりする(あまつさえ、山に登って降りたりもする)。夕ごはんは、これもよくブログやTwitterで拝見していたお店のカレーを食べに行って、とてもおいしかった。断捨離するという本をたくさんいただいて、とても嬉しかった。それでも、忙しかったり楽しかったりおいしかったり嬉しかったりというのは、心の傷が癒えたということではないのだ。

SさんのことがなかったらこうしてYさんとご友人のお話をゆっくり聞くこともなかったし、聞いたとしても響き方が全然違ったと思う。傷のおかげで得られるものもある。

こうやって、おそらくこれから急加速するように増えていく傷たちと一緒にやっていくしかない。増えていく痛みをどうにかやり過ごしたり、時に良さに気づいたりしながら、受け容れていくしかない。

昼間の熱気が残る生温い夜の電車で、今日は眠らずそんなことを考えた。

 

すごく若い頃、バイトで貯めたお金で外国に資格を取りに行った。

どうにか慣れてきてクリスマス休暇に入った時、ルームメイトと長距離バスで隣の国へ、一週間の旅に出た。

わずかなお金と、現地で買った防寒着と、Sさんが持たせてくれた野点用の携帯お茶セット。持ち物は少なかったしまだまだ語学も心許なかったけど、可能性は溢れんばかりだった。

休暇第一日目の朝は輝かしかった。冷たい空気に震えながら、まだ暗い道でバスを待ちながら、私達はずっと笑っていた。古い石造りの長距離バスターミナルで、マクドナルドの朝メニューを食べた。ひょっとして、ドアを叩きさえすれば怖いものなんて何もないんじゃないか。そんなことを私たちは本気で話し合った。

その時の気持ちはまだ私の中にあって、でも「可能性」が閉じていくことや「別れ」を受け容れる気持ちも、今はある。

まっさらでぴかぴかな異国の冬の朝と、優しくて甘くて苦い春の夜は対になるものではなくて、どっちも私の中にある。いくつもの朝と昼と夜を積み重ねて積み重ねて、いつか消去される。何も残らない。

それは動かせない現実のはずだけど、実感はまだ遠くて、頭をよぎる一つの考えにすぎない。Sさんはひとりで現実に飛び込んで行った。私はいつまで混沌の中にいるんだろうか。

 

令和元年5月5日

 

12月に帰国したRちゃんが10連休に合わせて日本に遊びにきたので、夕方からウェルカムバックパーティーに呼ばれている。

なのだがなんだか起き上がれない。Yさんが本棚から好きな本を持っていっていいよ、とおっしゃったので遠慮するふりをしながらリュックにパンパンに詰め帰ってきたのだが、ついついベッドからその本たちに手を伸ばしてしまう。先日のプチ登山が楽しかったので手にとった『山女日記』を読み始めたら止まらなくなってしまい(何もする気が起きない時、何か手頃なことを始めると度を超えて耽溺してしまう)昼過ぎにやっと沸かした風呂にまで持ち込む。風呂の中で読み終え、ようやく身支度を始め、わたわたと出かける。

 

会ってしまえば久しぶりに会うRちゃんや彼女の友人たちは懐かしく、初めて会う人達も気さくで楽しかった。

そこにいた人たちの大部分が「ここにいることを選んでここにいる人」たちだ。なにか志があってこの国にきた、とかだけでなく、親の都合でこの国に住むことになって嫌だったけどどこかで肚を決めた、とか、配偶者の都合でこの町に長くいるけど故郷は別にあって、でもここに骨を埋めたいとか、一度嫌になって出ていったけどやっぱり戻ってきたとか。

その場所がどこであれ、私はその人たちがそういう選択をしたという事実を、無条件に好ましく思ってしまう。

 

Rちゃんに、共通の友人であるSさんが亡くなったことは話せなかった。

はじめのうちは賑やかな会だっだけど、真夜中過ぎの2時まで飲んで、沈黙が訪れるタイミングもいっぱいあった。みんなはビールだけど私はシラフだったので、ずっとどこかで「話さなくては」と思っていたし、一人また一人と帰っていって最後はRちゃんと私とごく親しい人たちだけだった。でも、言えなかった。

空気の流れがそういう形にならなかったのか、私に流れにのるだけの気力がなかったのか、わからない。

Rちゃんはまだ日本にいる。私の連休はもうすぐ終わるけど、これからしばらくは休みのたびに少しずつ時間を割き合って、共通の友人に会ったり、私の実家に遊びに行ったり、ラーメンやお好み焼きを食べたりするのだ。

その中で、話せる日が来るのかな。

 

 

 

 

 

 

2018年

1月

17日

誰かの中にある国

私は「クール・ジャパン」という言葉をよくわかっていない。

具体的に何を言っているのか、実体がつかめないというか。その言葉を使っている人と指し示そうとしているものの間に、とてつもない距離があるような気がしてしまう。

そんな私だが、『KUBO~二本の弦の秘密』という映画には、自分の背景を強く肯定されたような気がした。

KUBOの監督は、『魔女の宅急便』の宮崎駿が「自分の中のヨーロッパ」を描いてみせたことに感銘を受けて、「自分の中の日本」を描いたそうだ。だから、日本人の目で見ると、細部に小さな違和感はある。

しかし、「彼の中の日本」は美しい。私は彼の中の日本に魅せられ、その中に自分の物語のかけらを見つけた。それが嬉しい。

 

KUBOという物語は、桃太郎とかかぐや姫とか、もっと古い神話とか、いろいろな日本の寓話に似ているようで、どれにも収束せずに転がっていく。

同じように、私はクボには似ていないし、私の両親もクボの父と母に似ていない。

しかし、私には産んでくれた人たちがいて、私自身の人生がある。

どこで生まれどのように育てられたかとか、どれくらい成功したかではなく、ただ、誰かから生まれ出て、自分の物語を生きるということ。『KUBO』は人間の根源的なところを肯定してくれているような気がする。

 

たとえば、自分たちの村を壊滅させた月の帝が記憶をなくした時、村人たちが「あなたは良い人だった」と口々に語る所が私はとても好きだ。あれが唯一の解決法だとは思わない。私があの中にいて、帝に大切な人を殺されていたら、怒り狂うかもしれない。でも、きっと私たちの世界は「目には目を、歯には歯を」の論理に疲弊している。失敗してしまった人や自分たちの理解を越えた人を、闇雲に攻撃したり拒絶するのではなく、あんな風に受け容れられたらどんなにいいだろう。

防衛所の観点では間違っているかもしれない。あとでとんでもないことになるのかもしれないけど、とりあえず目の前で弱っている人を見捨てず、野放しにするでもなく、しなやかに、したたかに共存を模索する。彼らは理性的で尊敬すべき人たちだと、私は思う。

クボの母・サリアツもや父・ハンゾウも、魅力的な人だ。

弱々しい女性と見せかけて、実は元ヤン※(※違う)のサリアツも、飄々として全然威張らないハンゾウも、ステレオタイプな日本の夫婦をイメージさせておいて、実像は全然違った。この二人は、監督にとって理想的な男女のあり方なのではないかと思う。「日本人」ではなく、きっと普遍的な「善い人たち」を、この作品は描いている。

日本が理想郷として描かれているのではなく、この映画を作った人にとっての理想郷が日本に似たかたちをしている。自分の生まれた国が誰かからこんな風に思われるのは、とても嬉しい。

 

絶賛されている「折り紙」や「日本的風景」の描写はもちろんだが、監督の「日本」への目配りがすごく行き届いている、と感じた場面がひとつある。

それは「カンチョー」だ。

病んだ母親や村人の前ではいい子だったクボが、サルと旅を始めたとたんにやんちゃな一面を見せる(きっと、それが彼の本当の顔だ)。クボはサルに「カンチョー」を決めて怒られるが、米国人の友人によると、これは「日本の子どもあるある」なのだ。

かなりの数の小学生がALT(外国語講師)にカンチョーをキメている。そして、文化の違いから、時にマジギレされる。

アメリカの子どももカンチョーをしないわけではないが、よく知りもしない大人に対して行為に及ぶのはかなりハードルが高いそうだ。日本の子どもはALTに対して、学校の教師に対するのとは違った親しみを感じている。カンチョーは、日本の子どもと仲良くなった者だけが経験する『日本らしさ』なのかもしれない。ここに目をつけたスタッフは、彼らなりに日本のことを「深く」調べていてくれているのだろう。

 

2017年

8月

17日

相反するものたちの中で

お勧めをいただいて、『ハートストーン』を観てきました。

 

アイスランドの、おそらく、すごく小さなコミュニティーの物語。外界との繋がりは描かれない。(大人の持ち物として)冒頭にPCがちらっと出てきたりするので現代の話だとわかるけど、子どもたちがそういうガジェットを使ってる姿は一切ない。時代に取り残されたような風景も相まって、お伽話を観ているような不思議な気持ちになる。

 

大人たちは誰も彼も、酒とセックスにしか興味がない。揉め事があったら、拳で解決。主人公のソールは思春期に入ろうとしているのに一人になれる部屋もなく、部屋どころかベッドの上まで、二人の姉がうろうろしては、性の目覚めをからかいまくる。

こんなとこで多感な時代を過ごしたら、そりゃしんどいわ!ソールは偉いよ、私なら週イチでバスルームに閉じこもって片っ端からモノ壊しますよ!枕に顔押し当てて泣きたくもなるわ!!しかも創作を発表する相手が家族とか!(←それはアイスランド関係ないかもしれない)

 

そんな(一部のオタクにとっては特に)過酷な環境ですが、実に雄大な自然に包まれています。この大自然の描写が圧倒的。鬱屈した少年たちも、釣りしたり馬に乗ったりキャンプしたりする姿はホントに楽しそう。「恵まれた環境」で思い切り子ども時代を謳歌する様子も、ちゃんと描かれてる。

山や森や海は、一人になれる場所でもある。そこでだけ、一人で泣くことが許される。

でも、ほんとうに一人で、裸で放り出されたら生きていけない。

生きられたとしても、スヴェンのように変わり者認定を受けて、まともな人間扱いされなくなってしまう。この子たちにとって自然は、受け容れてくれる場所であると同時に、決して脱出できない牢獄の壁でもある。

 

そんな風に、この映画では相反する概念がみっしりと絡み合う。

どこにでも行けるけど、どこにも行けない。唾を吐かずにはいられないほどクソなことばかり起こるけど、そこにある風景は、容赦なく美しい。

何も選べないようでいて、子どもたちは日々、何かを捨てて何かを選ばなければならない。相反するものたちの間で押しつぶされないように。

何を赦すのか。誰を愛おしく思うのか。誰にキスするのか。

そうやって、「成長」に抗うことも出来ず変化していく子どもたちは、愚かで哀しい生き物だけど、その一瞬一瞬の表情がとてつもなく美しい。

 

よく「閉鎖的な漁村」とか「思春期の閉塞感」って言いますけど、閉塞って何なんでしょうね。

「ゲイだとばれたのでレイキャビクに行く」と、ほとんど島流しのような扱いで、都会の地名が出てくるけど、果たしてクリスチアンにとって、そこに行くことは解放なのか。

お伽話の世界のような「閉鎖的な田舎町」を出てしまえば、思春期を過ぎて大人になってしまえば、救われるの?

たとえば、私のいるここは自由で多様性に富んでいて、幸せな世界なのか。

こんな風に、同じ映画を観た人に感想を伝えられれば、それであわよくば「いいね」の1つや2つももらえれば、それが「自由」で「解放的」で、喜びに溢れた世界なんでしょうか。

開かれた環境にいるように見えても、恋が叶っても思い切り創作をしても、ひとは不自由なのかもしれない。

それでも、そういう風にしかできない私たちは、案外に美しいのかもしれない。

 

それに、相反するものたちは相反するだけじゃなくて、時々触れ合う。

厳しい冬を前にしながらも、舞い降りる雪を愛おしく思うように。

クリスチアンとソールのお互いへの想いは違う意味を持っているかもしれないけど、額に触れた唇の感触は、双方にとって、とてもとても大きなものだったに違いない。

あのキスはきっと、ひとつのしっとりとまるい石になる。時に甘く、時に狂おしい重みをもって、人生という川の分岐点に存在し続ける。

ふたりは身体も心も別々に成長していくけど、切なすぎる秘密を共有して、これからを生きてゆく。

 

それにしても本当に主人公の二人が綺麗。ソールはまだキューピーみたいなお腹しててコドモコドモしてるんだけど、劇中で確かに憂いのある表情を見せるようになる。

そしてクリスチアンの表現力!昔の少女漫画みたいな髪型だなって思ったけど、ほんとうに名作少女漫画から出てきたみたいに、繊細で雄弁な表情。この二人のこの瞬間を、動画で残しておいてくれてありがとう!

この環境で、この俳優さんで、この時間にしか撮れなかった。そういうものを見せられると鳥肌が立ちます。

 

2017年

7月

03日

終わりのある地獄

子どもの頃、『地獄』という絵本を読んだ。

釜茹でとか針の山とか色々あるが、もし地獄に行くならどの拷問がいちばんマシか、考えたことはないだろうか。私はかなり真剣に考えて、どれもイヤだが最悪なのは「運営サイド」だという結論に達した。真面目で融通のきかない子どもにとっては、「悪いこと」ニアリーイコール「人に迷惑をかけること」だったので、トゲトゲのついた棍棒で人を殴ったり、子どもたちが積んだ石を崩したりしてる鬼には、あとで地獄以上の怖ろしい刑罰が待っているはずだと思った。

仏教において人が鬼にクラスチェンジするものかどうかは未だに知らないが、死んだら地獄に行きたくない、鬼になるのはもっとやだ、というのが臆病な子どもに定期的に訪れる恐怖だった。

 

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を観て、久々に「鬼案件」を思い出した。今は、鬼に怖ろしい刑罰が待っているとは思わない。もし鬼に怖れる心があるとしたら、休みも終わりもなく人を傷つけ続けることこそが最大の罰ではないだろうか。

そんな風に考える人にとって、主人公の置かれた状況は最悪だが、彼を取り巻く人々は優しい。誰かが喜んでいようと絶望していようと、世界は「笑い」にも「悲しみ」にも振り切らないものだ。肉親の臨終の場面だろうと、いや、だからこそ、とぼけた笑いが生まれたりする。彼や彼女の苦しさを柔らかい布でくるみ、その上からそっと撫でるような、つくり手の慈しみを感じる。

しかし、優しさを享受できない心境の人間には、そんな状況こそがしんどいのかもしれない。絵本にあった「地獄」は、罪を犯してしまった良心にとっては親切設計だったのかもしれない。

仏教の「地獄」に行った人は、罪を償ったらまた生まれ変わるそうだ。この映画を満たす優しさも、かすかな希望につながっている。

 罪にも悲しみにも終わりはないけど、地獄には終わりがある。私たちはいつかそこから旅立たなければならない。

 

こんな想像をする。

もし、誰かが死のうかと思っていたら。

夜更けの部屋で一人、このまま朝が来ないで欲しいと願っていたら。

彼や彼女がつけっぱなしにしていたテレビに、この映画が流れて欲しい。

この映画はエンドロールも素敵だ。終わりの終わりまで味わって欲しい。

そうして、朝が来るだろう。静かで冷たい朝だろう。

喜びにも悲しみにも留まることのできない私たちを、揺りかごのように包むだろう。

 

2017年

6月

27日

見えないものが見えるようになる話

本や映画が好きだ。

服や食べ物や雑貨に関しては無駄遣いをしないように、すごく考える。少しでも「良い買い物」をしようとする。でも本や映画に関しては、比較的自分に甘い。

たぶん私は本や映画に期待をしている。服や食べ物や雑貨よりも効果的に、自分の生活を良くしてくれると思っている。

本や映画は、ひょっとしたら私を変えてくれる。読んだり観たりする前と後で、私に見える世界ががらりと変わっているかもしれない。そういう期待が、財布の紐を緩めている。

 

昨年から始めたTwitterでも本や映画が好きな人たちとつながっていて、リツイートなどを通して映画ファンの「旬の話題」がなんとなくわかるようになった。よく目につくのが、「邦題」と「日本での公開時期」への意見だ。

"Hidden Figures"はたまたま機内上映で観ていたので、『ドリーム~私たちのアポロ計画』という邦題がつき、「劇中に出てくるのはアポロ計画ではなく、それ以前のマーキュリー計画だ」という指摘により副題がカットされる、という公開前の一部始終を、興味を持って追っていた。

 

同時期に目にしたツイートに、『007 スカイフォール』でボンドが民間人のバイクを盗むのを糾弾するような人は映画を観るのに向いていない、というものがあって、これも興味深かった。

私も細かいことが気になるタイプだが、(少なくともこのケースでは)ボンドが民間人のバイクを盗んだことに「筋が通っていない」ことに気づけなかった。

「ボンドは人も殺すでしょ?重箱の隅をつついて茶化さないで」と言ってしまえばそれまでだが、ストーリーを追っていくと、どうして筋が通らないかわかる。その点に気づいて観るのと、気づかずに観るのではボンドやMI6の印象がほんの少し違う。すると、端々に気になる点が見えてくる。

私は「ボンドが民間人のバイクを盗むのが気になる人」に新たな視点を与えられて嬉しいし、面白がっている。でも、「そんな視点を持つなら映画など観ないがいい」というくらい腹を立てる人もいるのだ。

 

ひねくれた見方は受け容れがたい、という意見は、かつての映画業界が作りあげた必然かもしれない。

一時期、映画のCMは、映画を見終えた客たちが「感動しました」「泣きました」または「スカッとしました」などと、似たような感想を述べてみせるものばかりだった。すると何だか、それが「正解の感想」だと、観る前に刷り込まれてしまう感じがある。「ボンドが民間人のバイクを盗んだ所が気になりました」というコメントがあっても、おそらく使われないだろう。

映画をまだ観ていない人に「正解の感想」を見せて集客をしよう、という方法論の延長線上に、「全米第○位」「○○賞獲得」という太鼓判を待って公開するとか、「女性向けに、柔らかい題に付け替える」「日本人には馴染みの薄い題だから、わかりやすいものに変更する」という発想がある。

「(自分達の考えるところの多数派である)こういう人に、こういう基準で選んで、観たらこういう感想を持って欲しい」という前提ありき、なのだ。多くの興行主は、「その意図から外れた人」を宣伝の対象から外してしまう。

少数派の個性に構っている余裕など持てないほど集客が厳しいのだろうし、「個性の伸長より均質化」という傾向は映画業界だけの問題ではないが、たくさんの人に観に来てもらうための宣伝が映画に興味を持つ人を限定してしまうのは皮肉な話だ。

その後、映画の宣伝はSNS主導になった。SNSの発展で「見えた」ことは、人は誰かと同じように感動したいのではなく、むしろその逆だ、ということだ。

もし同じように感動して同じような感想を言ったとしても、それは独立したひとりひとりの行動だ。

「鑑賞前に人の感想を見る」行いに置いても、「見る」「見ない」「ネタバレを避ける」「〇〇さんの感想なら見る」というように、自らの選択を反映できる。テレビの感想CMとは全然違って、ずっと能動的だ。鑑賞というのは、能動的で創造的な行為なのだ。

 

映画を見ている数十分間、観客は、他人の人生を生きる。

どうして少年は椅子でクラスメイトを殴ったのか。セールスマンに店の名前を盗まれた兄弟はどんな気持ちだったか。自分の人生では経験し得ないことを、その時だけ「自分のこと」として感じる。

そうすることで、観客の人生観も少しだけ(時には大きく)変わる。

「変わりよう」はその人だけのものだ。泣くのも笑うのもひねくれるのも、その人の勝手だ。

興行主の期待通りの感想を持つとは限らない。数十分間映画の世界に浸ることで、そこから何かを見出したい。それが何であれ、自分には見えなかったものが見えるようになりたい。だから私は映画館に行く。

 

それで"Hidden Figures"だが、私には「宇宙」よりも「夢」よりも、もっと身近なことを描いているように見えた。

主人公たちを差別するNASAの職員たちは、スクリーンのこちら側から見ているとずいぶんひどい言動もするが、決して悪人として描かれてはいない。陳腐ないじめはむしろ描かれない。しかし彼らには、自分たちにとって当たり前な環境、当たり前な行動に問題があるということが「見えていない」。女性も黒人も人間として尊重されるべき存在であるということや、彼女たちの有能さが「見えていない」。それが彼らに見えるようになるまでを描いた映画だ。

"Was blind but now I see"だ。

私だって無意識に誰かを差別するし、されている。誰かの苦労を平気で消費しているし、されている。社会の枠組みに取り込まれて、見えなくなっていることがきっとある。

 

傲慢、いじめ、差別。

そういうものはやっている人にはそれとして意識されないし、映画の中でも、そういうものとして描かれない限り観客に「見えない」(ボンドの横暴を看破した人のように『見える』人もいるが、私には難しい)。

少年が椅子でクラスメイトを殴るのを見たら、その表情や動きから「何かあったのだろうか」と想像はできても、その行動に至るまでの事情は、彼の心情を映し出す描写を見ないとわからない。

主人公の視点を借りて何度もトイレまで歩いて、ようやく差別とはどういうものなのか、少しだけ実感できる。ほんの少し、「見える」ようになる。

 

Twitter上ではアポロなのかマーキュリーなのかという「宇宙のこと」に議論が集中してしまって、HiddenもFiguresも置いて行かれた格好になったことが、私はちょっと不満だ。

邦題に正解があるとは思わないし、代案がなければ議論に参加する資格がない、とはもっと思わない(実際私には『トイレまで何マイル?』しか思いつかない。どんだけトイレが気になったんだ)が、極端な話、べつに舞台がNASAじゃなくても(対象が宇宙じゃなくても、ロケットじゃなくても)彼女たちは真面目に計算をし、するべき事を全うしたのではないか。

「どんなに無視されようとも、傷つけられようとも、一人の人間として誇りを持って仕事をやり抜くのだ」という切実な思いを表現するのに、「夢」はあまりにも美しすぎて、つかみどころのなさすぎる言葉ではないだろうか。

Hidden Figuresという原題の良さは、その「地味さ」にもあると思う。

 

集中しづらい環境で(しかもチケット代も払わずに)一回しか見ていないので確信を持って主張できるわけではない(人類が宇宙に行くために貢献するのが私の夢なの!って主人公たちが連呼してたらすみません)。

公開されたら、映画館に行こうと思う。その時「夢を叶えるって素敵!」「輝く女性のための応援歌!」「NASAの感動秘話!」みたいなCMが流れていたらやっぱりちょっと影響されるのかもしれないが、私の見る"Hidden Figures"はきっと、夢の話でも女性賛歌でもロケットの話でもなくて、見えない人や見えない力が見えるようになる話だ(トイレが遠いのはすごく困るという話でもある)。

その世界だけに浸る数十分間を経て、彼女たちの物語は私自身の体験となり、現実を生きるために目を開かせてくれる。そういう風に、私は映画を観たい。

2016年

9月

28日

「しない」ことで描く幸せ

2016年前半は、旅行で国際線に乗ったこともあり、私にしては比較的多くの新作映画を観たのだが、ダントツに幸福な気持ちになれた映画はリブート版『ゴーストバスターズ』だった。

(ちなみに鬱々とした映画は『ロブスター』な。アレほぼ現実だからな、私にとっては)

 

前作との比較や女性映画としての分析にもすごく興味があるので、今後ネットで感想を漁りまくる所存だが、この胸熱が冷めないうちに、「どうしてこんなに幸せになれるんだろう」という気持ちを綴っておきたい。

実は、「そんなこと描くんだ!」よりむしろ「そこ描かないんだ!」ということに感動してしまった。

 

1.恋愛しない

この作品の宣伝が始まった時、なんかこう、「仕事に恋に頑張るワタシ」みたいなのを想像してた(そういう映画も好きです)。

「地味なオタクだった私が、頑張ることでキレイになれました」「恋愛なんて興味なかったけど、わかってくれる男性もいる」みたいな。「いくつになっても、オンナであることを諦めちゃダメ」みたいな。伝わるだろうか、このカタカナ遣いも含めて。

 

だって日本版公式Twitterのプロフィールが「オトコには弱いけど、オバケには強い理系女子が起業した……」だよ。

そりゃ彼女たちが「オトコには弱い」だろうな、とは容易に想像できる。オトコどころか対人関係全般ダメそうだ。

非リア充として、彼女たちのスタイリング、すごい生々しいと思う。

地味な者(でもカワイイ物好きで、長靴なんかはカラフルなの履いちゃう)、あまり構わない者、世間一般の支持するところの斜め上に突き抜けてく者。

いずれも「モテ」からは遠い。私の服装歴見てたのか、と言いたい(※全部やって現在アビー)。

そうやって「見てわかる作り」になっているものの、この映画は彼女たちに恋愛コンプレックスを語らせない。今彼女たちが直面しているもの、考えていることは、それじゃないからだ。あとエリン、お前のそれただのセクハラオヤジだが、めっちゃ共感するぞ。

 

2.リア充にならない

 この映画の主要登場人物は何かしらのオタクばかりだが、色々な意味で多数派に迎合しない(できない)ゆえに、彼ら彼女らが受けてきた「いじめ」がストーリー全体の前提となっている。

同じように「世界」から弾かれていたローワンとそんなに変わらない状況下で生きてきたろうに、自然に「世界が危ないから救おう」と考えるバスターズと彼との違いってなんだろう。何か決定的な要因がありそうなのだが、少なくとも映画の中では、それも描かれない。

それもいいかと思う。迷子の小動物を救おうと奔走するオタクも、自らの承認欲求に苦しむオタクもいるし、この二つの感情は一人の人間の中に同居すると、私たちは現実世界を通して知っている。

オタクは、世界を滅ぼすパワーも救うパワーも持っている。その一方で、市長たちのように「表世界」でバランスをとる役だって必要だ。この映画は誰も否定しない。

 

3.人に要求しない

「否定しない」といえば男性秘書(?)のケヴィンだ。

ケヴィンの強烈過ぎるおバカキャラは、長年かけて築かれてきた「可愛いだけのブロンド娘」像に対抗するために必要だったのだろう。でも、彼はその役割のためだけにいるんじゃない。

ケヴィンの美点は、主人公たちを品定めしたり否定したりという発想を一切持たないところだ。この作品が発表されて以来、新生バスターズが女性であることや、彼女らの年齢・容姿へのバッシングが後を絶たないらしいが、そういう人たちの対極に彼はいる。

ゴースト・バスターズの面々やローワンは「キモヲタ」で彼は「イケメン」だが、自分や誰かを社会の価値観と比較してどうこう、という発想が誰よりも薄い(ていうか、ない)のがケヴィンだ。私だって他人を品定めするので自省も踏まえて言うが、これって、すごいことだ。バスターズが「大好きだからケヴィンを助けたいんだ」と言うのには、ちゃんと理由がある。

 

そう、人間には「好きになる」という力がある。

エリンもアビーもホルツマンもパティも、(下ネタも言うしセクハラもするけど)純粋な愛情に溢れた女の子たちだ。その対象がおバカでもいい。男性でなくたっていい。自分の子どもでなくたっていい。人間でなくたって、別にいい。

エリンの変化がそう教えてくれる。彼女の仕事や仲間への思いが高まるのに反比例して、自分の正しさを証明したい、社会に肯定して欲しいという思いが薄くなっていくのが見てとれる。最後に残るのは、ただ「やりたい」「やった」「できた」というシンプルな喜びだ。

やりたい仕事がある。下ネタ……もとい本音を交わせる仲間がいる。多分、それだけで十分幸せなのだ。ワンタンの数は譲れないけど。

 

幸せとは、自分の力を思いっきり注げる「何か」があること。

その「何か」を変に限定しようとする価値観を、自分がいかに内面化してしまっていたかを痛感している。

オンナだったら、恋するべきだ。

オタクだったら、リア充に引け目を感じるべきだ。

オトコだったら、常に女の上をいくべきだ。

安定した仕事に就き、誰からも肯定され、認められて生きるべきだ。

『ゴーストバスターズ』は、そういう窮屈から私を解放してくれる。

 

 

私は、女も男も、リア充もオタクも、否定したくない。恋愛することもしないことも、否定したくない。恋と仕事を両立するのはもちろん素敵だけど、しなくたっていいのだ。

他人の評価から自由になって、自分で選んだ「何か」を思いっきり愛することができたら、きっと幸せだ。ローワンですら、彼を蔑んでひそひそしていた周りの人たちよりずっと楽しそうに生きていたと私は思う。エンディングのクリヘムダンス、あれケヴィンじゃなくてローワンだもんね。

 

ただ、ローワンには「愛」が欠けていた。

登場人物のトラウマを過剰に描写しない、必要以上に自分語りさせないのもこの映画のいいところだが、最後の最後に「愛について」熱弁するのがホルツマン、ていうとこが痺れる。

そしてラストシーン、彼女たちへ「世界」からの心温まるプレゼントがあるのがまた粋だ。オトコにではなく、誰かに押し付けられた物差しにでもなく、でも確かに「世界」に向けられている彼女たちの愛情は、決して片思いじゃない。

 

2016年

4月

30日

みんなが持ち場を守ること

『アイヒマン・ショー』を観た。

「興味あるけど、ホロコーストの資料映像を含んでいると聞いたので、観る勇気が出ない」と言う友人がいるので、感想は彼に向けて書きたいと思う。

 

強制収容所のショッキングな写真や映像が出てくるが、この映画はホロコーストそのものを描いているわけではない。直接描かれているのは、かつてホロコーストに関わった人々と、その周縁に点在する人々だ。

周縁と書いたが、円の中心にいるアイヒマンが真っ黒な存在で、そこを起点に少しずつ白くなっていくようなグラデーションが描かれるわけではない。

 

法の定義は置いておくとして、ある出来事に関わった人々のうち、誰までを当事者と呼べるだろう。裁判を報道することに道義的責任を感じる一方で、視聴率稼ぎの「ショー」とも捉えているプロデューサー。アイヒマンの感情を暴き出すことに固執する監督。『ガガーリンの方が面白い』と笑い飛ばした後で、被害者の証言に打ちのめされる視聴者もいた。その背後には、生存者の体験を信じずに傷つけた、大勢の人々がいた。彼らはホロコーストとまるきり無縁と、いえるだろうか。

 

友人に向けての、私なりの結論を書くと、この映画は怖い。

加害者への憎悪や、被害者への同情を煽ることはない。しかし、裁判を見ている善でも悪でもない人々を描くことで、それをまた見ている「実在の」私たちもその延長線上にいる、つまり、黒ではないにしても白でもないことを、思い知らせてくる。

だからこそ、終盤に現れる「実在の」生存者の証言や死体の山の写真は、怖い。それは、スクリーンの向こう側にいる演技者たちではなく、こちら側の世界の私たちに起こった……だけでなく、私たちに起こるかもしれない、私たちが起こすかもしれない出来事だと、この映画は言っているのだ。

 

この世界に起こるすべてのことにおいて、私たちは加害者であり、被害者だ。当事者であり、傍観者だ。だから世界は混沌としていて、怖い。自分だけは正しいと、そしてその正しさは崩れないと、大丈夫だと、私たちは思いたいのに。

監督のレオは、アイヒマンの人間的な表情を捉えることで、彼なりの納得を見出そうとする。私たちは、ハンナ・アーレントの見解やミルグラム実験に納得を見出そうとする。

納得は救いだ。劇中で強く言い放たれる"learn"という言葉。人間は過去の過ちに学ぶことができる。もうへまはしない。だから希望はある。そう信じることにしか、救いはない。

レオつながりというわけではないが、レオ・レオニの『スイミー』という童話の一節を、私は思い出す。

 

スイミーは言った。 

「出てこいよ。みんなであそぼう。おもしろいものがいっぱいだよ。」 

小さな赤い魚たちは、答えた。 

「だめだよ。大きな魚に食べられてしまうよ。」 

「だけど、いつまでもそこにじっといるわけにはいかないよ。なんとか考えなくちゃ。」 

スイミーは考えた。いろいろ考えた。うんと考えた。 

それから、とつぜん、スイミーはさけんだ。 

「そうだ。みんないっしょにおよぐんだ。海でいちばん大きな魚のふりをして。」

スイミーは教えた。けっして、はなればなれにならないこと。みんな、もち場をまもること。 (レオ・レオニ『スイミー~ちいさなかしこいさかなのはなし』谷川俊太郎訳)

 

結局のところ私たちも、生まれ落ちた、または流れ着いた環境で、そこで得た知識と体を使って、自分の持ち場を見つけて守っていくしかない。プロデューサーとして、監督として、カメラマンとして。

妻として、息子として、娘として。ホテルの女主人として、絨毯売りとして、コーヒー屋として。

時に加害者として、時に被害者として。

そして、考える。いろいろ考える。うんと考える。過去の人達が行ってきた選択を思いながら、私たちも人間としての選択をする。

それでもいつか、大きなものに飲み込まれてしまうかもしれない。

浮き輪のようにアーレントの本を抱えていても、彼女のように強くはいられないかもしれない。でも、考えたことに、学んだことに、少しは救われる。ギリギリのところで、きっと。

 

私には、この映画の登場人物すべてが、大きな魚が通りすぎた世界をふらふらと泳ぎだした、小さな魚たちに見える。

あえて、大きな魚の姿は描かれない。だから、水槽の外の小さな魚である私たちは、自分たちのいる水槽に、静かに思いを馳せる。そういう映画だと思う。

 

 

 

 

 

2016年

4月

03日

これでいいのか?

大ヒットした深夜アニメ、『おそ松さん』最終話の評価が分かれている。

(『おそ松さん』という作品自体については放映中にも記事を書いたので、よろしければご参照ください→過去記事:『おそ松くん』と『おそ松さん』の間

『おそ松さん』は『空飛ぶモンティ・パイソン』のように、短い話をつなげた構成で、個々のエピソードは基本的にリセットされる。キャラクターが骨だけになってしまったり、結婚したりしても、次のエピソードではちゃんと通常の状態に戻っている。

ただ、キャラクターの「意識」は過去のエピソードの記憶を保っているので、死んだり結婚したりしたことも全く別次元の話ではないらしい(この漠然としたつながりも、パイソンっぽい)。

その不確かな連続性の中で、キャラクターのちょっとした成長や関係性の変遷が、繊細に描かれている。特に、四男の次男に対する複雑な感情の描写はさりげなくも丁寧だ。表向きはあくまでギャグアニメの枠を出ないが、ひそかな連続性のおかげで、二人の関係の変化がわかる。「裏(描かれなかった時間の中)で何が起こっているか」に思いを馳せずにはいられない。私も「萌えた」。

 

しかしこの連続性は腐女子のためだけのものではない。六つ子のニート生活がお気楽に描かれる中で、それぞれが「これでいいのか?」という意識を持っていることが、うっすらわかるようになっているのだ。

最終回の1話前にあたる第24話は、その「これでいいのかパート」を総括するような内容だった。

ただ一人、就職活動を続けながら自らの意識と向き合っていた(その行動がギャグとして茶化されていた)三男の就職が決まり、それを契機に弟5人の自立への決意と、心を閉ざしてみせる長男の様子が切なく描かれる。そのまま最終回までの一週間、「私たち」(あえて『腐女子』と括らない。六つ子を見守ってきた人々には色々な人がいる)は、踊りに踊らされた。

もう、六つ子が何をやっても可愛いというか、とにかく泣かせたくないというか、むしろ私が養いたいというか、そういう精神状態に持って行かれているのだ。そりゃ騒ぐ。

そしてついに訪れた最終回は、前回のシリアス展開を開始後1分でひっくり返す、ハチャメチャなストーリーだった。なんだかよくわからない始まりで、やけのようにギャグを連発しまくり、なんだかよくわからない結末を迎えた。

そういう展開の中でも、かつて退場したキャラをちらりと出したり、1期と2期をリミックスしたエンディング曲でお別れするなどのサービスでずっと観てきたファンの「労に報いた」点は見事だったと思うが、ストーリーそのものへの評価は分かれる。

ストーリーテラーとしての製作者は、「これでいいのかパート」の回収を放棄している。広げた風呂敷をたためなかった、と受け取る人は納得行かないはずだ。

擁護する人ももちろんいる。「少なくとも六つ子が別離を迎えずに済んだ」ので喜んでいる人は多いと思うし、もともと『おそ松さん』はナンセンスなギャグアニメとしての骨組みを持っている。2クール目の初めで「自己責任アニメ」と言い出したあたりで、「終わり方」は意識されていたのだろう。

いいか悪いかの議論なら、「これでいいのだ」という赤塚イズムを持ちだされた時点で、「これでいいのか」派は屈服するしかないのだ。

 

だから、私はあえて「これでいいのか」派として物を言わせてもらいたい(本音では、六つ子ちゃん可愛いでちゅね~、もう何でもいいんでちゅよ~、と思考停止していることも否定しないが)。

「これでいいのだ」は『天才バカボン』のバカボンのパパの決め台詞だが、そもそもどんな文脈で使われるのが正しいのだろうか。

 

原作『おそ松くん』を描く上で、赤塚不二夫はさまざまな表現に挑戦してきた。

赤塚不二夫公認サイト「これでいいのだ!」でいくつかのエピソードが紹介されているが、ナンセンスギャグが苦手な私でも「面白そう」と思ってしまう。名画や小説を下敷きにしたストーリー、緊張感溢れるコマ運び、感動を呼び起こすために計算された構図。

笑いというのは、一旦徹底的に構築された世界を崩すことでしか極められないものなのだろう。

公式サイトを閲覧するだけで赤塚不二夫の世界が理解できるとは思わない。もっと、漫画そのものに触れる必要があるだろうし、漫画家本人の人生を知るための資料にもあたらねばなるまいが、現時点での私の理解では、赤塚世界とは、「これでいいのか?(社会に直接訴えかけるシリアスな問題提起や、繊細な感情表現」と「これでいいのだ(現実の不条理を知った上で、すべて受け容れる、はちゃめちゃで大らかな世界」が何層にも積み重なった、ミルフィーユのようなものだ。

『おそ松さん』スタッフは、そのミルフィーユを丁寧においしく積み上げることで、赤塚世界に敬意を払ってきた。でも、24話から最終話の流れでは、「これでいいのだ」を、「これでいいのか」からの帰結ではなく、自らのストーリーテリング能力不足を隠すための免罪符として使っているように見える。綺麗に仕上げるべき「一番上の層」でそれをやってしまったことが、「これでいいのか」派が一番ひっかかっている点ではないだろうか。

私たちは『おそ松さん』スタッフを優秀な菓子職人として信頼してきた。

でも、表面にどんな飾りつけをして終えても、見た目の好みは分かれるだろう。だからこそ、味で勝負して欲しいのだ。

 

しかし、この「事変」はいかに彼らが私たちの心を揺さぶることができるかという証明になった(ひょっとしたら計算づくだったのかもしれない。そう疑ってしまうほど、『おそ松さん』スタッフには余力をうかがわせる何かがある)。きっと、2期からは安心して、よりファンを信頼した上で、さらにおいしいお菓子を作ってくれるだろう。貪欲に、期待していたい。

2016年

4月

02日

優しい嘘

『Mr.ホームズ』は家の近くで上映していなかったため、朝から電車に乗って新宿に出向いた。

うらうらと、暖かい春の日だった。アパートを出たら、外で遊んでいた子どもたちが、手折ったたんぽぽをくれた。畑で働いていた人が、両手いっぱいに抱えるほどの菜の花を分けてくれた。急ぐ必要はなかったので、一旦家に戻り、コートを着たままたんぽぽをコップにさして、菜の花をゆでた。

ひどく、のんびりした気分になっていた。頭のどこかにいつもあるはずの苛立ちや焦りは、とろんとした眠気に包まれて、ずいぶんと遠く感じた。いつか年をとって、仕事や色々なことを辞めたらこんな感じかもしれないなと、ふと思う。

春眠暁を覚えず、という言葉をいつか習ったけれど、子供の頃は春に眠いと思ったことがなかった。田舎で育ったせいか、体はいつも周りの自然と連動していて、春になればうずうずと何かをしたくなり、夏には一層その気持ちがつのり、秋になるとすこし落ち着いて、冬はすぐに眠くなった。

動植物が息づくのに抗うように動きが鈍くなるのは、たぶん私の体が、生のピークに向かうのでなく、死に向かう下降線を辿り始めたからなのだ。

 

映画は、そんな春の日とつながっているかのようだった。

「ホームズ映画」といえば、薄暗い霧のベーカー街、キビキビと走り回る名探偵だが、『Mr.ホームズ』は、陽光と美しい花々に彩られている。私達の知るホームズには、そんなものは似合わなかったはずだ。それが、うっすらと悲しい。

みっちょんさんこと関矢悦子さんは、この映画を「ホームズ、ウメザキ、アンの三人が持っている『悲しみと喪失感と孤独』に対して、三者三様の安らぎ(救済)を得られるストーリー」と評された。

私達の知るホームズは、いつも人を救う側の人だった。その行為によって、彼は彼自身をも救っていた(仕事でも家事でも子育てでも、人の営みにはそういう側面があると私は信じる)。

でも、93歳の彼は体も頭も鈍っていて、もう、探偵として人を救うことはできない。名探偵という肩書はすでに虚しく、彼はただの「ホームズ」だ。そうなってしまった人間は、もう救われないのだろうか。人生の終わりに待っているものとは、悲しみと喪失感と孤独だけなのだろうか?

 

知性という武器を失ったホームズは、「新しいやり方」でウメザキを救おうとする。

そのやり方を使っていたのは、今はもういない相棒のワトスンだ。

ワトスンの書く物語はいつだって曖昧だ。真実という分子は、とろんとした嘘にくるまれて、時にかたちが見えなくなる。ホームズは、ワトスンのそんな姿勢を批判してきた。

ホームズだって上手に「嘘」を使うし、茶目っ気や気遣いがないわけではない。おそらく、自分が導き出した真実よりも、読者の興味や誰かを慮るための嘘を重んじる親友に、ちょっと拗ねてみせる気持ちもあったのだろう。『白面の兵士』という隠遁後のホームズ自ら筆を執った作品では、ホームズはそんな自分を少し反省しているようだ。

 

「じゃ自分で書いてみたまえ、ホームズ君」こう反撃されてペンはとったものの、書くとなるとやはりできるだけ読者に興味を与えるようにしなければならないということに、いまさら気のついたことを告白せざるを得ないのである。(『白面の兵士』延原謙訳)

 

実際の出来事を書く場合でも、読者を楽しませる形で表現する必要がある、と学ばされたのだ。それが避けられない条件だと気づくと、私はたった2作発表しただけでジョン風の物語を書くのはきらめ、あの親切な医者に短い手紙を送り、これまで彼が書いたものを揶揄したことに対して真摯な謝罪の念を表した。(『ミスター・ホームズ 名探偵最後の事件』ミッチ・カリン作 駒月雅子訳)

 

かつて、アンの手袋をそっと隠したワトスンの「優しい嘘」。

それは、彼の気遣いが消沈した親友を相手に発揮されたものとみていいと思う。ワトスンの優しさとアンの孤独は、手袋の形をして、いつもホームズのそばにある。

逝ってしまった人は、不意に語りかけてくる。音楽や、遺品や、その人を知る誰かからの手紙の中に、その人はいる。

正確には、生きている私たちが、その人を思い描いているだけなのだ。でもいつか、本当に本当に救いが必要な時が来たら、正確であることがどれほどの意味を持つだろうか?アンのように、ウメザキのように、物語にすがるのは、いけないことだろうか?ホームズの追い求めていた真実と、アンが見つめていた彼女にとっての真実は、どこかでつながってはいないだろうか?

すべての真理をつかむには、私たちはあまりにも小さい。だから、頭と体の動く限り、追い求めるしかない。それぞれに与えられた環境で、それぞれにできるやり方で。

 

しかし、人は何かを深く追えば追うだけ、背後に置き去って遠く離れてしまったように思えるものを、強く求めるのかもしれない。ホームズにとって、それは「真実」と「嘘」だったのだろうか。ドイルにとってのそれは、何だったのだろうか。いま私が置き去りにしようとしているものは、何だろう。

原作と映画の結末は違う。その変更も、ホームズや私達の思いをとろりと包み込む、優しい嘘に思える。

焦りや怒り、失望や悲しみはこの世だけのもので、逝ってしまった人達は、とろりとした膜の向こうで微笑んでいる。そう信じて祈ることこそが、きっと、最大の「優しい嘘」だ。

 

2016年

2月

29日

接骨院でアウェイになる

しばらく更新していなかったのは、SHERLOCKのスペシャルにかまけていたからではなくて、骨折していたからだ。

 

正確に言うと、骨折していた「らしい」。

足の甲をひねってしまい、3週間ほど経っても腫れがひかないので近所の接骨院に行ってみたところ、「これは折れてたはずだ」という診断だった。

剥離骨折というやつで、折れたというよりは、筋肉に負担がかかったついでにそこにくっついてる小さい骨がポロッと取れたらしい。

 

そこから先は非難の嵐である。なんでもっと早く来なかった、なんでもっと早く医者に行かなかったんだ、と、あっちこっちで怒られまくりだ。

しかし、こちとら天下のインドア派、怪我の素人である。どのくらい痛ければ捻挫で、どこからが骨折なのかなんてわからない。我慢できる痛みだから医者に行かず、腫れがひかないから接骨院にかかったまでのことだ。

 

……そう開き直れるのはここが医者も職場の人も家族も見ていないブログだからで、現実では、久しぶりにアウェイの不安を味わった。

 

かつて、私はいつでも自分がアウェイにいると感じていた。

「邦楽はダサくて洋楽はカッコいい」という理屈がわからなかった。

「○○ちゃんは△△くんのことが好き」など、皆が「見ればわかる」と言うことが見てもわからなかった。

母に料理を教わっている時の「だいたい」とか「いい加減に」とかがわからなかった。

 

大人になるにつれて、なんとなくわかってきた。

洋楽カッコいい論に、特に根拠はない。誰が誰を好きか推測するのに必要なのは、視覚ではなく興味。「だいたい」や「いい加減」は、経験で身につける。私は異端者だったわけではなく、単にレトリックの理解力が欠けていたのだ。

 

しかし、人生半ばにして圧倒的な「世界と私の間に立ちはだかる壁」に直面している。はっきり言うと、接骨医と全く話が通じない。

 

コミュニケーションの困難さは、以前歯科医にかかった時にも感じていた。

「痛かったら言ってください」と言われたのでどのように痛いか説明しようとすると、「そんなはずはないです」と言われてしまう。

痛みを説明するのって、ものすごく難しい。

変に凝った言葉遣いをしようとせず、素直に、シンプルに伝えようとするのだが、いつの間にか「医者に喜んでもらうために」正解を探しているような気がしてくる。

今回も、そんなに痛くないから来なかったはずが「痛いはずだよ」と言われると、なんか痛くなきゃ申し訳ないような気がしてくる。「痛いはずなのに痛くない」ことが、重要な病気や怪我の発見につながるんじゃないか?という思いもちょっとあるので、正直に「そんなに痛くない」と言いたいのだが、圧倒的な「お前よりオレのほうがよくわかってる」オーラの前に、なす術もない。私の体なのに。

 

落ち着け、私。過去を振り返れ。家族を、教師を、友人を、上司を、ネットの人を振り返れ。「オレはわかってるオーラ」なんて、大抵はこけおどしだったではないか。そのこけおどしのために無駄に傷ついて、無駄に萎縮してきたじゃないか。

 

ただ、お医者さんにとっても私はイヤな患者だろうなと思う。

3週間も放っておく時点で、自分の体に興味がない奴、と思うだろう。

それは、体というものに興味を持って今の職業を選んだ人にとっては、ある種の侮辱なのかもしれない。自分の体すら愛していないお前に、オレの仕事がわかってたまるか、お前の体はお前が責任を持つべきなのに、おざなりにしておいて「さあ治せ」と開き直られても困るぞ、といったところか。

 

お医者さんは「体」のプロなのだから、「言葉」に固執してウジウジしても、仕方ないことなのだ。

それにしても話、通じねえ。もう考えるのが面倒になってきたので、電気治療の間、脳の暇さを紛らすため「おそ松さんをハリウッド映画化するとしたら誰をキャスティングするか」を延々妄想することにした。

チビ太役はマーティン・フリーマンにオファー。この人以外ない。断られたらこの企画は白紙に戻す覚悟である(※もともと白紙です)。

五男役でオーディションを受けに来たクリス・ヘムズワースがまさかの長男役を射止め、六男役は紆余曲折を経てベン・ウィショーに。 ←NEW!

 

……この辺りで思い出した。幼少期の私は、圧倒的なアウェイの人生を、妄想で暇つぶししていた。いつの間にか学生になり、受験生になり、大人になってやりたいことらしきことを見つけ、忙しくしているつもりだったが、本職(?)はこっちではなかったか。

どうせ私はこの世界の正社員にはなれないのだ。派遣とかパートとかバイトですらない。ひたすら終わるのを待ってる子どもが、私の「そもそも」だったのではないか。

とりあえず、長男と次男と三男と四男と五男のキャスティングで完治まで持ち込むつもりである。

 

 

 

 

 

2016年

1月

03日

年末年始だけ、ごはん日記

12月28日 (一人パーリィで痛い目に合う)

 

仕事納め。

誰かと「良いお年を」と言い合って別れるのは嬉しい。仲良しの人も、そうでもない人も、しみじみ大切な人に思える。ふわふわと温かい気持ちは帰り道も続いていて、今まで作ったことないレシピに挑戦するべく、スーパーに立ち寄った。

練りウニをいただいたのだがほとんどお酒が飲めないので、ウニクリームパスタを作ってみることにした。以前無印良品でレトルトのを試しておいしかったのだが、そこそこ高い上にコレステロール値が気になるのでずっと食べてない。今日は解禁だ。

贅沢して生クリームを買って、フライパンの上で練りウニとまぜ、ゆでたパスタを和えてみた。

材料の値段に比例してすごくおいしくなるはず、と期待したがそうでもなかった。少なくとも、レトルトより乳脂肪分が高そうな味はした(実際高い)。おいしくないのにカロリーはしっかり高いものを作ってしまった自分に腹が立ったが、勢いで完食した。

贅沢ついでにカットパインも買ったのだが、こちらはすこぶる美味だった。根拠はないがウニパスタの無念とカロリーを中和してくれるような気がして、食べ過ぎた。

そうしたら夜中にお腹が痛くなって、それに相まってパイナップルの酸でのどや胃の粘膜がひりひりしてものすごくつらかった。消化器官の内側が、口からお尻まで一直線に全部つらい感じだった。ついでにトイレが寒くて、外側も地味につらい。

痛いのはお腹だけでそれ以外はまあ我慢できるのだが、私が何をしたんだ、と恨みたい気持ちでいっぱいだった。何をしたかも実はわかっているので余計にやるせない。脳までつらい。

 

12月29日 (ほぼ断食)

 

パイナップルの後遺症か、まだちょっと胃が痛い(本当は消化器官全体が痛いと言いたいのだが、それは気のせいだと看護師の友人にきっぱり言われた)。パイナップル恐るべし。

明日、お寿司の約束があるのでできれば復活したい。様子をみながら、白湯とか、小さいカップのヨーグルトとか「摂取する」。

大掃除を今日やるつもりだったので、これは痛いロスだ。夜になってようやく、クローゼットの整理とかしてみる。

 

12月30日(大掃除が始まらない)

 

復活した。しょっちゅう具合の悪いようなことを書いているのでご心配いただくこともあるが、胃腸は強いのだ。

近所にあるタッチパネルで注文するタイプの回転寿司に、初めて行ってみる。友人の9歳になるお嬢さんが、慣れた様子で「海老天」を注文して度肝を抜かれた。海老天が乗っかったお寿司が出てきた。タッチパネルの操作を完全に彼女に任せて、大人は口頭で好き放題注文する(9歳児に)。

 

 帰りにスーパーの特設コーナーでわらびもちを買って、大掃除中丸出しのわが部屋でお茶を飲んだ。フードコートみたいなところで『スピン』という米菓子みたいなのも買った。同世代の友人たちは懐かしい、と言っていたが、私にはあまり記憶がない。ざっくりした歯触りでおいしい。

それから皆でゲームをした。動物の生態を当てるゲームなのだが、9歳の子どもに対していい大人のNくんとSさんは一切勝ちを譲らなかった。私は友人二人のこういうところが好きなのだが、9歳の彼女は大泣きし過ぎて吐いた。なかなか病人モードから抜け出せないわが部屋、としみじみ思いながら、夜カーペットを洗う。

 

12月31日(脂との闘い)

 

スーパーに大書きされていた「おせちもいいけどカレーもね」というフレーズが頭を離れなくなってしまい、おせちの準備を放っておいてカレー食えって意味じゃないよな、と了解はしているものの、昼はカレーを作った。と言っても買ってきた材料はおせち用なので、トマト缶と鯖の水煮缶で作るサバカレー。

昨日Sさんが生クリームの残りを泡立ててくれていたので(クリスマスにいただいたパネトーネというお菓子につけて食べた)、思いついてマッシュポテトに混ぜてみたらものすごくおいしかった。ジョエル・ロブションはおいしいマッシュポテトを作るコツを「バターをたっぷり入れること。50パーセントまではバターを入れてよい」と語ったそうだが、生クリームもいい。口当たりがふんわりする。

しかし、これは人をダメにする食べ物だ。5万円のディナーでぽちっと出てくるならともかく、こんなん家で日常的に作って食べたらダメになる。具体的には、映画「セブン」で暴食の罪で殺された人みたいになる。誰か私に記憶を抹消する光線を当てて欲しい。

 

夕ご飯は実家に行って年越しそばをいただく。アパートに帰ってから実家のおせちの担当分(私が独立して台所が二つになったため、分担している)を作る作る作る。

 

・柚子なます

・筑前煮

・オレンジチキン(SHERLOCKのジョンのブログに『パンダ・エクスプレス』に似た名前の中華料理屋さんが出てきて、懐かしくなっておせちに入れてみたところ、好評だったので毎年作っている。オレンジジュース入りの甘酢だれで和えた鶏の唐揚げ。私は青ネギもたっぷり添える)

・豚肉の野菜巻き(八幡巻の豚肉版みたいなやつ。照り焼きにする)

 

……こうして見ると、台所が汚れそうなやつばっかりじゃないか。母に謀られたか。(掃除したばかりの換気扇!)揚げ物する鍋がなくてフライパンでやったので、すごく油が跳ねる。そこら中水拭きし過ぎて手がガッサガサだ。

 一応紅白歌合戦を流しっぱなしにしていたが、エアコンの風が一番よく当たるところにカーペットを干していたら、音すらほとんど聞こえなかった。

 

お祝い用の箸を買い忘れていたので、折り紙で箸袋を折りながらの年越しになった。

どの番組を見ながら年越しするか考えあぐね、結局NHKを観ていたら、予約録画のために画面が切り替わって「キャプテンアメリカ・シビルウォー」の物々しいトレイラーを観ながら年が変わった。まあいいか。

 

1月1日(働き者の友人と甥)

 

雑煮の準備をしようと、「小松菜をさっとゆでて絞る」(←レシピ棒読み)。

コンビニ頼みで平日はほとんど料理しない私だが、料理中の食材とはきれいなものだなあ、と思う。

私は本の装丁を見るのが好きで、美術品よりもずっと興味があるのだが、それはきっと背景に「読む」という楽しみが隠れているからだ(たぶん、音楽とか美術とか、感覚へ直に切り込んでくる芸術と正面から取っ組み合うのが私は苦手なのだ)。

食べ物を美しいと思う気持ちにも、「食べる」ことへの期待が含まれている。

その美しさが、どんどん姿を変えていく。この手でそれを引き受け、見る、触る、音を聞く、匂いを嗅ぐことで「おいしそう」という気持ちが高まる。

正月の朝の、おせちがあるから暖房できない台所のきりっとした寒さもいい。食べるだけの人は、この楽しみの一番終わりのとこしか味わえてないのだな。だからといって今年からもっと料理します、と断言はできないが。

 

大家さんの餅つきにお呼ばれ。新年早々よその家族にお邪魔するのも申し訳ないのだが、通りすがりの人にも餅をつかせたり、飲み物を出したりする太っ腹な御一家なので甘えさせていただいている。こういうお正月を知らずに育ったので、毎年いちいち感動する。昔話の庄屋さんみたいだ。

幼馴染のSさんとYちゃんが合流。

飛び入りの友人たちはたいそう有能で、餅とり粉をまぶしまくり、大福を包みまくり、余った餅をのしまくり、「彗星のように現れた期待の新人」と絶賛されていた。

つきたてのお餅をからみ餅、大福、お雑煮と抜かりなくいただいた。

アパートに戻って料理をつまみながらダラダラしたが、ここでもSさんとYちゃんのスキルが遺憾なく発揮され、かまぼこをウサギの形に切ったり、いくらやアボカドを飾ったりして、いつSNSに投稿しても恥ずかしくないような写真を撮ってくれた。

幼馴染たちがデキる女なのはわかってるんだが、この「いいタイミングでさりげなくいい感じの写真を撮る」技術は、どうやって身に着けたのだろう。いつの間にか、女友達という女友達が同じテクを習得している(私の友人に限った話かもしれないが、男友達はそうでもない。出されればただ食う)。皆が一斉に携帯を出すと、私も目の前にある光景が惜しい気持ちになって同じ構えをとるが、完全に後手後手だ。

 

夕方からは実家に行って、両親と弟夫婦、やたらとペラペラしゃべるようになった甥っ子に会った。甥っ子は英語でしゃべると大人にウケがいい、ということを自覚していて、"Coffee please"と頼むとコーヒーメーカーのところまで走っていき、"Here you are"と(コーヒーに見立てた何かを)渡してくれる。その後はこちらが飲む振りをして"Yummy"と言うまでわくわくと見守っている。

何度も繰り返して飽きたので逆にこっちから"Here you are"と渡したら、しばらく考えた後で一口だけ飲むふりをして「にがい」と言った。

 

ホットカーペットの上で毛布をかぶってうとうとしながら、「エージェンツ・オブ・シールド」の一挙放映を観る。

 

1月2日(急にエンジンがかかる)

 

もちなしのお雑煮をおつゆがわりにして、朝食。

小松菜やかまぼこの残りも入れたらすごく具沢山になった。

おせちの残りをご飯で食べるのが好きなので、幸せだ。

昆布巻きとか煮しめとか、ちょっと余ってしまう系のおせち料理が好物なので、太るの覚悟でたくさん食べた。

一人用の冷蔵庫は余った料理と材料ですぐにいっぱいになる。

隙間作り最優先で「材料検索」し、「鶏肉と大根のさっぱり煮」を作る。

 

友達のブログに表示されていた広告に触発されて、防災袋を作ってみた。

と言っても、リュックとかラジオつき懐中電灯とか、ちゃんとした防災グッズはまだ買っていない。

アルミのシートとか、軍手とか、除菌ティッシュとか、ホテルでもらったスリッパとか、いただきもののキャンドルとか、なんとなく靴箱に突っ込んでいたものをやはり持て余してたイケアのブルーバッグに集結させただけだが、バッグのタグのところに連絡先や血液型を書いたら、急に緊張感が出た。

いつか、これを作っておいてよかったと思う日がくるのかもしれない。

肝心なものがなくてイライラするかもしれないし、全然足りないかもしれない。誰かがこれを見つけた時、私はもういないかもしれない。

その時そういう心境でいられるかどうかはわからないが、小さく「見つけたら使ってください」とも書いてみた。

 

夕方、きんとんとコーヒー、黒豆を入れたヨーグルトを用意して

「グレーテルのかまど」スペシャルを観る。

あと「富士ファミリー」というスペシャルドラマが良かった。

木皿泉作品、友達に絶賛されていたがちょっと説教くさくて私は苦手、と思い込んでいた。今回は何かがかちっとかみ合ったみたいに、説教くさいところも含めていいなと思った。

 

普段は家事を始めるエンジンがなかなかかからないのに、一度かかると今度は冷めない。夜中に突然思い立ち、便箋や封筒、カードに切手やシールなどを適当に詰め込んでた小引出しをひっくり返して整理した。

ついつい、紙物を買ってしまう。服と違ってすぐにはヘタらず、それほど流行がないのもあって、昔買ったものの可愛さに今でも悶絶する。

鳩居堂の絵葉書とか、ドイツのパン袋とか。結局、ここだけは思い切った整理はできない。私が突然死んだら友達皆で分けてください。箱にまとめておきました。

 

年賀状の返事を書きながらエージェンツ・オブ・シールド。

各話のエンドクレジットのあとに3秒くらい出てくる、落書きみたいなエイリアンがふらふらと歩いていくアニメが怖い。

今はネットで「それは何なのか」を簡単に確かめられるけど、昔はテレビを観るときこういう怖さをもっと何度も感じた気がする。

 

1月3日(コンビニ生活への復帰に向けて)

 

朝昼ごはんは八つ頭の煮物、おつゆの残り(かさが減っててちょっと焦がしそうになった)、雑穀ごはん、いくらの残り(賞味期限やばい)、アボカドの残り。

自堕落な生活も今日までかな~と惜しみつつ、洗濯をして年賀状の返事を出しに行く。ローソンの蟹クリームコロッケを一度食べてみたかったので寄ってみるが、なかったのでじゃがいものコロッケを買う。

夜ごはんはコロッケと千切りキャベツ。柚子なますの残りの材料(千切り頑張り過ぎた)で、キャロットラぺと大根の味噌汁。あと、豆乳が豆腐になりかけた小鍋みたいなレトルト食品に、青ネギの残りを振って食べた。

この商品を開封する時、私はいつも豆乳を爆発させてしまうのだが、久しぶりに買ったら蓋に「爆発しない開け方」が書いてあって、ちょっと嬉しかった。粗忽者は私だけじゃなかった。要約すれば「ゆっくり開けろ」なのだが。

小松菜とかまぼこの残りはバターで炒めてみた。これと煮物の残りで明日はお弁当。

嵐の二宮君が主人公の「坊ちゃん」(赤シャツが及川ミッチー!)を録画した。週末はこれを観ながら、クリスマスにSHERLOCKのカレンダーを送ってくれた友人に送る、柚子ジャムと柚子カードを作ろうと思う。

 暮れからずっと台所の隅で小山になってた柚子があっという間に小さな瓶におさまって、大掃除感があるはずだ(もはや『感』で妥協してる)。 

そういうのも料理する人の快感だよな~と、早くもコンビニ生活に一歩足を踏み入れながら思う。

                                  

2015年

12月

19日

銀杏を洗う

記事のひとつをツイッターで拡散していただいた際(それ自体はとてもありがたいことだ)、私の文章の拙さが原因で、読んでくださった方に嫌な思いをさせてしまった。

私自身はツイッターのアカウントを持っていないが、激しく怒っている方のツイートを友人が見かけたそうで、「対処したほうがいいと思うよ」とスクリーンショットを撮って送ってくれた。

 

傷ついた。しかし、身から出た錆だ。

当該記事にも追記をしたが、発端は私が「ワトスンは何もできないキャラクターの代表のように言われている」と書いたことだ。その部分に対し「ワトスンが何もできないだと?この人は何を言っているんだ」という反応があったらしい。ツイッターには発言を一般公開しない機能もあるため、何人の方が同じように思われたかはわからない。

『SHERLOCK』におけるジョンのような重要な役割も含め、『ホームズ』二次創作におけるワトスンの描かれ方には、それぞれの作品においてそれなりの意味がある。だから道化や役立たずとしてのワトスン像を頭から否定するつもりはないが、個人的には、原作のワトスンを揶揄する人には心の中で反発してきた。しかし、いつの間にかそうした評価をひとつの現実として受け容れてしまったようで、別の映画について語る時に一般論としてさらっと出してしまった。

「ワトスンぼんくらイメージ」が存在していたことは、お怒りになった方々も認識していらっしゃったようなので、矛先が私だということはこの際たいして重要ではないのかもしれないが、いずれにしても、先に石を投げたのは私だ。

石ならまだいいのかもしれない。小石であれば、痛いのは短時間で済む。

言葉の暴力で投げられるのは、銀杏の実のようなものだと思う。投げつけられるといつまでも臭い。忘れたくても、不愉快がまとわりつく。

 

以前勤めていた職場には、大きなイチョウの木が何本もあった。

路上にたくさんの実を落としていたので、そこを通学路とする子どもたちに「ぎんなん地獄」と呼ばれて嫌われていた。

上司の一人は少しでも空き時間ができると黙々と銀杏の実を拾っていた。子どもたちには「ぎんなんおじさん」で通っていたらしい。私たち部下も手伝ったが、とにかく量が多いので、毎年かなりの量を彼一人で拾ったはずだ。実は際限なく落ちてくるから、いくつもいくつも、何度でも。

大量の実を水に浸け、掻き回して(お風呂のお湯を掻き回す棒が最適だそうだ)種を取り出し、大きなかごに並べて乾かしてくれるのもその人だった。

いくつもの工程を経て手渡された銀杏の種を使い古しの封筒に入れ、電子レンジにかけると、硬い殻が割れて、透明感のある翡翠色の粒が現れる。その大きさに比して信じられないほど、滋養に満ちた味がした。

 

ツイッターでの生き生きとした言葉のやりとりは、見ていて本当に楽しい。

きっと、タイムリーに怒ってくれた人がいたおかげで、私の言葉に傷ついていた人は救われたと思う。そうだとしたら、その人のおかげで、私もまた救われている。そうした効能はツイッターならではのものだ。

でも、私はまだまだこのツールは使いこなせないと思う。言葉に余計なものをまとわせてしまったり、思ったことをうまく伝えられなかったりするから。

もともとの人間性がダメなのか、言葉の使い方がなってないのか、両方なのか。よくわからないが、とにかく私は、銀杏を洗うような作業を経ないと言葉を発せないのだと思う。

いい人ぶるつもりはない。悪口だって言うし、自分勝手なことも、いいかげんなことも言う。

洗ったところで自分の臭いはとれないし、手をかけても不味い実が出てくる。

しかし、洗わねばなるまい。桜のようにそこにいるだけで皆を楽しませる木もあるが、桜には桜の苦労があるはずだ。臭い実を投げつけて人に悲鳴を上げさせてしまう木に生まれついたら、それなりに努力しなくてはいけないのだろう。

元職場のイチョウは、既に切られてしまった。「ぎんなんおじさん」は、来春定年退職する。

 

徹底的に磨かれた、という感じがする言葉に触れるのが好きだ。

最近『CITY HUNTER』の続編がドラマ化されていて思い出したのだが、アニメ『CITY HUNTER2』の主題歌の一節をよく口ずさんでいた。

 

最初に好きになったのは声

それから背中と整えられた指先

ときどき黙りがちになるクセ

どこかへ行ってしまう心とメロディ

(PSY・S 『ANGEL NIGHT~天使のいる場所』)

 

身近にいる人に恋をする、その過程が四行に凝縮されている。

きっかけは、声という、意識しなくても耳に入ってしまうもの。

つい相手に見入ってしまい、今までは目に入らなかった細かな発見にドキドキする時期を経て、相手の内面を想像するようになり、自分とのつながりを切なく望むようになる。

そういう分析が出てくるのは大人になった今この歌を思い出したからで、子どもの頃は理由もわからずただ惹かれた。助詞の「と」に「整えられた」が続く「と・と・と」という音の並びが心地よかったのを覚えている。

いい言葉は、どんな受け取り方をする人も惹きつける。

いつかこういう言葉が書けたらなあ、と思う。

2015年

11月

22日

『おそ松くん』と『おそ松さん』の間

『おそ松くん』の六つ子が大人になった、という設定の深夜アニメ『おそ松さん』がネットでウケていて、ローカル局の千葉テレビは「この波に乗っかって」『おそ松くん』の再放送を開始したそうだ。

 

この件において、群馬県民は完全に勝ち組である。群馬テレビでは『おそ松さん』が始まる数か月前から『おそ松くん』の再放送をやっていた。

群馬県民は、満を持して新旧作品を比較できたわけである(やっている県民がいたかどうかは知らないが)。

 

私は1988年版の放送をリアルタイムで観ていて、主題歌(仕事とローンに追われるサラリーマンの悲哀を歌ったものだった)を大声で歌っては周囲の大人を苦笑させていた世代だ。

このバージョンもアニメ化としては2作目らしい。当時も、大人に「昔のアニメのほうが毒があった」とか「いや原作の方が」と言われていたが、原作と1作目を知らない私にとっては、十分無茶苦茶だ。

第10話では、六つ子の長男おそ松が高熱を出し、イヤミが彼を死神に売り渡す。最終的にはそこまでの流れとはほぼ関係なく全員死んでしまい、「それでは皆さまさようなら」とミュージカル調に終わる。往年のギャグへのオマージュだとしてもすごい。ボケ、投げっぱなしだ。

 

それに比べると2015年の『おそ松さん』は、不条理は不条理だが、何というかフォローが効いている。

まず、ほぼクローンだった六つ子にわかりやすい個性がついた。性格は六者六様だし、外見も描き分けられている。

そのことによって、六つ子の間に関係性が生まれる。ちゃんと「ツッコミ」がいるので、一つ一つのギャグがきっちり「回収」される。日頃鬱屈している者が愛情を垣間見せるという「ちょっといい話」もある。

『おそ松くん』に限らず昔の漫画には、現実とその世界をつなぐ説明がなかった。例えば、どうして毎日同じ服を着ているのか。安月給のお父さんと専業主婦のお母さんで、どうやって六つ子を育てているのか。

服装に関しては、時代性もあるのでうまい例えではなかったかもしれない(おそ松くんたちはいつも学生服のような服装だったが、現実もそんな感じだったのかもしれない)が、驚いたことにおそ松さんたちは着替えている。ジャケット、パーカ、つなぎなどバリエーションがあるし、丈や着こなし方にも個性が出ている。

一家の経済状況にも言及がある。母に「ニートたち」と呼ばれる兄弟(この『ニートたち~』が何ともいえずあっけらかんとしていて、今はニートって普通のことなんだなあ、と実感する)は「このままではまずい」と思って就職しようとしたりするが、イヤミに「子供のころチヤホヤされた連中はこれだから」というような陰口を叩かれていて、(マンガやアニメ『おそ松くん』の)子役としての収入が一家を支えていたことが、六つ子が自立せず両親もそれを責めないことと関係があるのかもしれないなあ、などと邪推させられてしまう。

 

こうした「現実的な見方」があった方がいいとかない方がいいとか言いたいのではなく、現代のギャグ漫画にはメタ要素というか、視聴者や読者の視線がより多く混ざるんだな、と思う。ストーリーの中で登場人物が自分の立場で語るのではなく、観ている子供たちが翌日の教室で話すようなこと。「いつも同じ服だよな」とか、「見分けがつかないなら変えたらいいのに」とか。

『おそ松さん』におけるツッコミもかなり視聴者目線だ。登場人物の一人として自らの立場からツッコむのと同時に、視聴者の気持ちを代弁するという機能をはっきり打ち出している。「いや、おかしいだろこの状況!」とか、視聴者ではなく登場人物が言う。同じことを、視聴者は翌日の教室ではなくリアルタイムでSNSなどで言っている。

 

では、どうして今、視聴者目線が取り入れられるのか。

それは視聴者もまた優秀な創作者であることが、二次創作の台頭でわかっているからかもしれない。ネットには『おそ松さん』の二次創作が溢れている。製作者がそれを見越しているのは、第一話を見れば自明だ。

視聴者を置き去りにした「それでは皆さんさようなら」から視聴者寄りにシフトすることで、『おそ松さん』は成功し、放送期間も延長されたわけだが、第二作と第三作の間にはビデオゲームの台頭があった。二次創作ブームの背景にはネットの普及もあるが、その更に前の私の世代には、ゲームの影響がある気がしてならない(ゲームはしないが二次創作はする、という人ももちろんいたが、時代の空気はたっぷり吸っていたはずだ)。

当事者なのでよく覚えているのだが、子どもたちに爆発的なファミコンブームが起こったのは『おそ松くん』88年版放送の数年前で、だから88年版おそ松くんを作ったのはファミコンを知らずに育った大人だ。

ゲームは想像力を奪うとか暴力性を引き出すとか、大人には散々言われたものだが、それは半分当たっていて半分はずれている。

初めてゲームを手にした時感じたのは、自らの手で物語を切りひらいていく手触りだ。主人公の運命は私の手中にある。結末を自分で決められないテレビや本とは違い、主体的に関われる娯楽。実生活において自分で選択できることが少ない子どもにとって、それは何ともいえない快感だ。その証拠に、読者の選択で物語が分岐する「ゲームブック」も当時流行った。

一方で、世界やキャラクターは既成のもので、一から物語を作らなくていいという手軽さもある。登場人物をひどい目に合わせても、自分は傷つかない。「腹を痛めて産んだ子」ではなく、借り物の体だからだ。飽きたら、また次の対象に移ればいい。

そういう意味で、他人の作ったキャラクターを借りて物語を作ることは、ゲームをプレイすることに似ている。私はゲームの愉しみも二次創作の愉しみも否定しないが、ゼロから何かを作り出すのとは、やはり違う。どちらがより偉いというのではないが、種類の違う行いだと思う。

 

『おそ松くん』の六つ子は顔かたちはすべて同じで、それに「ツンデレ」とか「無邪気」とかさまざまな色を付けていくのが『おそ松さん』だ。

それは、二次創作が外から見るよりもずっと豊かな創造性に溢れていることと同時に、一歩引いて見れば没個性的にも見える、ということも暗示している。どこに視点を置くか、何を愉しんで生きるかは、人それぞれだ。

 

2015年

11月

16日

『キングスマン~』の中の『最後の事件』

「塚口サンサン劇場」プロデュースによる「キングスマン・レディース&ジェントルマン上映」の東京版(角川シネマ新宿)に連れて行っていただいた。

参加した方々がさまざまな形でレポートしてくださっているが、ここにも「L&G上映」の概要をざっと書いておく。

 

・ドレスコードがある(ジャケット、眼鏡、傘。ただし強制ではない)

・大きな声を上げてもよい。

・クラッカーや紙吹雪が劇場側から配られる(持ち込みも可)


思い思いのお洒落をして、(劇中に出てくる)ギネスを楽しむ。上映までの待ち時間にはかっこいいDJがサントラを回してくれている。観賞グッズを自作してきた人も大勢いて、初対面の参加者とも会話が弾む。本や映画など、ひとりでひっそりやる娯楽を好んでいた私にとっては、上映前から既に異次元である。

主催者の挨拶と"Eat, drink,party!"(これも劇中のセリフ)の唱和で上映が始まる。

上映中は、観客が主役だ。お気に入りの場面でクラッカーを鳴らす。鋭いツッコミにどっと笑いが起きる。人気キャラクターが出てくれば嬌声がわく。

アメリカ人の友人に話したところ、「アメリカでは普通の映画館がそんな感じだよ」と言われたが、違うのは「観客全員が2度目以降の鑑賞」というところではないだろうか。

日本人は自制する。映画の登場人物に対して愛を叫ぶという「オタク的行為」は、「そうでない人もいる環境」では許されない。オタク自身が、それを許さない。

だから、自分たちを隔離する。「ファンだけが集まり、好きなだけ愛を叫んでいい環境」を作り出す。そこから、新たな文化が生まれてくる。

「文化」なんて言い方は大げさかもしれないが、今回私が一番感動したのは、塚口サンサン劇場で、既に独自の鑑賞文化が育まれていたことだ。

歌舞伎の大向うのような「ツッコミ師」がいて絶妙なツッコミを入れるのは、ニコ動のコメントや2ちゃんねる、Twitterでの「実況」を基にしたスキルだし、好きな場面でクラッカーを鳴らすのはFacebookの「いいね」や、ブログの「拍手」である。観客たちが共有するバックグラウンドが、ちゃんと生きている。

観客がごみ袋や軍手を持参して散らかった紙吹雪やクラッカーを掃除するのも、サンサン劇場の恒例行事だそうだ。

ちなみにチケット代は通常の映画料金と同じ1800円なのだが、劇場はクラッカーや紙吹雪を提供したり(紙吹雪も、劇中の写真をあしらった凝ったものだ)、照明や音響で盛り上げたり、クライマックスでは風船を飛ばしたりと、趣向を凝らしてくれている。観客の滞在時間や清掃の手間を考えると、時間的、金銭的には劇場が損しているはずなのだ。

開催する側に、作品が好きで楽しみを共有したいという思いがあり、参加する側もそれに応える。エンターテイメントにエンターテイメントで、ホスピタリティーにホスピタリティーで。これはとても幸福な図式だ。

チケット販売は「瞬殺だった」そうだ。この先、こういうイベントが増えていくのだろう。開催者、参加者、双方への批判も出てくるだろう。同人誌即売会がそうであったように初めは純粋な思いで支えられていても、商業主義に走る者が現れたり参加者のモラルが問われたりするのかもしれない。

そうだとしても、今この時、塚口サンサン劇場や角川シネマの取り組みに参加させてもらえたことを、私は誇りに思いたい。新たな文化の誕生に立ち会えたことを、若い世代に繰り返し自慢してウザがられる婆さんになりたいと思う。

連れて行ってくださったRさん、Lさん、ありがとうございました。スタッフの方々はもちろん、そこにいたすべての人たちに感謝したくなるようなイベントだった。何度も言うようだが本とか映画くらいしか娯楽を知らず、クラブとかライブとかほぼ無縁だったので、生まれて初めて「今夜は最高!」と大きな声で叫びたくなるような夜だったのだ。音楽やダンスより本や映画に痺れるタイプの人間だって、たまにはそんな夜に溺れたい。

 

さて、多分TwitterとかでL&G上映への賛辞は何度も呟かれていることと思う。

せっかく貴重な参加権をいただいたのだから、ちょっとは毛色の違った感想も書いておくべきかもしれない。そんなこんなで、ここからは一シャーロッキアン見習いとして映画「キングスマン・ザ・シークレット・サービス」の内容に触れたい。需要があるかどうかは置いといて。

 

7回目とか5回目とか、手練れの観客ばかりの中で「たった」2回目の鑑賞だった私だが、クラッカーを鳴らすタイミングは心に決めていて、その一つが、主人公エグジーが教官のマーリンを「マイクロフト」と呼ぶ場面だった。

何でもホームズ関連の語句に「空耳」「空目」する習性があるので、本当にマイクロフトと言ったか確信がなかったのだ。しかし、よく聞いてもちゃんと「マイクロフト」と呼んでいたので、私は心おきなくクラッカーの紐を引いた。

IMDbを確認したところ、やはり「マイクロフト」はホームズの兄を意識したセリフだったようだ。マーリンを演じるマーク・ストロングがガイ・リッチーの映画「シャーロック・ホームズ」に出演していたことに由来するらしい。

あっ、と思った。キングスマンのボスになりすましているエグジーは、演技の一環として、パイロット役のマーリンに「おめでとう、マイクロフト。パイロットから執事に昇格だ」と言う。

マイクロフトが御者に扮してワトスンを送り届けるのは『最後の事件』だ。ホームズとワトスンが行きつくのはスイスの山中。エグジーとマーリンが潜入するパーティーの会場があるのも、どっかわからんけど、なんか雪山だ。

 

こじつけもいいところだが、もし『最後の事件』とこの話がつながっているとすれば、共通点はもう一つある。

ハリーとエグジー、ホームズとワトスン。関係性は異なるが、信頼関係で結ばれた二人の、片割れがいなくなるというところだ。

ハリーとエグジーは非常に親密だ。ほとんど疑似父子として描かれる。

エグジーは、血の気の多い若者に見えるが、その実とても素直だ。保護者としては頼れなくても愛してくれる母親には愛情を、軽視してくる義父には軽蔑を返す。信頼を向けてくる友人は全力で庇う。いじめにはきっちりやり返すが、引きずらない。性的な視線を向けてくるプリンセスの誘いには乗るが、男ばかりの候補者の中で孤立するロキシーには、女性ではなく友として対する(だから私は、彼のボンド的なプレイボーイとしての振舞いにさえ、欲望よりも無垢さを感じてしまう。彼は、望まれる自分を望まれるように返しているのだ)。もちろん、ハリーの強い愛情や信頼には、全力で応えようとする。

天才的な活躍を見せるエグジーに「何もできない」キャラクターの代表のように言われる(※追記2)ワトスンを重ね合わせては叱られてしまうだろうが、利他的なところはワトスンに似ているのだ。

自堕落になっていたワトスンは、ホームズに出会って自らの興味のきらめきを感じる。相手の存在のおかげで気持ちが引き立ち、感性が研ぎ澄まされる、というのはホームズにとっても同じである。しかし、ワトスンは家庭と言う新たな居場所を見つけ、ホームズのもとを去る。

 

ハリーの人物像は謎に包まれているが、コードネーム「ガラハッド」に象徴されるように、一貫して高潔な紳士として描かれる。

そのハリーがイライラとした表情を覗かせるのが、エグジーが愛犬を撃つことをためらって試験に落ち、キングスマンになることを諦めてひとり帰宅した時だ。ハリーは強引に彼を私邸に連れ戻し、感情を叩きつける。そこで呼び出されて、例のチャーチ・ファイトが始まる。

この時のハリーの大量殺戮に関しては「SIMカードを所持していないものにも影響がある」と劇中で説明されているが、私には、ハリーがエグジーに対する「個人的な怒り」を秘めていたことも少なからず影響していたように思える。

ヴァレンタインがスイッチを入れる前から、ハリーは感情的だった。聞くに堪えない差別的な説教に苛立ったようにカモフラージュされているが、意見を異にする人間たちの中にうまく紛れる経験は、これまでにもあったはずだ。心中には、エグジーに対する感情が燻っていたのではないか。

正気に戻ったハリーが自覚するのは、操られていた自分ではなく、その前の、私情に翻弄されていた自分だ。ハリーの死は、彼自身にとっては「キングスマンとしての自分の死」なのだ。

 

エグジーに対するハリーの怒りは、SHERLOCK第3シリーズでクローズアップされた「ワトスンに対するホームズの感情」と同じ種類のものだ。

唯一信頼できるパートナーであったはずの者、目をかけて育てたはずの者。一旦懐に入れてしまった相手が、一番根っこのところでは自分と同類ではありえない。その事実を知ってしまうということは、孤独な天才にとってはどんなに嘆かわしいことだろう。それはすなわち、完全に孤高でいることができない己の限界を知るということでもある。

 

しかし、だからこそ、ハリーの死はホームズの死と同様に、肉体の死ではない、と思う。ハリーが生きている根拠は劇中にもいくつか提示されているのだが、私は「キングスマン」の後半部を『最後の事件』に見立てる、という酔狂をやった上で、ハリーの「帰還」を信じたい。

エグジーは、ハリーを失った上で立派なキングスマンになった。

ワトスンは、ホームズを失った上で人気作家になった。

同じように、痛みを知った上で蘇る者には成長があるはずだ。

ヒーローは、全てを切り捨てた、ストイックで完璧な存在でなくてもいい。そうでない部分をこそ、私たちファンは愛する。

 

追記(2015年11月20日)

エグジーがマーリンを「マイクロフト」と呼んだくだりについて、「マイクロフトがマーリンの本名なのでは?」と友人から意見をもらった。

その可能性もあるが、仮にエグジーがマーリンの本名を知っていたとしても、敵地で唐突に本名を用いるというのは周到な彼に似つかわしくない気がするので、私は(メタ的な解釈を置いておくとしても)「ホームズ由来説」を取りたい。

エグジーはButlerではなくvaletという言葉を使っているので、本来は執事(従者の仕事に加え、屋敷全体のの業務を統括する)よりも従者(主人に付き従って身の回りの世話や秘書業務をする)という訳が適当なのだと思う。

従者といえばジーヴス&ウースター、と私はすぐに連想してしまうのだが、それは私の英文学の知識の裾野が短いからで、同様に「咄嗟に出した従者の名前」が「ホームズの兄・マイクロフト」というところに、エグジーの読書歴が見えてくるのかもしれない。

エグジーは「プリティ・ウーマン」を観たことはなくても、「マイ・フェア・レディ」はなぜか知っている。いかにも不良少年、という服装をしている一方で、キングスマンに並ぶ高級スーツにも憧れる。

無知でもなければ博識というわけでもない。下品なだけでもなければ、スノッブでもありえない。優等生的な資質を持ちながら、不良少年の社会に馴染んでいる。知識や興味のグラデーションにおける、ある部分がばっさり抜け落ちている、という感がある。

英国において、何を読んでいれば読書家っぽいのか、そのあたりの空気感は私にはわからないのだが、日本の青年に置き換えれば、今はヤンキー漫画雑誌に熱を上げる一方で、子供時代は読書を好み、新刊書は買ってもらえなくても学校の図書室にある本はよく読んだ、という感じではないだろうか。そうだとすれば、「シャーロック・ホームズ」のキャラクターが口をついて出てくるのにもうなずける。

マイクロフトが選ばれたのは「マーリン」と頭文字が同じで、格式の高そうな名前、ということだろうが、もしもそこに「最後の事件」を読んだ記憶が紛れ込んでいたとしたら、やはり自分にとって一番のヒーローであるハリーに、子供時代のヒーローだったホームズを重ねちゃったんじゃないの!?もしかしてだけど!もしかしてだけど!と言いがかりに近い妄想を重ねる私である。

 

追記2(2015年12月5日)

上記の記事中、「ワトスンが何もできないキャラクター代表のように言われる」というくだりについて、ツイッター上で「この記事を書いた人はワトスンを何もできない人間扱いしている」というご意見をいただいていると、友人から聞きました。

まず、ご不快な思いをされたことに対して謝罪致します。大変申し訳ありません。

これは長年ワトスンが好きだった私の「世間一般の評価に対する」実感であって、私自身がワトスンを役立たずだと思っているわけではないのですが、さまざまな作品がワトスンの素晴らしさを説いてくれている現在、一般論をそんな風に決めつけるのも乱暴だったと思います。

ツイッターのアカウントを持っていないので直接お話できず恐縮ですが(取ろうかとも思ったのですが、直接抗議なさっているわけでなく『呟いて』いらっしゃる方々に対してそれもまた不調法かなあと……)、これ以上嫌な思いをされる方が増えないよう、また、ツイッター上でワトスンの魅力を呟いてくださっている方々にどうにかして謝意をお届けできないかと、一縷の望みを託して追記させていただきます。

また、自身の表現力不足への反省の意味もあり、記事中の文は改正せずに追記のみさせていただいております。ご了承いただければ幸いです。

 

2015年

10月

18日

晴れたらいいね

福山雅治が結婚して、ショックを受けているファンと、そういうファンに対して「お前が福山と結婚できるわけでもないのに、どうしてショックを受けるんだ」と不思議がっている人がいるようだ。

 

私はショックだ。福山雅治だけでなく、誰が結婚するのも少しショックだ。

それは自分が結婚していないからで、宿題が終わっていないのに友達に「もう終わった」と言われるのと似たショックだ。人が終えていることを、自分はまだやっていない、という焦り。

しかし、宿題をしなくても死なないように、結婚しなくても死なない。

好きな人が結婚した時にショックなのは、その人が私の側の人じゃなくなるから、だと思う。

 

「どうしてショックを受けるんだ」と言う人は、人間を「独身側」と「既婚側」ではなく、「知人」と「他人」みたいなもっと小さなくくり、または更に小さく、個人単位で切り離して考えているのだろう。

そんな風に、論理的にものを考えられるのはすごくいいことだと思う。確かに、人を「独身側」と「既婚側」に分けるのはナンセンスだ。自分は結婚してるけど福山雅治が結婚するのはイヤ、という人だっているだろう。

一方、人の結婚を自分のことのように喜んだり悲しんだりできる人は、共感する力がある。それも素敵なことだ。

共感を持てるからこそできることも、客観を保てるからできることもある。

どちらの考えも、世の中に必要なはずだ。そして、二つの考えは同じ人の中に共存していて、かわるがわる顔を出す。

 

たとえば皆「いじめをなくそう」と言うが、人を憎む力と愛する力は同じ人から出ているわけで、誰かを嫌うことをやめてしまったら好きになることもできなくなってしまう気がする。

「いじめをなくす」というのは考えや行動を理性でコントロールする、ということであって、負の感情をなくす、ということではない。人の感情を強制的に変えることは、誰にもできない。

感情を捨てなくても、いじめをやめることはできる。同じように、誰かの結婚を寂しく思うということと、その人の幸せを願うということは両立する、と私は思う。

 

そんなこんなで、Cさん、ご結婚おめでとうございます。

花嫁姿があまりに綺麗で、すごく寂しくて、すこしショックです。

独身自虐ネタを連発している私からの「おめでとう」はそらぞらしく聞こえてしまうかもしれないなあ、と危惧した末、この際徹底的に本音を書いてみることにしました。

拙くとも本当の気持ちを記したブログを受け止めてくださったCさんだからこそ、下手な例えにも「しょうがないなあ」と笑ってくださる……と良いのですが。


ご自身と旦那様を幸せにしてあげてください。Cさんのお力を持ってすれば、それは簡単なことではないかと思うのです。

もしもいつか、それを難しいと感じてしまう時が来たら、会ったこともない私という人間の心を温めてくださった、その実績を思い出してください。

 

遠い場所で私がCさんの幸せを願っているという事実は、基本的には何の役にも立たないと思います。でも、ないよりはあったほうがいい、かもしれません。

晴れたらいいね、と皆が願っていた日が晴天だったら嬉しいように、私の願いも、Cさんの幸せをほんのすこしだけ彩ることができますように。

 

2015年

10月

11日

エリンギ アンドニューヨーク

小さな子どもに英語を教えている。

人間にとってまず重要な表現は、否定や攻撃なのだなあ、としみじみ思う。

YesよりもNoを先に活用する。

Excuse me はなかなか出てこないくせに、いたずらした子にたった一度"Excuse you"を使ったらあっという間に流行ってしまった。

教えてもいないのにOh, my god!やGo to hell! What a f××k!は連呼している。どこで覚えた。(たぶんネットゲーム)

私の真似もよくする。

自分では気づかなかったが、"No problem"が私の口癖らしい。

(ちなみに日本語の口癖は『それはおいといて』らしい。日本語勉強中の友人が黙々とカウントしたところ、1時間に平均3回使っているそうだ)

そんないいかげんな教師とわちゃわちゃした生徒なので、双方に、叱責というか罵り合いというかのボキャブラリーばかりが増えて行く。

教え子たちがGo to hell! Be nice to your friend!と楽しそうに怒鳴りあいながら道を歩いていた、と聞かされた時は頭を抱えた。

 

先日、「友達にインタビューをして、結果をまとめてミニ新聞を作る」という課題を与えた。

新聞の名前も自由に考えてよいと言うと、子どもたちは喜び勇んで色々とバカな名前を考えていたが、ある男子に「何にした?」と聞いたらCNNのキャスターのようなイントネーションで「エリンギ アンド ニューヨーク」と答えたのが、数日経った今も忘れられない。何というか、大人には真似できないタイプの馬鹿である。

 

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2015年

9月

05日

アッセンブル!

「夏休み、何してた?」という質問にはいつも答えにくい。

普段会えない人に会ったり、興味があるけれど時間がなくてできなかったことをしたり、充実してるつもりなのだが、私の場合その楽しさが家族や同僚に伝わりにくい。

正直に言うと、アメコミ嵌りたてで、サービスデーの度に淡々とアベンジャーズを観る夏だった。私の職場は8月比較的暇なので、退勤後は避暑を兼ねて映画館に通った(エアコン代と天秤にかけた上で、比較的料金が安い日だけだが)。

晩夏のある夜、ふっと確信した。通ってるのは、私だけじゃない。

 

・50代くらいの男性(いつも一番乗り)

・30過ぎくらいの男性(『スターウォーズ』宣伝J.J.エイブラムス監督の挨拶の前くらいのタイミングで入ってくる。スーツ姿)

・20代半ばくらいの男性二人組(いつも『映画泥棒』の直前くらいにポップコーンを抱えて入ってくる)

 

そして私。

 

他にカップル一組か二組くらいはいるのだが、レギュラーメンバーは固定されている。エンドロール後の「Avengers will return」まで席を立たないのはこの5人だけだし、終了後駐車場までとぼとぼ歩く(『私の想い出のマーニー』参照)メンバーも同じ5人だ。

こっち(観客)も毎週アッセンブル。言ってみればアベンジャーズ群馬支部である。

だったら私がナターシャではないか。胸より下腹が出ていようと、暖かい飲み物とレンタルブランケットが手放せず、上映前に念のためトイレに立つプレ更年期であろうと、遺伝子学上私が一番ナターシャ・ロマノフである。

最終上映(の直前のサービスデー)の夜、私は俄然「このメンバーをまとめたい」という気持ちになっていた。

なんとなく「また会いましたね……」というアイコンタクトを交わしながらも、駐車場までの長い道のりを無言で歩く、内気なマーベルおたく4人組、プラス私。縁あって同じ夏を過ごした仲間に交流をもたらすのは、紅一点の私の使命ではないか。

その時男子二人組の片割れが、しみじみとした声で相方に「終わっちゃうな」と話しかけた。すかさず私は、さりげなさを心がけつつ「終わっちゃいますねえ。よく通いましたね~」と割り込んだ。

「あ、おねえさん何回か会いましたよね。俺ら初日から来てました」

「実は俺も……」

駐車場までの無言の道行きは全員にとって気づまりだったようで、和やかに会話が始まった。思い切って話しかけてよかった。毎度気まずかった数分間が、一気に心楽しいものに変わった。

駐車場の入り口で、一番年嵩の男性が「じゃ、『アントマン』で会いましょう」と茶目っ気たっぷりに振り向いた。

するとスーツの男性が

「あ、私マーベル好きというわけではないので、次来るのはスターウォーズだと思います」

……わざわざ言わなくてもよくないか、それ。

そこで男子二人組が「俺らもアントマンはあんまり」

だから言わなくていいじゃん。おじさん気まずそうじゃん。

私に視線が集まる。

「えーと、アントマンは観に来ると思いますが、次にこんなに通うのはシビル・ウォーかも……」

途端に場の空気がほぐれた。皆、仕方なさそうな苦笑を浮かべた。

なんか、「所詮腐女子か」的な。

「どうせクリス・エヴァンスの尻観に来てるんだろ、わかってねえな」的な。被害妄想かもしれんが。

思ってたのと違うけど、紅一点の活躍によってなんとなく穏やかに解散し、我々の夏は終わったのだった。

 

 

結論:アベンジャーズ群馬支部は帰ってこない。

 

追記(2015年10月10日)


その後、『アントマン』上映で男子二人組の片割れと遭遇。

「ちくしょう、『アントマン』めちゃくちゃよかった~!」

「次におじさんに会ったら土下座して謝りましょう……」と反省しながら駐車場に向かったのだった。


結論:おじさんがキャプテン。

 

2015年

8月

28日

霧雨の東京で

知らない街を歩いていると、急に不安になる。

都会に住んでいたこともあるので、全く状況がわからないわけではないのだけれど、初めて親元を離れて街を歩いた時の自意識過剰な不安を、全く同じように今も感じる。

今日のように仕事を休んでいる時は尚更だ。あの、煩わしくも居心地のいい場所で安穏としていることもできたのに、どうして私はここにいるんだろう。時間も場所も曖昧になり、自分の意志でやってきた、ということすら忘れてしまいそうになる。

自分ではどうにもならない力で、遠いところまで流されてしまった、と思う。

 知っているチェーンのお店が現れると、道しるべを見つけたようにほっとする。大丈夫だ。まだ、そんなに遠くには来ていない。

 

昔の駅舎を利用した、素敵なカフェでコーヒーを飲んだ。

霧雨が降り続けていたが、川に面したテラス席を選んだ。物慣れた感じの人人たちが楽しそうにビールなど飲んでいる、暖かそうな店内には居たたまれなかった。

熱いコーヒーと、マグのしっかりした重さが心強いと思った。

暫くそこにいたかったけれど、外国人観光客がお店の外観を撮りたそうにしていたので、邪魔にならないようにそそくさと席を立った。

 

目的地には近づいていたのだが、早く着きすぎたらまた途方に暮れてしまいそうなので、真剣に探さないことにしてぶらぶらと(でも、人目には目的ありげに見えるように意識しながら)歩いた。ふと、愛読している漫画の発売日が過ぎていることに気づいて、傘を畳んで書店に入った。

本屋さんも、私の味方だ。本屋さんは、ぶらぶら歩きを許してくれる。知っている本もあるし、知らない本もある。それを手にとってもいいし、とらなくてもいい。

 

高校生の時、世界には二種類の人間がいるのだと思った。

誰とでも家族のようになれる人と、たとえ家族といてもひとりぼっちになってしまう人。

そう考えたとき、私は後者だ、と思った。後者だと気づいてしまった、と。

もちろん世界はアホな女子高生が考えるほど単純じゃなく、たぶん誰もが前者にも後者にもなる。

人は、時々異邦人になる。どこにいても、誰といても。

そうとわかっても、さびしさが消えるわけではない。でも、本屋さんは異邦人を受け容れてくれる場所だと思う。ひとりの異邦人になって良い場所、と言ってもいい。

 

友人のレクチャーでマーベルコミックに嵌っているのだが、うっかり彼女が教えてくれた範囲を超えたところまで立ち読みをしてしまい、うわー!うわー!マジで!?と震えながらチェーンのコーヒー店に駆け込んで、友人にメールをした。

友人は仕事中なのですぐに返信がくるはずもなかったが、もう大丈夫だ、と思った。いつの間にか、知っている場所に帰ってきていた。

『夕焼け小焼け』のやわらかなメロディが街に流れ、スーツ姿の、でもリラックスした顔の人たちがビル群から溢れ出てきた。

まだ濡れている窓から見下ろすと、本屋さんの前に自分の傘が見えた。

2015年

8月

21日

すこし、イヤだと思ったこと

「久保みねヒャダこじらせナイト」というトーク番組がすごく好きで、レギュラー化される前からずっと録画して観ているが、先日少しだけ「好き」という気持ちに影が差した(たぶん、出演者のせいではない)。


「こじらせすき間ソング」というコーナーでは、例えば「節分の歌」とか「ゴールデンウィークに働かなくてはならない人の歌」とか、ニッチな需要しかない曲を、出演者たちが類いまれなセンスで作っていく。出演者はポップスへの造詣が深く、出来上がった曲はB'z風だったり、中島みゆき風だったりと、既存のアーティストへのリスペクトが込められている。

先日は小室哲哉風だった。「毛サバイバル」というタイトルで、小室テイスト満載の言語感覚と音楽に載せられたバカバカしい歌詞がたまらなく可笑しかったのだが、小室哲哉本人にコメントさせていたのには「ん?」と思った。

これって、小室が不快に思っていたとしても、その気持ちを出せないんじゃないか。本人たちの事情がよくわからないので余計なお世話かもしれないが、「馬鹿にされた気がするな」「嫌だな」と思っても、洒落のわからない男と後ろ指さされるよりはと、人気番組という長いものに巻かれるしかないんじゃないか。

弱者が強者をおちょくっているようでいて、結局は弱い者いじめをしているんじゃないだろうか。


私は小室哲哉の大ファンだったわけではないが、曲を耳にすると、学生時代がわっと蘇ってくるような興奮を覚える。番組はライブの中継という形式だったのだが、おそらく観客のほとんどにとっても同じだろう。でも、観客や視聴者にも、コムロに対してどこか侮りがあるのではないか。その曲を口ずさんでいた自分を過去の物にすることで、その時代を彩った人までも過去の遺物のように感じているのではないか。私たちが「その後」を生きているのと同じように、その人も「その後」を生きているのに、だ。

人をおちょくるのも侮るのも、一つの表現だし、表現をするなら自身が誰かの表現の標的になるのも覚悟しておくべきなのだろう。でも、「私たちはあなたが大好きなんですよ!だからこれはリスペクトなんですよ!笑って許してくれますよね!」という大義名分のもとに「おちょくっている現場」に本人を担ぎ出すのは、なんかやだな、と思う。

 

同じように「なんかやだ」と思ったことがあって、それは『コクリコ坂から』という映画の公式サイトで宮崎駿からの『メッセージ』を読んだ時だった。この『メッセージ』は「自分がいかに駄作を名作に仕立て直してやったか」という風に読めてしまって、私には不快だった。

「原作の生徒会会長なんか“ど”がつくマンネリ」「脇役の人々を、ギャグの為の配置にしてはいけない」などの批判には共感するし、宮崎映画の「そうしないところ」が好きだ。ぶっちゃけ、原作より映画の方が好みだ。

でも、原作にもその時代ならではの輝きがあったはずだ。少女漫画には少女漫画の存在意義があるし、独自の作法がある。そこを全否定するような文章を公式サイトに載せるくらいなら、その原作使わなきゃいいじゃん。

他人の褌で相撲をとっといて、貸してくれた人に「褌って時代遅れですね。っていうか相撲つまんないんで、ボクシングしました」って言ってるようなものだ。

 

以前、アガサを騙したホームズむかつく、みたいなことをブログに書いて、その時代背景も考慮しなくては、とコメントをいただいたことがあった。私は「現代人の立場からの意見があってもいいはず」という旨の反論をしたが、私の書いた文章にも「やな感じ」があったのかもしれないな、と思う。私がホームズを批判しても弱い者いじめにはあたらないだろうが、後出しはいつだって、ある程度卑怯だ。

時間が経っているからこそ気づけることもあるから、後出し自体は悪いことじゃない。でも、現在の自分の価値観だけを基準にして、過去の物事を公然と笑い者にするのはやっぱりみっともないことなのかもしれない。

とはいえ、「みっともなくない」ことだけに拘泥していては、何も言えなくなってしまう。そのままの自分を見てもらうのも、表現ということなのだろう。

よく考えてから口を開く、というのは、いくつになっても自戒しなくてはいけないことだと思う。

みっともない、とかやだな、と人に思われないためではなく、自分で自分をそう思わなくて済むように。

 

2015年

8月

02日

感想を言わずにはいられない

読書感想文の季節である。

私は物心ついた頃から本を読むのが好きだった。しかし、読書感想文を書かされるのは苦痛だった。

大人の期待に応えたい一方で、どう書けばいいのかまるでわからなかった。お手本を理解して取り入れる賢さもなければ、心のままに綴るような奔放さもなかった。

 

自分でも不思議なのだが、感想文を書かなくてもよくなった今、何故か頼まれもしないブログを綴っている。

人の感想を読むのも大好きになった。感想を書いたり読んだりするということが、いつの間にか小説や映画を楽しむことの一部になっている。

 

『マッド・マックス~怒りのデス・ロード』は、感想や考察を誘発する映画だ。さまざまな人がそれぞれの視点から感想を書いてネットにアップしている。

最初は大興奮!とかすげえええ、とかV8!V8!とか、「単語の感想」を言いたくなるが、だんだん「自分はこの作品のどこに惹かれたのか」と考えさせられる。人の感想を読んでなるほど、と思い、もう一度映画館に行く。即効性のアドレナリン誘発剤のような映画と思わせておいて、実は遅効性の毒も仕込まれていて、あっという間に中毒にさせる。

二種類の毒の正体は、すでに語り尽くされていると思うが、手っ取り早く言うと「キャッチーさ」と「奥深さ」で、どちらかだけではダメなんだろう。

「薄っぺらい作品」という表現は、入口が一つしか見当たらず、入ってもその先がなかった、という気持ちの表れだと思うが、この映画においては、背後に作りこまれた世界の発露としてのかっこよさ、かっこよさに説得力をもたらす世界観が相互に作用して、きれいな立方体として結晶している。あらゆる面にファンが取り付き、よってたかって研磨することで何面体にも進化し、最後には球体になる(それって、もはや宗教かもしれないが)。

 

私がどんな入り口から入って何を感じたかも書いておきたい。

私の住んでいる地域はおそらく日本で一番暑く、もし冷房がなかったら、体力のない者から順に死ぬ。子供のころは「贅沢品」だった冷房が、もはや生命維持装置である。

熱中症癖のある私は、ぼーっとした頭で「電気代が払えなくなった時が私の寿命かもしれない」と考えてしまう。

大げさに聞こえるかもしれないが、暑さには逃げ場がない。サウナに閉じ込められたような不快感がどこまでも続き、体力も思考力も落ちていく。頑健な体を手に入れるか、対価を支払って生命維持装置のスイッチを入れない限り、生き延びることはできない。「冷房を適切に使ってください」ってなんだ。使えないなら死ねと言うのか。これって既に立派なディストピアじゃないか。私たちは、最悪の未来に向かって緩慢な自殺を続けているんじゃないか。

 

『マッド・マックス』はディストピアをかっこよく描いていた。

過去の人たちが犯した過ちのせいで短命にされ、搾取者への妄信にすがって生きている人たちをかっこよく描いていた。その絶望的な状況を打破しようとする人たちをかっこよく描いていた。ついでに独裁者たちまでかっこよく描いていた。彼らの圧倒的な生き様を見てしまったら、漠然とした不安など吹き飛ばされる。

『マッド・マックス』を観た帰り、電車の暗い窓に映る私は、ほんのちょっとだけフュリオサ大隊長だ。

げっそりした、将来を悲観した、他者への不満ばかり募らせた中年のおばちゃんじゃない。静かな怒りに満ち、状況に負けない意志と弱い者を庇う覚悟を持った、背筋の伸びた中年のおばちゃんなのだ。

そういう風に人を鼓舞する映画って、やっぱりすごい力があるのだと思う。 

2015年

7月

18日

局力が欲しい

友人たちとショッピングモールを歩いていた時、一人が荷物を紛失した。

案内所には人形のように可憐な女性が座っていて、遺失物センターに問い合わせをしてくれた。その間、私たちの目は彼女の完璧なメイクに釘付けだった。

忘れ物はすぐに見つかった。しかし受け取りの手続きは煩雑で、案内嬢のちょっとした手違いのため、さらに面倒になった。

帰り道、私と友人たちはふざけて「お局様トーク」を始めたのだが、「睫毛盛ってる暇があったら○○してくれないかしら」みたいなベタなフレーズしか出てこなくて、ちょっと愕然とした。

 

いい年こいて、我々には「局力(つぼねりょく)」が全くない。

 

以前書いた「びじゅチューン」に「お局のモナリザさん」という歌がある。

人気作家・柚木麻子の小説を映像化した「ランチのアッコちゃん」というドラマも、最近まで放映されていた。

どちらにも、戯画化された「お局様」が出てくる。共通するのは、仕事ができ、社内を熟知していて、後輩に厳しい(そして実は優しい)こと。冴えわたる厭味、謎に満ちたアルカイック・スマイル。

 

女同士の友人関係において、昔から私は面倒を見られる側だった。

そんな私と長年付き合っているくらいだから、友人たちは後輩に厳しそうでは全然ない。おそらく、優しい先輩だと思う。 

私はわりとずけずけ言う方だが、あまり周りが見えていないし、謎めいてもいない。ボケかツッコミかで言えばボケだ。後輩が育ったとしても、先輩のおかげですなどとは毛ほども思われてない、そういうタイプだ。

 

チームで働くのに必要な人材とは何だろう。

信頼され、決断力のあるリーダー。実務をまとめるサブリーダー。そして、ドラマでは大抵「お局様」がいる。

サブリーダーを兼ねていることもあるが、お局はただのサブリーダーではない。批判ができ、状況によっては嫌われ役も引き受け、しかし愛情を持ってチームを支えることができる。

人は人に好かれたいものだ。嫌われることを厭わない、というのはすごく精神力のいることだ(もちろんただ単に嫌われるのではなく、『チームのためを思ってあえて嫌われる』という場合に限るが)。

困るのは、精神力が育っていないのに、年齢と立場だけどんどんお局ポジションに近づいていることだ。無邪気キャラでいるのは、年齢的にも、仕事上の経験値から言ってもアウトな気がする。しかし局力がないままお局的な言動をしても、それはただのイヤな女だ。

 

女の子からお局になる段階で、母親と言う立場を経験していれば違ったのかもしれない。母親は、子どもから嫌われないという自信のもとに、時に嫌われ役をすることもあるだろう。絶好の局実習だ。

独身女性が多いことを考慮して、ある程度の年齢に達したら、研修をしてくれないものだろうか。局の。

しかし、されたらされたでセクハラだと騒ぐのが我々だ。もうちょっと個々の自覚に訴える感じで、女性誌で「局特集」とかやってくれないか。「愛される局になる!」とか。愛されちゃだめか。

いっそのこと『TSUBONE』とか創刊してくれたら、私は買うぞ。「この一言がオフィスを変える!絶妙な厭味とそのフォロー」特集とか、「クール系局VSお母さん系局・一週間着回しコーディネイト」企画とか、食い入るように読むぞ。創刊号の付録は、ロッテンマイヤーさんの眼鏡がいい。

局という言葉が悪いのかもしれない。男性しかいない職場でも、女性でいうお局にあたるポジションの人が要るはずだ。

TSUBONEに代わる、親しみやすい名称を次の会議までに各自考えてくるように。下半期の査定に響くので、そのつもりで。

 

 

2015年

5月

30日

鑑賞という芸術

つい先ほど、「びじゅチューン」DVDをamazonで購入した。

 

「面白いな」「もっと観たいな」「手元に置きたい」という動機でDVDを購入したことは、これまでにもある。しかし、今回はちょっと違って「あんたの才能に、私はお金を払う!払わせてくれ!」というニュアンスがある。

 

3000円足らずでパトロンヌ気分かよ、と言われそうだが、ワーキングプアの私にそんな錯覚を抱かせてしまう井上涼という人はすごい。

何度もブログの日記欄に書いているが、もともと「びじゅチューン」は好きだった。しかし私の経済状況では、テレビやネットで鑑賞できるものをわざわざ購入する余裕はない。DVDも買う予定はなかった。

 

パトロンヌ気分が爆発したきっかけは、「紅梅図屏風グラフ」という作品だ。

それまで私のベストワンだった「樹下鳥獣図屏風殺人事件」では、方眼状に区切って彩色された絵 をパズル(謎)のピースに例えていた。そこまではまだわかるが、梅の枝が折れ線グラフに、敷き詰められた正方形の金箔がグリッド線に見えるって。あんた天才か。天才だろ!

 

私は読書が好きだし、美術館に行くのも好きだ。

でも、作家や画家を「天才」と表現したことはない。

単純に、わからないのだ。誰が天才で、誰が天才じゃないか。どれがすごくて、どれがすごくないのか。確信を持って言えるのは、「好きか嫌いか」だけだ。

井上涼を「天才だ」と言ってしまえるのは、「鑑賞する者同士」でもあるからだと思う。同じ作品を見ても、私はあの屏風に折れ線グラフを見出すことはできない。ゆえに井上涼はすごい。心から尊敬する。

 

創作者としての彼が天才か天才じゃないかは、断ずることができない。「びじゅチューン」は大好きだし、彼の歌は毎日口ずさんでいるし、発想も表現力も素晴らしいと思うけど、仮に「美術を歌にする人評論家」が現れて理路整然と「びじゅチューンがすごくない理由」を述べたとしたら、反感を抱きつつも「そうですか」と言ってしまうかもしれない。私は創作者じゃないから。ぶっちゃけよくわかってないから。

でも、もし「仕事をする」こととか「ブログを書く」ことが創作のはしくれであるならば、私は井上涼のような創り手になりたい。

「びじゅチューン」は一応教養番組だと思うが、難しい理屈など一切出てこない。紹介する作品を、彼の目で見て、彼が面白いと思い、そこから産まれてきたものだけが、ばーんと叩きつけられる(感触としては、ふにゃっと差し出される)。

 屏風絵が折れ線グラフ、というのは「正しい解釈」では絶対にないだろう。しかし、正しさが何だというのだ。そんなもんちょっと検索すればいくらでも出てくる。

彼がそれぞれの作品を深く理解し、広範な知識を持っているという事実は、作品の端々から読み取れる。しかし、知識の切り貼りや既存の解釈の羅列は、人を惹きつけない。

「びじゅチューン」が教えてくれるのは、美術の知識ではなく、鑑賞という行為の楽しさそのものだ。創作も、鑑賞も、本来は個人の楽しみであると思う。そこに他人を巻き込むことができるのは、やっぱりすごいことなのだ。

私も、小理屈を唱えなくても本質を伝えられる仕事をしたいし、「物知りなブロガー」よりも「ドラマ鑑賞や読書の愉しみを伝えられるブロガー」になりたい。しかしそうなるには知識を得ることが大前提なので、仕事関係の皆さまにもブログでお世話になってる皆さまにも引き続きご教示賜りたく思います、と土下座する次第であるわけだが。

 

ところで、初版分には、DVDについているハガキを送ると井上涼が好きなキャラクターを描いて返送してくれる、という、後世の人が聞いたら泣いて悔しがりそうな特典がついていたそうだ。

もし描いてもらうとしたら、誰を選ぼうか。

機嫌のよい時「かみがた~をかえたい~の♪」と思わず口ずさんでしまうのに収録されなかった「ファッショニスタ大仏」をお願いして、次巻への収録希望をアピールするか。正統派美少女「真珠の耳飾りのくノ一」で行くか。好きなキャラは「アイネクライネ唐獅子ムジーク」の作曲家コンビなのだが、描線が多くて描くのに時間がかかりそう。リクエストはたくさん送られてくるだろうに、うっとおしがられないだろうか。

……たかが購入特典なのに(しかも実際もらうわけでもないのに)、「このキャラクターを選ぶとは、わかってるな」と井上涼に思われたい、という自意識がバリバリに働いている。

自らの意思を表明するという行為は、どんなに小さなことでも、表現の始まりなのだろう。

 

 

2015年

4月

29日

YOUは何しにギロッポンへ

六本木という街には、働くようになって初めて出入りするようになった。

アメリカ人の同僚に連れられて、T.G.I.FRIDAYに行ったのが最初だった、と思う。

以来、赤坂、六本木界隈は、何かにつけて「初めての体験」をする場所になった。体験型レストランに行ったのも「NINJA」が初めてだったし、初めてマーティン・フリーマンを見たのも、「観客が歌う映画」を観たのも六本木ヒルズだ。お金持ちが多そうな雰囲気に気後れして、「何かないと行かない」というのが正直なところかもしれない。

そんな気後れの街・赤坂や六本木で、唯一リピーターになったパブがある。リピーターと言っても群馬に住んでいるので両手の指に足りない回数だが、なんとなく落ち着ける場所で料理もおいしいので、遠方に住む友人たちとの集合場所のようになっている。がやがやしている上に周りの会話が英語なので、日本語である程度気兼ねなく萌え話ができるのもいい。

先日も利用した。Rさん、Lさんと私の3名で入店しようとすると、店員さんが「イベントをやっているが、構わなければ」と申し訳なさそうに告げた。

真冬で、外は雨降りで、お腹は空ききっていた。それに気を遣われないことこそが私たちにとっての利点なので、全くもってノープロブレムである。構わん構わん、と意志表示すると、店の真ん中にあるテーブルに通してくれた。

食事より、酒や調味料を置くのが目的という感じの、丈が高く天板が二段になっている、小さな丸テーブルだ。着席すると、向かいに座るRさんの顔が、一段目と二段目の間に顔を差し入れて覗かない限り見えない。座ってくつろぐよりも、伊達男が肘をかけてもたれかかっていたり、吹っとばされた男になぎ倒されて、周りの客が悲鳴を上げるような場面が似合いそう。

しかしまあ、なんとか食事はできる。使用面積は小さくても、二段あるからお皿は倍乗るし。気にしないことにして飲み物を注文していると、けたたましくホイッスルが鳴った。

客の全員、いや半分が、さっと席を立つ。立ったのはいずれも男性、残ったのは女性だ。よく見ると、私たち以外の全員が名札をつけている。

我々3人の丸テーブルを世界の中心として、時計回りに男たちの大移動が始まる。さっき申し訳なさそうだった店員が声を張り上げ、「次のホイッスルは15分後」と告げる。

 

初めてだが間違いない。これ、お見合いパーティーだ。外国人の。

おそらく外にもお知らせがあったろうに、ちゃんと見ずに入店したこちらが圧倒的に悪い。悪いのはわかってるが、言わせて欲しい。

 

断れよ!

 

かくして、15分おきにホイッスルが鳴り響く中、私たちは飲み食いを堪能し、人にうるさがられる心配全くなしに(周り皆それどころじゃない)、マッツ・ミケルセンやリチャード・アーミティッジへの愛を伸び伸びと語りあったのだった。

時々名札を付けた男性が陽気に飛び込んできては、全ての椅子が(若干お姉さん気味の)女性で占められてることに戸惑いを隠さなかったり、隣のテーブルのエリカ(仮)をボブ(仮)が席を離れた後も狙ってるのにエリカ(仮)はユージーン(仮)に惹かれてるのが丸わかりでこっちがハラハラさせられたりしたが、それもまた良い思い出である。

他人の恋愛模様の情報が一方的にインプットされ過ぎて、アウトプットするべく近くのコーヒーショップで自主反省会を行わずにはいられなかったが……。


そんなこんなで、就職したての頃から今に至るまで、六本木は新しい何かが起こる街であり、未体験のことだってまだまだあるのだ。

とりあえず「いい年してふらふらしてないで、婚活しろよ」攻撃に対し「お見合いパーティーに参加したことならあるんですけどね~」とにっこり笑う、という迎撃パターンがひとつ増えた。めでたし。

 

2015年

3月

10日

スネ夫のママのケーキ屋さん

そのメールは、年に2回か3回やってくる。

文面はいつも同じで、至ってシンプルだ。

 

「例のアレ、そろそろどうですか」

 

私の返信も大抵同じ。

 

「了解。いつものメンバーでいいですか。連れてきたい人がいたら人数を教えてください」

 

金曜が来ると、私は残業せずに早めに職場を出る。仕事が残っていたとしても、翌日に休日出勤すればよい。

帰宅したら、簡単な料理を作る。ショートパスタとか、ピザとか、ワカモレとか、あまりお腹がいっぱいにならないようなもの。

6時くらいになると、職場の仲間がスナック菓子や飲み物を携えてやってくる。軽い夕食をとりながら、職場の愚痴を言い合う。金曜ロードショーでジブリ映画がやっていたら必ず観る。ジブリのキャラクターと付き合うなら誰がいいかとか、くだらない話をダラダラとする。

映画が終わると、私はおもむろに湯を沸かし、紅茶やコーヒーを淹れる。この辺りで、子育て中のメンバーが子供を寝かしつけ終えて集まってくる。本番はここからである。

メールをくれた友人が台所から大きな紙箱を持ってきて、解体する。開けるのではなく、側面をはずして文字通り解体するのだ、箱は一枚の展開図になり、色とりどりのケーキが現れる。

歓声。キレイ、かわいい、おいしそう。

ケーキを選んで買ってきてくれる友人は、地元で有名なパティスリーの近所に住んでいる。旬のフルーツがたっぷり使われていたり、動物を模していたりと、どのケーキにも工夫が凝らされている。シーズンごとにたくさんの種類のケーキが出てくるので、網羅するにはこの「ケーキ会」が一番いい。

切り分けたりせず、四方八方からフォークを入れて食べる。下品かもしれないが、少しずつメンバーを変動させながらも、もう何年も続いている習慣だ。こういうケーキは一人ではなく、分け合ったり、SNSにアップしたりと、人と感想を共有しながら食べるのがいい。

深夜に甘いものを食べる背徳感と、明日は休みというささやかな幸せに浸りながら、眠くなるまで雑談を続ける。飲み会とはまた違った楽しみである。

 

実は、先輩に教えていただいたお気に入りの店がもう一つある。

先輩曰く「三角のケーキしかない」小さな店だが、入るとふわっといい匂いがする。クッキーやシュークリームのチェーン店から漂うこれ見よがしなバターの匂いとは違う、バニラのとも、洋酒のともつかない甘い香り。「ケーキ屋さんの匂い」としか言いようのない匂いだ。

ケーキは8種類ほどしかなく、もう見事に「想像通り」のケーキばかりだ。ショートケーキ、と聞いて10人中10人が思い浮かべるような形のショートケーキ。チーズケーキもプリンもそうだ。でも、チョコレートケーキにはお酒がしっかり効いているし、アップルパイのリンゴは甘過ぎず大振りで、ぎっしり詰まっている。どのケーキも、それぞれきちんとおいしい。端正な味がする。

このケーキに似合うのは、一人暮らしのアパートではない。海賊が町を襲うようにフォークを振るう女たちでもない。

ズバリ「応接間」だ、家具調テレビの上にレースかかってるみたいな。黒電話にカバーかかってるみたいな。飲み物は砂糖壺まで揃いのティーセットで淹れた「お紅茶」で決まり。スネ夫のママみたいな上品な夫人に淹れてもらえれば完璧だ。

テストで100点をとったスネ夫のように、ささやかないいことがあったら、私はこのケーキ屋さんに行きたい。応接間はないけれどきれいに片づけた部屋で、ティーセットはないけれどちゃんと手順を踏んで紅茶を淹れて、うやうやしく箱から取り出したケーキを皿に載せ、正座して食べたい。

その際SNSにアップはしないが、スネ夫のママの物まねは絶対にすると思う。

 

 

2015年

3月

01日

赤く塗れ

Blogというのはそもそも「自分が気になったニュースやサイトなどのURLを、寸評つきで紹介した英語のウェブサイト」だったらしい(Wikipedia)。「21世紀探偵」ではSHERLOCKのことばかり書いているが、そこで出会った方々のブログを拝読していると、SHERLOCKのこと以外にも、ブログ主さんが興味を持ったことが色々書いてあって、非常に面白い。現在YOKOさんがハマっていらっしゃる「イングレス」なんて、職場とアパートとスーパーマーケットしか行かない自分には全く縁がないが、YOKOさんが陣地を増やしていくさまを見ているだけで手に汗握る。「ラインハルト様、宇宙を手にお入れください」という心境だ。さすがのYOKOさんも群馬にキルヒアイスがいるとはご存知なかろう。キルヒアイスと違って役に立ってるわけじゃないし。

ドイルの外典発見事件でリンクさせていただいたTomoさんは海外を飛び回るお仕事をなさっていて、ブログもその行動範囲に連動するかのようにさまざまな話題に満ちている(実はかなり昔からファンだった)。

3月1日現在のTomoさんの最新記事で紹介されたのが、「行った国を赤く塗りつぶす」サイト

Tomoさんはお仕事で50か国以上に行かれたそうだ。

私は旅行にもほとんど行かないので真っ白だろうな、と思ってやってみたら

意外と赤かった……

 

しかしこれにはトリックがある。

まず中国。職場の慰安旅行で、2泊3日で香港に行っただけである。そんだけでこの塗られっぷり。

アメリカは、仕事関係の資格を取るためにカナダにいた時に、バスでちょっと遊びに行っただけだ。何アラスカとか塗っちゃってんの、その上の方の島々も知らないから!ぶっちゃけ名前すらぱっと出てこないから!

アルゼンチンに至っては、ブラジルからイグアスの滝を見に行った時にちょこっと「アルゼンチン側」に回っただけだ。確かに国境は越えたし、パスポートも出したが、滞在時間2時間くらいじゃないか。そんなんでいいのか、塗っちゃって。

見た目の印象としては小さいが、日本列島がまるまる塗られてるのも感覚的にはとんでもない詐欺である。告白するが、私は北海道にも四国にも九州にも沖縄にも行ったことがない。基本的に関東ひきこもりだ、ハロー。

 

というわけで内情を告白すると(しなくても)、Tomoさんの50ヶ国には及びもつかないのだが、何だろう、この「塗りつぶす」気持ちよさは。なんかもう、内容が伴わないとかどうでもいい。赤けりゃいいんだ赤けりゃ。今、私はラインハルトだ。我が征くは星の大海。

 

……気付いてしまったのだが、人はこういう心境の時に「三大陸の婦人」とか言っちゃうんだよな、多分。

 

2015年

1月

31日

不用意な想像

「SHERLOCK」に関することは「21世紀探偵」の方に書くべきなのかもしれないが、なんとなく(より個人的な雑記である)こちらに書きたい、と思うことがある。

それは特に共感や承認を求めていない……いや、だったらネットに書かなきゃいいので承認欲求はそれなりに伴っているものの、どちらかというと「問いかけたい」よりも「吐き出したい」という動機によって書いた文なのだと思うが、その分類基準は自分でもよくわからない。

しかし、この記事をこちらに書いた理由ははっきりしている。「腐女子」的だからだ。

とはいえ、私はシャーロックとジョンが性的な関係を持つことにも、「腐女子」と呼ばれることにも抵抗はないつもりだ。

「腐女子」とは、「そういう見方」しかできない人、という目で見られがちだが、私の知る「腐女子」たちは、対象を鑑賞するうえで「腐女子的な視点」と「そうでない視点」を巧みに使い分けていると思う。鑑賞眼のチャンネルが一つ多い、とでも言おうか。

何と呼ぶのかは知らないが、女性同士の恋愛に「萌える」人たちにも同じことが言えるだろう。部外者の嫌悪感と本人たちの自虐的な自己演出が相まって必要以上に反社会的な存在になっているのは、色々な意味でもったいないことだなあ、と思う。性的なことに関する言動に理性が求められるのは、異性愛者も同じことなのに。まあ、反社会的な世界だからこそ惹かれる人もいるのかもしれないが。

いずれにしても、性に関することは生理的な嫌悪感に直結している。腐女子と思われるのが嫌なわけでも、腐女子が嫌いなわけでもないが、そういう話題への「心の準備」のない人の居心地を悪くするのは不本意なので、やはりこの記事は「日記」に書きたいと思う。

前置きが長くなった。「21世紀探偵」の記事も内容がシャーロックとジョンの関係性に偏っているので、見る人が見れば十分に「腐っている」と思うが、ここではストレートに二人の間の恋愛感情について書きたい。

そこに触れない限り、あの場面が解釈しきれないと思うからだ。

 

結婚式前夜、色々あって二人はひどく酔っぱらっている。つまり、言葉の上での駆け引きができない、少なくともそれが困難な状態になっている。

スタグナイトだから律儀にそうしているのだろうが、二人はパーティーゲームを始める。初級英語の授業でもやるような、単純極まりないゲームだ。

まず、物や人の名前を書いたカードを額に貼る。貼られた本人には、自分に何のカードが付けられたのかわからない。周りの人間に質問をして、「自分は誰なのか」を導き出す。

独身最後の夜に二人にこのゲームをさせるのは、お互いについての思いを正直に述べさせるためだろう。相手にとって、自分は何者なのか。どういう存在なのか。それを確かめ合う場面だ。

 

シャーロックの額には「SHERLOCK HOLMES」と書かれたカードが貼られている。ジョンが書いたカードだと思うが、おそらくこの場合の「シャーロック・ホームズ」はシャーロックの名前というよりも、有名な探偵としての「シャーロック・ホームズ」であり、"The Empty Hearse"のラストシーンで、記者会見に臨むシャーロックが帽子をかぶって「さあ、シャーロック・ホームズになる時間だ」と言った方の「シャーロック・ホームズ」だ。

「シャーロック・ホームズ」言い過ぎて何が何だかわからなくなってきたが、二人が改まって「シャーロック・ホームズ」と言った場合、それはシャーロックが事件を解決し、ジョンがブログを書くことで二人が作り上げた「シャーロック・ホームズ」という人物像なのだ。

しかし、ジョンは作者の片割れであるにもかかわらず、「シャーロック・ホームズ」を理解しきれていない。彼にとってそれは、依然としてシャーロック自身でもあるから。

もちろんシャーロックにも理解しきれない。ジョンの語る「シャーロック・ホームズ」像を聞いて「それは君だ」と結論付けたのは、おそらく本心だろう。「シャーロック・ホームズ」の半分は「ジョン・ワトスン」なのだから。

未完成のままの「シャーロック・ホームズ」をシャーロックに残して、ジョンはシャーロックのもとを去ろうとしている。見ようによっては、とても残酷なことであるが、誰も断罪はできない。

「犯人」は一人もいないのに、悲しいことが起こる。この世界ではそういうことがたびたび起こるが、この二人には解決できない。犯人がいて、事件が起こって、依頼人が来ないと「シャーロック・ホームズ」は何もできない。ある意味では、とても無力な存在だ。

 

ジョンの額には「MADONNA」というカードが貼られる。

有名な歌手の名だが、当然、崇拝の対象となる「聖母」も連想させる。

"His Last Vow"でマグヌッセンはジョンをシャーロックの「damsel in distress(嘆きの乙女)」と表現する。これまで多くの人を「誤解」させてきたが、本人が否定しても、周りの見方ではジョンはシャーロックの「恋人」なのだ。

そもそも、友情と恋愛の境目とはなんだろうか。定義するのは難しい。人間関係の定義は本人たちの主観次第だが、時に客観のほうが本質をついていたりする。

ジョンはシャーロックに"Am I a woman?""Am I pretty?"と問いかける。

異性愛者のジョンが発した場合、Am I a pretty lady?という問いは、「(男性である)君にとって、僕は恋愛対象になり得るのか」という質問にも受け取れはしないだろうか。

シャーロックの答えは "Beauty is a construct based entirely on childhood impressions, influences and role models."

「美とは子ども時代に受けた印象、影響とロールモデルで 決まる概念だ」

と彼らしいが、どんな意味においてもジョンの質問に答えていない。酔っているせいか、それとも、わざと答えていないのか。

そもそも、数年にわたる付き合いにおいて、この二人は恋愛やセックスの話をしたことがあるのかな、と考えてしまう。A Study in Pinkのアンジェロの店の場面で、ほとんど初対面に等しい二人がお互いを探り合う場面はいかにも遠慮がちだった。ジョンには次々にガールフレンドができ、シャーロックはそのことを正確に把握しているが、妨害しようという意図は見えない(結果的に邪魔してしまうことはあるが)。シャーロックとアイリーンの関係においても、ジョンとメアリの関係においても、二人はお互いの恋愛について否定も肯定もしない。というより、お互いその領域に踏み込むのを避けているように思える。原作でホームズがワトスンの結婚に「おめでとうは言わない」と言ったように、あるいはワトスンがホームズとハンター嬢のロマンスを願ったようには、踏み込まないのだ。それは、男性同士の友人関係において、一般的なことなんだろうか。シャーロックが女性に興味を示さないことを差し引いても、デリケートというか、わりと気を遣ってるんじゃないだろうか。

もちろんドラマに映ってない場でガンガン猥談してた可能性もあるけれど、少なくとも確認できる限りでは、そういう話題を持ち込むことに関して、二人は過剰に清潔だ。

そういう背景を踏まえて見ると、この場面はちょっと際どい。ジョンもシャーロックも「気遣い」を捨てて、かなり無防備な姿を相手に晒す。じっと相手を見つめたりもする。ジョンはより率直に、シャーロックはより素直になっているように思える。

ジョンはいきなり"Am I a vegetable?"(僕は野菜か)と問いかけるが、vegetableには異性愛者という意味もある。シャーロックはおそらく「二つの意味」を捉えていて、"You or the... thing...?(『君自身か、それともそこに書かれていることか』)"と反応する。また、よろけたジョンがシャーロックの膝を掴んでしまうが、シャーロックはわざわざ"I don't mind."と言う。ちょっと、妙な空気ではないか。さっきまで折り重なって階段で寝てたのに……

 この夜、二人が恋愛関係に転んだ可能性もあったのかもしれない。おそらく無意識にだと思うが、ジョンは、友情よりも恋愛を選んで去っていく者として、最後のチャンスをシャーロックに与えたのかもしれない。シャーロックにもまた、同じような意図があったのかもしれない。

いずれにしても、二人がそうなることはなかったわけだが。

 

ここに書いたことをこの脚本を書いた人たちに問いかけたら、巧妙に否定されるだろう。「シャーロックとジョンの間に恋愛感情はない。想像するのは勝手だがね」というのが賢い彼らのスタンスだから。

でも彼らは、私たちが知っていることを知っているはずだ。そもそもこの作品は「想像する」ことから生まれたと。

自分にない想像を持った人を糾弾するのも、カテゴライズしたりされたりすることで優越感や自意識を持つのも自由だ。しかし、どんな想像であれ、想像をした時点で私たちは皆「共犯者」なのだ、と思う。

2015年

1月

05日

誰かの幸せを祈るということ(映画『ホビット』」3作目感想)

私は、トールキン作品が苦手な子供だった。

意外な展開よりも予定調和を望む、自分の理解の範疇外に物語が転がっていくのを恐れる、そういう子供だった。

私の「常識」では、主人公は竜を倒して宝物を取り戻さなくてはならない。

湖の町の人たちは、勇敢なドワーフたちに協力しなくてはならない。

ビルボはドワーフたちと仲良くなったのだから、エレボールでいつまでも幸せに暮らすのだ。


しかし、この物語はそんな風に綺麗に収まってはくれない。

トーリンは死に、湖の町は焦土と化し、ビルボの家財道具は競売にかけられる。ついでに言わせてもらえば、私自身の人生も王子様に出会ったり大金持ちになったりしてハッピーエンド、というわけにはどうも行かなそうである。


負け惜しみかもしれないが、幸せでない、ということは、いいことでもあるのだ。幸せの外にいると感じるときにだけ、幸せというものの形が見えるからだ。

物語はいつも、幸せの外に転がり出てしまった人たちが、幸せを掴む、あるいは取り戻すために始まる。

その願望は「欲」と呼ばれることもある。欲は人を動かしてくれるが、時にひどく人を苦しめる。

欲の対極にあるものは、自分ではない誰かの幸せを祈る、ということなのかもしれない。


自らの中に潜む欲に打ち勝ったトーリンは、ビルボに「本や肘掛椅子が待っているぞ」と告げる。

かつてビルボが「君たちの気持ちがわかったから、手伝いがしたい」と言ったように、トーリンもビルボの望みがわかっていた。わかっていただけではなく、共感し、叶えてやりたいと思っていた。本来の彼は、そういう人だった。


初めにそれを見せてくれたのは、ドワーフの一人であるボフール。

彼は、王族ではなく、戦士ですらない。しかし、自分たちに不信と不満を抱いて逃げ出そうとするビルボに、何の迷いもなく「幸せを祈ってる」と言ってやれるという美点を持っている。

ボフールの優しさが、ビルボを変えた。変わらなければ、ビルボはトーリンを救えなかった。

結局、すべてはつながっている。

そして、次の世代へも続いていく。

前の世代がかなえられなかったことを、次の世代がかなえていく。

自分と全然違う人でも本当に大切に思える、つまり無私になれるというのがこの作品のテーマのひとつだとしたら、異種族の二人がお互いの幸せを祈る、というのはその究極の形かもしれない。

ビルボとトーリンの友情、キーリとタウリエルの恋は悲しい結末を迎えたが、それを見ている人がいる。伝え聞く人もいる。ビルボやタウリエルの悲しみは、レゴラスとギムリの友情や、私のまだ知らないたくさんの登場人物の幸せというかたちで報われるのだろう。どんぐりが芽吹いて、大きな木になり、たくさんの実を結ぶように。

そのどんぐりとは、ボフールの優しさのように、素朴な、小さな、どこにでもある、しかし何よりも尊いものなのだろう。

2014年

10月

18日

「SHERLOCK」の「居心地悪さ」

北原尚彦著「ジョン、全裸連盟に行く」を読んだ。

とても楽しかった。事件の構造がドラマよりしっかりしていると感じた。シャーロックとジョンのやりとりも軽妙で面白い。

個人的に嬉しかったのは、読んでいて心地良かったことだ。

ホームズの舞台は  ロンドンの下町、テムズ河、ダートムアの湿地と多岐に渡るが、221Bというホームがある。どんなに陰惨な場面でも、暖炉に火があかあかと燃え、お気に入りの椅子にかけて煙草をふかしたり、本を読んだりしているホームズやワトスンの場面に戻ってくるという、安心感がある。

どんな事件でも、ホームズはちゃんと解説してくれる。そして、ワトスンは読者と同じように、「ちゃんと、わからない」。

スマートフォンやインターネット、ネットスラングは「SHERLOCK」の時代のものでも、この作品は「正典」のコージネスを受け継いでいる。

 

ここに、ドラマ「SHERLOCK」とこの作品の違いが見えてくる。

「SHERLOCK」はどのエピソードも必ず「クリフハンガー」または新たな脅威、新たな謎を提示しながら終わることに象徴されるように、わざと視聴者を「居心地悪く」させている。

 

私は第1シリーズから第3シリーズまで、原作とドラマを見比べ、ドラマがどの程度原作を踏襲しているか考えている。非常に拙い作業ではあるが、ひとつわかったことがある。それは、「元ネタ探し」にゴールがない、ということ。かっちりと、綺麗にピースがはまるようには作られていないのだ。

 シャーロックは原作のホームズをモデルにしてはいるが、ホームズの性格はマイクロフトにも振り分けられている。いわゆる「ワトスン役」の枠を超えた活躍をジョンが見せることもあるし、ワトスンの役割をレストレードが担っていることもある。メアリに至っては、原作よりオリジナル要素の方が上回っている。単純に原作の登場人物を引き継ぐのではなく、性格の一部分を増幅させたり、解体・結合させて、新たなキャラクターを作っているのだ。

エピソードの扱いにも同じことが言える。

「ピンク色の研究」の元ネタは一応「緋色の研究」とされているが、単純に一つの作品が一つの作品の元ネタであるわけではない。どの作品も細かく解体され、再構成されている。

フランケンシュタインの怪物のように、切り刻まれ、不穏なかたちに造形されているのだ。原作を知っている者も、知らない者と同じ不安感を持って観なくてはならない。

 

原作の持っている安定感を崩す一方で、不安定さは再現しようとする。

ワトスンの名前や傷の位置の矛盾に合理的な回答を提示して見せたりもするが、時系列の矛盾やシャーロックのサバイバル方法、ジョンのブログに散見される「語られざる事件」などは、わざと曖昧にしてある。そういう部分にファンが躍起になるのを、確信してのことだと思う。

 

そして、「作り方」。第3シリーズではジョンの妻やシャーロックの両親に俳優の実際の家族をキャスティングしたが、あれは冒険だったのではないだろうか。イギリスのショービズ界の空気は良く知らないが、どれだけスタッフが「役に合っているから配役したのだ」と言い張ろうと、俳優のプライベートを持ち込むのは、「作品の質の追及を放棄した」という誹りを免れないはずだ。個人的な感想を述べれば、フリーマンのパートナーもカンバーバッチの両親も好演だったとは思うが、「この役は絶対に、この人でなければダメだ」とまでは感じなかった。

これだけの名声を得ておいて、なぜ、あえて「おままごと的な」ことをするのか。人気に胡坐をかいている、とも、逆に話題作りに必死になっている、とも言われているだろうが、その目的は好意的な評価を振り払うこと自体にあったのではないか。

その根底には、シリーズを重ねても「名作」になりたくない、視聴者の期待を良くも悪くも裏切り続けたい、という、ひねくれた中学生のようなマインドがあるのではないか、と邪推している。

(悪いことだとは全然思わない。ひねくれた中学生の素養なくして、誰が『ホームズ』を愛するものか)

「ひねくれ」とは、「最高傑作」と称される正統派グラナダ版ホームズへの反骨精神かもしれないし、逆に、そのポジションを尊重したいという敬意の表れかもしれない。アメリカPBSで放映された時のファンとのチャットだったか、モファットとゲイティスはシャーロックの年齢を聞かれて「8歳」と答えた。製作者が自分たちのホームズに施した「子供」という位置づけは、そのまま彼ら自身の立ち位置を表していたのかもしれない。

 

もっとも、原作にコージネスを感じるのは、完結してから時間が経っているからであって、リアルタイムで読んでいた読者は、私たちが「SHERLOCK」に感じているような不安を感じたかもしれない。

そして、あと数十年して「SHERLOCK」が「過去の名作」になる頃、後世の視聴者はシャーロックとジョンの不器用なつながりや、どことなく殺風景な部屋にコージネスを感じるのかもしれない。

北原氏の作品に心地よさがあるのは、原作に対する読者の「居心地悪さ」を補正しようとするシャーロッキアンの視点で書かれた作品だからでもある、と思う。「居心地の悪さ」にこだわる「SHERLOCK」とは、そこが違う。

言うまでもなく、どの作品にも「ホームズとワトスンの友情」というしっかりとした軸は感じられて、そこには揺るがないコージネスがあるのだけれど。 

2014年

9月

29日

「花子とアン」最終回

先日、アメリカ人の友人が泊まりに来た。

夕食後にローズティーを出したら、「どうして日本にはバラの匂いのものがいっぱいあるの」と不思議そうな顔をされた。

二人でバラの匂いのするものを列挙してみる。バラの香水、化粧品、石鹸、シャンプー、ルームフレグランス、洗剤、入浴剤、トイレットペーパー……

日用品に「香り」をつけるとしたら、バラの香りは選択肢の第一に挙げられるのではないだろうか。アメリカではそうでないのだとしたら、逆に驚く。

だが、彼女がそう来るなら私にも言いたいことがある。なぜ、アメリカ人はあそこまで「キュウリの香り」を推すのか。

「変じゃないよ!キュウリはいい香りだよ!」「バラの方がいい香りだよ!キュウリは…ほら、キュウリは食べるものじゃん!」「それはミルクもそうでしょ!バラは女っぽすぎるよ。香水ならわかるけどケア用品には合わない!」

もう「感覚の違い」としか言いようがないのだが、私はこういう不毛な争いをしている時、ものすごく楽しい。「ぞくぞくする」と言っても過言ではないかもしれない。

 

次の日、職場の飲み会で、別のアメリカ人の同僚に「さつま揚げ」を説明していたら、"fish cake"という言葉に、日本人の先輩が驚いた顔をした。ケーキは甘いもの、というイメージがあったそうだ。

本当に個人的なイメージだが、cakeとは、物の名前というより形状を表す言葉のような気がする。何かが、みっしりと固まっているイメージ。そして、私にとってはその「何か」は、なんだか素敵なもの、という感覚がある。

たぶん、これは「資生堂ホネケーキ」のイメージだと思う。親戚が近所で化粧品店を営んでいたため、私は販促品のあまりをもらっては綺麗なケースや瓶を眺めて楽しんでいた。「ホネケーキ」は色のついた半透明の石鹸で、まるで大粒の宝石のようだった。私はホネケーキを持ち物の中でも最上ランクの宝物と位置付けていたので、誕生日に食べる特別なお菓子と特別な宝物が同じ名前を持っているのは、とてもしっくりくることだった。

 でも、人によっては、石鹸は別に心ときめくものではないかもしれない。辞書で調べてみると、鉱床や氷も a cake of で数えられるようだ。

すると、cake=甘いお菓子、と考えるのも、cake=素敵なものの塊、と考えるのも、間違いであることになるが、私はこの「個人の感覚」と「共有される感覚」の境界線に興味がある。

 

言葉に背負わせる感覚は、国や地域によっても違うけれど、個人によっても違う。自分の持っている感覚は、どこまで他人と共有できるのか。まだ自分の知らない言葉は、どんな感覚を背負わされているのか。それを知るための案内役として、辞書がある。辞書は世界を知るための案内役だ。

 

「花子とアン」で、主人公がわからない言葉に出会うと、辞書を引きたくて居ても立ってもいられなくなる気持ちは、とてもよくわかる。その言葉は一旦置いておいて先を読み進めるという手もあるが、どうしても「今」

知りたいポイント、というのはあるのだ。すぐにスマートフォンで検索をかける人は、共感できるはずだと思う。

言葉を知ることは、他者を知るための手がかりだ。その喜びが「辞書のある場所に向かって駆け出す」というアクションをもって描かれたのは、とても良かったと思う。

人を結びつけるための手がかりとして、主人公の武器であるはずの「言葉」があまり活用されず、魅力的なキャラクター達や彼らの「言葉」が雑多に放り込まれたまま整理されなかった感があるのは残念だが、私にとっては毎朝宝箱を開けるような半年間だった。

「言葉」の仕事を映像化するのは難しいのかもしれないが、「推理」を可視化した『SHERLOCK』が現れたように、また誰かが果敢に挑戦してくれたらいいな、と思う。

 

2014年

9月

22日

ビルボの誕生日

『シャーロック・ホームズ』に関連するブログを作って3年程になるが、一度もホームズやワトスンの誕生日を祝ったことがない。ファンの間ではそれなりに盛り上がっているようで、クリスマスだエイプリルフールだといちいち騒いでいるミーハーな性格の私は「お誕生日企画はやらないの」と友人に聞かれたことがあるが、単に忘れているのだ。気がきかない性格なので、作中でばーんとアピールしてもらわないと覚えられないのだと思う。

その点「ホビットの冒険」「指輪物語」の主人公、ビルボとフロドの誕生日である9月22日は、作中で盛大に祝われているので忘れたことがない。花火は上げられなくとも、ケーキでも食べてお祝いしたいところだが、あいにく天から降ってくるお菓子しか食べられない身だ。


仕事中に突然、そうだ、フル・イングリッシュ・ブレックファストを食べようと思いついた。

現代版ハドスンさんのように、アメージングなフライアップを作るのだ。ベイクドビーンズはあんまり好きじゃないから省略するけど、作中でビルボが何度も懐かしがるベーコンエッグに、ハッシュドポテトに、焼いたトマトとマッシュルーム。

帰りにスーパーに寄って買い物をしよう。新鮮な卵とおいしいベーコンを買おう。明日も仕事だから朝はゆっくり食べられないけど、今日の晩ごはんにすればいい。早めに帰ってのんびり食べながら、二人の誕生日を祝おう。ああ、楽しみだ。


仕事を終えて、スーパーに駆け込んだのが7時30分。

まず、ちょっといい卵を買う。卵はトーリンみたいに6個、いや、今の私にはコレステロール的な意味で冒険になってしまうので1個にしておこう。

コレステロールといえば、ベーコンを買うのは久しぶりだ。塊で買いたいが、脂肪と塩分が多く、お医者さんの「控えたほうがいいリスト」に入ってるので86円の「朝食使い切りベーコン」にする。これでカルボナーラも角切りベーコンのカレーも作れない。束の間の逢瀬となる。

いつかロンドンで食べたブラウンマッシュルームはないので、ホワイトマッシュルームを手に取った。一袋168円か……ないな……ブナシメジ98円に変更。トマトも、つい最近まであんなにいただきものをしたのに、採らないと重みで苗がダメになってしまうという義務感に駆られて食べていたくらいなのに、色もよくないのが一袋300円台。諸行無常の響きあり。

ふと飲み物コーナーに目をやると、トマトジュースが安売りしていたので、「腹の中に入れば同じ」という精神でそちらを買うことにする。

伊藤園「健康と美容にリコピン135g・理想のトマト」だ。文句はなかろう。少なくともリコピン含有量において、こっちのほうが勝ってるだろう。

鮮魚コーナーでは、店員さんがきびきびと魚のパックに値下げシールを貼っている。魚好きの私としては、いつもなら迷わず飛びつくところだ。

大好物のしめ鯖が半額になってる。しめ鯖にビール、いいな……

いや、でもビルボとフロドの誕生日だから!鱒のソテーはセーフでもしめ鯖はアウトだから!と心を鬼にしてレジへ。


帰宅すると8時過ぎ。じゃがいもをハッシュなり何なりする気力は、とうに失っている。レンジでチンか、なんなら省略でもよい。8時過ぎて糖質摂らないほうがいいし。

出来上がった「ベーコンエッグ・しめじソテーとトマトジュース添え」には見事になんのスペシャル感もなかった。一応i-phoneで写真を撮って「HAPPY BIRTHDAY★ BILBO and FRODO★」などと絵文字で可愛らしくデコったメールを友人宛に作成してみたものの、アップル社の威力をもってしても「夜の9時に一人で朝ごはんを食べてる奇矯な女」という事実しか伝わらなそうなので速攻消した。


というわけで、ブログには書かないし、SNSもやっていないが、私も微力ながらそれなりにオタクとしての日常を営んでいる。現実との兼ね合いにおいて微妙に空回りして、素敵企画としてアップロードできるレベルに至っていないだけである。

2014年

9月

20日

アリのままで

小学校3年生の担任教師をしている友人が、児童の日記に「ひるやすみに、●●ちゃんがアリのままをうたいました」と書いてあったという話をしてくれた。

私も、アリの巣穴を掘り返しながらこの歌を熱唱している幼児を見かけたことがある。一部の子どもにとっては、昆虫の歌として理解されていると思われる。

 

幼稚園児の頃の私は、「まっかなおはなのトナカイさんは いつもみんなのわらいもの」を「いつもみんなのにんきもの」と歌っていた。黒い鼻より、ぴかぴかの赤い鼻のほうが断然クールだと思っていたのだ。

トナカイが人気者だとすると「いつもないてたトナカイさんは こよいこそはとよろこびました」の部分に破綻が出てくるのだが、これは「容姿のみをもてはやされることに虚しさを感じ、華やかなスポットライトを浴びながらも陰では涙を流していたトナカイが、人の役に立つことで真の喜びに目覚めた」と解釈していた。当時のアイドル漫画の影響だと思う。未だに、トナカイ役は田原俊彦(※当時のトップアイドル)という感じがする。

 

「ありのままで」を「虫であることで迫害を受けながらも、本来の姿を隠さずに生きる蟻の歌」という解釈で歌ってみても、大した破綻はない。「アナと雪の女王」という邦題も、字面がちょっと「アリの女王」っぽい。どうせ『虫の歌』などと解釈している子どもはちょっと聞きかじった程度の関わりだろうから、見間違いもしている可能性は大きい。擬人化作品文化や「バグズ・ライフ」や「アンツ」などのCGアニメ作品の存在も、誤解に拍車をかける。

 

ちなみに私が「赤鼻のトナカイ」の真実に気づいたのは、大学1年の時だった。ぼんやり道の後進たちにも、「アナと雪の女王」が蟻の女王の話でないことに気づく時が来ると思うが、なるべく遅くなるように呪いをかけている。

2014年

9月

15日

お菓子は天から降ってくる

ダイエット及びコレステロール値問題から、甘いものを控えることにした。

しかし、仕事関係のいただきものが多い。政治家とかではないので、豪華な贈り物をもらうわけではないのだが、30代という年代は、先輩の仕事をちょこっと手伝ったり、後輩になにか便宜を図ったりするたびにちょっとしたお礼をいただくことが多いように思う。オフィスの机の上におせんべいが載っていたり、貸した資料にチョコがついて返ってきたりする。誰かが旅行に行った時も、おみやげに個包装のお菓子を配ることが多い。


そういうものはありがたくいただきたいので、自分でお菓子を買うのを一切やめることにした。これからは、スーパーに行っても、じゃがりこもキットカットも、存在しないことにするのだ。今後私がお菓子を食べられるかどうかは、一切が運まかせだ。


そんなこんなでここ2週間ほどお菓子を買っていないが、たまにいただくお菓子がものすごくおいしい。同僚がクッキーをくれたのだが、口に入れたとたんに、バニラの香りをはっきりと感じた。バターの滋味、そして砂糖の甘さがじんわりと全身に広がっていく。以前なら小袋ひとつ分くらいパクパク行ってしまったが、今は一枚一枚ありがたくいただいている。次の供給がいつだかわからないのもあるが、一枚の満足度がものすごいのだ。ダイエットしている方だけでなく、甘いものがお好きな方にも、1週間くらい甘いもの断ちすることをお勧めしたい。次に食べるお菓子は、五臓六腑に染み渡るおいしさだ。

ドラマの戦争中の食糧難の描写なんかで、子どもたちが本当に幸せそうな顔で食べ物を味わっているが、食糧難でも、飽食の社会でも、与えられている幸福の量は等量なのかもしれない。ないよりはあるほうがいいはずだけれど、当たり前に食べていると、おいしさがわからなくなる。


そんなある日、職場に行ったら机の上に子どもの顔ほどの大きさの「ジャンボどら焼き」があった。前の晩にお客様にいただいたものの、スタッフ全員に分けられる量ではないので、一番喜びそうな私の机にそっと置かれたらしい。

「もらったものは食べていい」ルールとはいえ、一人でこれを食べてしまったら本末転倒ではないだろうか。早くも天に試されている。

2014年

9月

13日

月見バーガー不要論

月見バーガーに納得がいかない。

贅沢過ぎやしないだろうか。ハンバーグとパンだけでも十分おいしいし、目玉焼きとパンでも十分おいしい。


組み合わせるともっとおいしいんだよ!と月見派の友人は言うけれど、これがベーコンと卵や、チーズとハンバーグの組み合わせだったら、私も理解できないでもない。これらは、組み合わせたほうが絶対おいしい。肉や卵に、ベーコンやチーズの塩気が影響するからだ。

しかし、、目玉焼き+ハンバーグってなんだ。結局はハンバーグソースを目玉焼きに対する塩気にしているのではないか。だったら目玉焼き+ソースでよくないか。ハンバーグが入っているのは、「○○バーガー」として売るための方便ではないだろうか。


私は月見バーガーの高カロリーを憂えているわけではない。伊達にこんなコレステロール値を抱えて生きてるわけじゃない。ビバ高カロリーだ。

しかしながら、私は「贅沢」と「期待値」のバランスにはこだわる人間だ。いつからだったか我が家のハンバーグにも目玉焼きが乗るようになったが、私は固辞している。ただでさえ楽しみなハンバーグに目玉焼きまで乗ったら、それは身に余る贅沢というものだ。一回の食事に、主菜二回分。目玉焼きハンバーグに値するような生産的活動及びカロリー消費を、私がした試しがあったろうか。

それに、単純にもったいない。ハンバーグも目玉焼きも、私は大好きだ。できることなら、思う存分楽しみにしたい。

以前の上司が食い道楽で、突然ケーキを買ってきてくれたり、「今夜寿司を奢ってやろうか」などと誘ってくれる人だった。ありがたいことで、みんな喜んでいたが、私としては3日くらい前に予告していただければもっと嬉しかった。そうすれば、寿司やケーキを楽しみに、幸せに暮らした3日間があったはずなのだ。

「なにかを楽しみにして待つということが、そのうれしいことの半分にあたる」と、赤毛のアンも言っていた。アン説に従えばハンバーグ×(待つ楽しみ+食べる楽しみ)+目玉焼き×(待つ楽しみ+食べる楽しみ)=2。対して月見バーガー×(待つ楽しみ+食べる楽しみ)=1であり、数学的にも月見バーガーの楽しみ度が低いことが立証されている。

だいたい、現代人は快楽を追求し過ぎた結果、素朴な楽しみを忘れてしまったのだ。月見バーガーの存在そのものが我々に警鐘を鳴らしているのだ。


ここまで黙って聞いた月見派の友人は、静かに「でもアンタ、カツ丼好きだよね」と呟いた。

無論、カツ丼はおいしい。卵丼もカツもおいしいが、合わせることによって全く別物になる。カツ丼はプライスレスだ。カツ丼を否定するなんてナンセンスだ。

2014年

9月

02日

すべてが薄くなる

前回の日記のタイトルが「すべてがfになる」なのに当該作品にまったく触れなかったので、犀川先生ファンの友人Yが立腹していた。

そうだ、「すべてがfになる」が映像化するんだった。犀川先生役は綾野剛だそうだ。

まず若くないか!?と思ったが、原作が出版された時点で犀川は私より年上だったけど、考えてみればだいぶ追い越した。これからは、若い頃読んだ小説が映像化される度にそう思わされる運命である。つらい。

次に薄くないか!?と思った。綾野剛の演技が印象薄いと言ってるのではなく、顔立ちの話である。これも、原作を読んでいた当時の流行りの顔が木村拓哉だったり、福山雅治だったり、今より甘めだったせいと思われる。

考えてみれば当時の私の犀川先生のイメージはなんとなく理系っぽいという理由でおぎやはぎ(どちらでも可)だ。別に濃くもなかった。

あまり俳優さんに詳しくないので、理由がざっくり過ぎて犀川ファンにもおぎやはぎファンにも失礼だが、この理由を適用するなら、岡田あーみん「こいつら100%伝説」に出てきたニセ歯医者も捨てがたい。


薄すぎないか!?といえば、御手洗潔が玉木宏、石岡が堂本光一で映像化という噂はどうなったんだろう。

友人にコメントを求められて、ミタライはもう少しコレステロール値の高そうな顔がいい、というわかりにくい返事をして失笑を買った。その時頭の中がコレステロール値のことでいっぱいだったと思われるが、これも犀川先生に感じたのと同じ感慨だろう。

今は、線が細くてすっとして、バタくさくない顔の俳優が「ハンサム」なのだ。私も綾野剛や玉木宏の顔が大好きだが、御手洗シリーズは今までに何度となく映像化の噂があって、御手洗役は鹿賀丈史だの豊川悦司だの言われていた記憶を保持しているから、その記憶と現代の俳優さんの印象のギャップが、時差ボケのような違和感を生み出している。ベネディクト・カンバーバッチをホームズとは認めない、という意見の根底にあるのも、こういう感覚なのかもしれない。

それにしても、石岡君はもう少しうっかり八兵衛感がなくていいんだろうか。堂本光一は身体能力ばっかり評価されてる気がするが、私は『銀狼怪奇ファイル』のぽやぽやした演技が一番好きだ。どの原作を映像化するか知らないが、「あの作品」以外はあえて王子様を封印してほしい。


何だかんだで人形劇のホームズもカンバーバッチとフリーマンっぽい顔だし、SHERLOCKのヒットを受けて、すべての探偵と助手コンビが「あんな感じ」にならないか、勝手に心配している。あれは、ステレオタイプに流れず原作を誠実に受け止めた脚本を中心に、皆がそれぞれベストを尽くした結果が「いい」のであって、できあがった「あんな感じ」を真似るのではなく、そういう制作者たちの姿勢こそ真似て欲しいなあ、と思う。どちらも、そう扱われるべき原作のはずだ。

2014年

8月

29日

すべてがfになる

ダイエットをしている。

友人たちには何度めかと呆れられそうだが、とにかくダイエット中である。


健康診断の帰り道、保険センターで体脂肪率を計る機械にうっかり乗ってしまった。


体型や年齢の話は難しい。「太った」と言えば自分より重い人にキレられ、「老けた」と言えば年上の人にキレられる。しかし太るの老けるのもあくまで本人の中での比較の問題だ。

ハタチだって、本人がおばさんだと言えばおばさんなのだ。体重だって、それが何キロだろうと、オーバーウェイトとみなすのは本人次第だ。

逆に、何キロだろうと何歳だろうと、「まだまだイケる」と思いこんでしまうこともある。

しかし、体脂肪率は客観的な数字だ。自分の体の何割が脂肪でできているかがはっきりわかってしまう。相当な精神的ダメージである。

何度も何度もダイエットらしきものを決意して、最近ようやくわかったことがある。ダイエットとは、知ることだ。ランダムな知識を詰め込むのではなく、体の状態をつぶさに理解すること。

体脂肪率は何パーセントか、基礎代謝量は何キロカロリーか、何を、一日に何グラム食べるべきか、どんな運動をどのくらいの頻度で何時間するか。すべてに、その時々の正解がある。それらを把握しなければ、健康的に痩せるのは不可能だ。


とはいえ、去年あたりまでは食べなきゃ痩せた。

もちろん、暴飲暴食すれば太ったが、どんな状態からであろうと、普通に生活すれば適正体重に戻っていった。だからダイエットとは、「漠然と食べるのを我慢する」ことだった。

でも今はそうじゃない。食べなければ代謝が落ちて脂肪がつくし、運動しなければ筋肉が落ちて脂肪がつく。すべてがfになるとはこのことである。

今までそうならなかったのは、若さが代謝量と筋肉量を勝手に維持してくれたからだったのだ。そして、その件に関して言えば、私は既に若さを使い果たしたらしい。


そういうわけで、ホームズが運動のための運動はしてないというのは、ワトスンの勘違いだと思う。ワトスンが見てないだけで、寝室でこっそりロングブレスダイエットとかやってたはずだ。サー・イアンにはぜひその辺の事情を赤裸々に演じていただきたい。

2014年

8月

23日

人形劇「シャーロックホームズ」は、ちゃんとホームズだ

人形劇「シャーロックホームズ」がすごく面白かった。

面白かった、だけでは終わらず、録画して何度も観てしまうほど、好きになった。

人形が演じ、学園ものに変換されているにも関わらず、「ちゃんとホームズ」だからではないか、と思う。

 

15歳の少年に設定された人形を「ちゃんとホームズ」と感じる理由を一言でいうと、「リア充じゃない」ことではないだろうか。リア充といってもさまざまな定義があるのだろうが、ここでは「コミュニケーション力があり、人付き合いに長けた」人物としておきたい。

私がホームズに出会ったのは、小学校の図書館だった。

同級生の大多数がケイドロやらドッジボールやらに興じる休み時間、一人で毒々しい表紙の本をめくっている小学生はなるほどリア充とは程遠いが、そういうことだけでもない。

一人で物語の世界に没頭する時、人は皆、社会生活から切り離される。一人ぼっちで、未知の世界に放り込まれる。だから、「非リア充」として物語の登場人物と出会う。自意識が確立していない子どもは、特にそうなのではないだろうか。クラスではジャイアンや出木杉くんの立場にいる子も、のび太に感情移入できる。

物語の世界の中にも、現実世界と同様にリア充も非リア充もいるが、ホームズとワトスンは絶対に「クラスの中心的存在」ではない。そこは、子どもの少ない社会経験においても重要なポイントだ。微妙なポジションで生きる子どもを、人形が人間以上に繊細に表現している。

 

そして「ホームズ」は、影の世界の物語だ。主人公二人はどちらも孤独だし、依頼人たちはもれなく困って、弱って、人生の暗い時を生きている。

しかし、影の世界にも冒険があり、笑いがあり、友情がある。

子どもたちの求めるものは、光のあたる教室や運動場にはない。授業中の静かな保健室、何年も使われていない部室、立ち入り禁止の区域、忘れられた飼育小屋。そして、子どもたち自身が主人であり王である、「寮の二人部屋」としての221B。

役者も舞台も、非の打ちどころなく「ちゃんとホームズ」なのだ。

 

三谷幸喜脚本ならではの、温かですっとぼけたユーモアも大好きだ。

個人的に嬉しかったのは、「まだらの紐の冒険」でロイロットにしらをきるホームズが「寒いとね、クロッカスが綺麗に咲くらしいよ」と言うところ。

ここは原作にまったく忠実なのだが、子ども時代の私が声を上げて笑った箇所だ。

私が生まれるずっと前に、ホームズという作品への言及はシャーロッキアーナという学問に昇華されてしまったが、ここは「『緋色の研究』で園芸に興味を持たないと書かれたはずの彼がどうのこうの」ではなく、単純に「ツッコミ待ちだ」と思っている。三谷幸喜に拾ってもらえて嬉しい。

できれば「赤い輪」で新聞広告を探すホームズの「 『日ごとわが心は君を思いこがれ……』何をたわけたことを!」という一人ツッコミも使ってもらいたい。焦って道具を見つけられず、ポケットからガラクタを出してはポイポイ投げるドラえもんにそっくりで、この場面もかなり笑った。

 


2014年

8月

14日

私の思い出のマーニー

盆休みも中盤。アパートの駐車場に出たら、近所の小学生に、出会い頭にいきなり「思い出のマーニー」のオチを言われた。

お母さんが「それは『ネタバレ』といって、たいへんいけないことなのだ」と叱っていたのが少し面白かったが、原作未読の私としてはこれ以上ネタバレされないうちに観たほうがよさそうなので、その足でレイトショーに行くことにした。

 

私はなぜか壮大な話が苦手な子供で、どんな映画が好きか、と聞かれると、「なるべく何も起こらない話がいい」と答えて大人を困らせていた。特に、映画の面白さは劇中の爆発の規模に比例すると思っている父は、娘の嗜好の掴みどころのなさに困惑したらしい。

具体的に言うと、ジブリ映画では『ナウシカ』や『もののけ姫』よりも『トトロ』や『魔女の宅急便』が好きだ。

『マーニー』は、何も起こらないけれど、主人公から見える世界の何もかもが変わる話だ。たぶん、杏奈と同じ世代の子供の多くが、こういう劇的な世界の変化を待っている。

杏奈は悩んでいる。冒頭でいきなり鉛筆をへし折るくらいイライラしてる。ナイフみたいにとがっては触るもの皆傷つけた、とはこういう状態だ。

何もしなくては何も変わらない、だから行動しなさい、と行動できる人はいう。でも、行動できない人は、動けないから悩んでいるのだ。それでいいと思う。悩んでいるだけでも、頭の中では次々に変化が起こる。空に嵐が来て晴れるみたいに、海に潮が引いて満ちるみたいに。ちゃんと、自分の世界は動く。何もしないでぐだぐだ考えているのは、苦しいけれど、決して無駄な時間ではない。

悩むのはやめて、とか、あなたはひとりじゃないよ、と言ってくれる人はいたほうがいい。でも、一人きりで思う存分悩むのも、必要なことだ。

これは私の解釈だけれど、助けやきっかけを与えてもらったにしても、杏奈は一人でちゃんと悩み終えたんだと思う。

 

ところで、夜10時を過ぎると映画館が入っているショッピングモールが閉まってしまう。開放されている出口はひとつしかないので、反対側の駐車場を利用した場合、巨大な建物をまくように半周歩かなくてはならない。カップル客ならそれも良かろうが、女一人客は舌打ちしたくなる。

カップルの皆さんの邪魔をしないように、かつ、これからご出勤と思われる暴走族の皆さんになるべく近寄らないように、結構な距離をウォーキングして駐車場に戻ると、私のほかにもう一人いた女一人客が、なぜか前を歩いていた。

彼女が私のマーニーだと思う。たぶんイオンモールから離れられないと思うので、声はかけなかった。以上が今年の私の夏の思い出である。

 

2014年

8月

12日

スプーンおばさんの女子力

NHKで朝放送している「あさイチ」という情報番組がある。昨夜「夜だけど…あさイチ」として放映されたので、なんとなく観ていたら、「家庭内別居」というディープなテーマだった。

 

まともに話を聞いてもらえず、人間としての尊厳を失っていく奥さん。

仕事だけでも辛いのに家でも安らげず、居場所を失っていく旦那さん。

私は独身なので、どちらの言い分も一理あるように感じて、観ていて2人分辛い。さらに、そんな環境で暮らさなければならない子供の気持ちを思うと3人分辛い(いずれも、1人分が当事者の何億分の一ではあると思うけれど)。そりゃ別れた方がいいだろうよ、所詮別々の人間なんだから、我慢なしで快適に生きてこうなんて無理なんだよ、もう皆別れちゃえよ、と世知辛い気持ちになっていたところで、今日群馬テレビで、アニメ「小さなスプーンおばさん」第一話の再放映を見た。

 

スプーンおばさんは、頭が固くて怒りっぽいご亭主と暮らしている。

洗濯中突然小さくなって、洗濯ものの下じきになってしまう。

おじさんは、妻が小さくなったことに気づかず、突然いなくなったことにぷりぷりしながら仕事に出かけてしまう。小さくなったおばさんは必死で洗濯ものの下から出てくるが、第一声が「たいへん、これじゃお洗濯できないわあ~」である。

夫の無理解とか家事労働の理不尽とか、そこにはない。いや、あるかもしれないんだけど、おばさんにそういう発想がないので、存在しないことになる。

結局おばさんは、動物たちの力を借りて(小さくなると動物と話ができる。こちらも結構なミラクルだが、おばさんは『あんた私の話がわかるのね。ちょうどいいからこのかごを押してちょうだい』とあくまで洗濯最優先)、洗濯を完遂する。

 

おばさんは、時々小さくなるという事実をおじさんに隠している。

その理由を私は知らなかったのだが、「あの人は気が小さいから、小さくなった私を見たら腰を抜かしちまうわ」と言ったきりだった。

結局、病院にも行かず、警察にも知らせず、ダンナにも相談せず、「今日はいろいろあって楽しかったわ~」で第一話は終わる。

 

おじさんは、休みの日に1人で釣りに行ってしまったり、むっつりして朝ご飯を食べなかったり、なかなか家庭内別居の素質がある感じなんだが、おばさんは一切気にしない。

いつ小さくなるかわからないというリスクを抱えながらも、おじさんの失くした帽子を探してあげたり、好物のジャムを作ってあげるために野イチゴを摘みにいったりするのだが、全然「夫のために割を食ってる」感じがしない。

勝手に行動して、勝手にトラブルを起こして、勝手に解決する。

一話につき確実に二~三度は死の淵に立たされてる気がするが、最後はいつも「今日も一日楽しかった!」で終わる。

 

何というかもう、ダンナどうこうではなく、人間として強いのである。言い換えると視野が狭くて自分勝手で鈍感なのかもしれないが、とにかく強いのだ。

そして、ダンナとして一切いいとこがなさそうなおじさんは、なんだか可愛い。

おばさんには「大きな赤ちゃん」などと言われているが、おじさんはおじさんで、この奥さんにはわかってもらえないような繊細さや神経質さがあると思う。細かいことはわからないが、引きでみると、頑固な亭主と陽気な奥さんで「お似合いの夫婦」だ。

 

漫画と一緒にするな、と言われてしまえばそれまでなのだけれど、私は漫画の登場人物にも、見えていないところに細かい心の動きがあるはずだと思うし、逆に、細かく色々と考えてしまう現実の人間が、自分や周りの人々を、漫画のキャラクターを見るように「引きで」見ることも時々役に立つんじゃないかと思う。

私は人に厳しく自分に甘いし、邪推してしまうし、重箱の隅をつつく癖があるし、すぐに『あっちの道の方が良かったんじゃないか』と後悔したりするから、もし結婚したら、家庭内別居や離婚の種を山のように見つけてしまうんだろう。

そういう自分との付き合いもいい加減長いので、今更否定したいわけではないけれど、スプーンおばさんみたいに、なんだかよくわからないけど一日楽しかったわ~とさばさば言えるような私もいると、もっといいと思う。

 

そういえば、私は原作も愛読していた。(例によって図書館で読んだので記憶違いかもしれないが、原作のおじさんはおばさんが小さくなることを知っていたと思う。アニメも後半はそうだったかもしれない)

小学生の頃の記憶だが、唯一はっきり覚えているのが、おばさんを怒らせたおじさんが、「冷たい魚だんごとジャガイモの皮」しか食べさせてもらえない、というくだりだ。

冷たい魚だんごがどんな料理なのか、未だに気になっている。ジャガイモの皮に関しては、おじさんのために誤訳であってほしいと祈りたい。

何の話だかわからなくなったが、まあスプーンおばさん夫婦にも色々あるのだ。多分。

 

2014年

8月

02日

京都の猫

鴨川沿いのホテルに宿泊。蝉時雨で目がさめる。

ホテルの朝食をしっかりいただいて、鴨川をちょっと散歩。

部屋に戻ってだらだらとワイドショーを観てからチェックアウト。

荷物を預けて、さまざまな路地をてくてく歩く。

Rさんは猫のように、たくさんの小さな道を知っている。私は京都には何度か来ているけれど、団体旅行が多かったので、こうして自分の足で歩くと、車で巡ったお寺や神社の間を線でつないでいるような気持ちになる。地元のRさんにもそういう感覚があるらしく、何度か「ああ、わかった」と呟いていた。

地元は車社会なので、おいしいものや綺麗なものに次々と出くわせる街を歩くのは、とても楽しい。いよいよ疲れたら、いつでもバスやタクシーに乗れるのもいい。ホームズが歩いたロンドンも、こういう感じだろうか。

気が付くと、おいしいパンをたくさん持たされて、子猫が親猫に咥えられるようにして新幹線に乗せられていた。

 

2014年

8月

01日

喫茶店めぐり

日頃コーヒーばかり飲んでいるが、Rさんには日本茶カフェや紅茶専門店にも連れて行っていただいた。

 

日本茶は、丁寧に淹れてその味を全部引き出すと、すごくうま味が強いのだと知った。舌の両側でうま味を強く感じる気がしたのだが、調べてみたら舌の上で味覚を感じる場所が分かれているわけではないらしい。錯覚か。

それにしても旅の途中に煎茶と和菓子はいい。胃がもたれず、頭がしゃっきりする感じ。お菓子は、ご主人が日本全国からお取り寄せした7~8品から選べて楽しい。柑橘類の皮の入った、きれいな緑の羊羹を選んだ。

ソファがいくつかあるだけのそっけないインテリアだけど、とても落ち着く。ソファはほとんど窓に向いていて、お店はひんやりと静か。近所のお店の人がひっきりなしに現れては、お茶を味わって、置いてある本をめくったり、目を閉じたりして一息ついていた。

 

ムレスナでは、本当に驚いた。

アイスミルクティーが一杯1500円くらいするけれど、ケチではないがコストパフォーマンスにやたら厳しいRさんが納得していることに納得。これ一杯に、ケーキと紅茶のセット3つ分くらいのおいしさが入っている。何でも、普通の紅茶3杯分くらいの茶葉を使っているらしい。

紅茶の苦みや渋み、ミルクの臭みなどのマイナス要素を取り除いて、香り、こく、甘みなどいいところだけ凝縮したような、奇跡の一杯。

紅茶にこだわる人は、果物などの香りがついているフレーバーティーをあまり好まないと思う。それに、アイスティーじゃなくて香りが出やすいホットを選ぶんじゃないだろうか。

Rさんもホットミルクティーを薦めようとしていたのだけど、お店のお兄さんは控えめに、しかし断固としてアイスミルクティーを飲ませたがっていた。メニューにアイスミルクティーは一種類しかなかったが、お兄さんは私たちとの会話の中で、好みはもちろん、暑い中を荷物を持って歩いてきたこととか、旅行の二日目であることとか、普段はコーヒーが好きなこととか、周到に聞き出して、Rさんにはキャラメル、私には苺の風味のついた紅茶でアイスミルクティーを作ってくれた。

これが、飛び上がるほどおいしかった。交換して飲んでもやっぱりおいしかったけど、最後はやっぱりそれぞれ自分のものに落ち着いた。問診には意味があったのだ。

アイスミルクティーにはホットティーがついてくる、という変なシステムで、最初は首を傾げたが、大きなカップが渡されて、お店の人が次々に色々なフレーバーを試させてくれる。すべての紅茶に、開発した時の苦労話とか、意外な飲み方とか、物語があるのだった。

あたたかく、薫り高い紅茶を何杯も試して、話に夢中になっている間も、アイスティーのおいしさは入っている氷に全然負けない。

 

人を静かな気持ちにさせる店も饒舌にさせる店もあるが、お店の人に、お客さんに対する思いやりのようなものを感じると、どっちでも居心地がいい。よく来たね、おいしいお茶を淹れてあげるから、楽しんでいってね、という顔をした人に迎えてもらえるのは、しみじみありがたい。

Rさんはすべて心得ていて、お店の人の気持ちを潰さないようにしている。お金を払ったんだからお客なんだ、と言わんばかりの態度はとらない。へつらったりはしないけど、傲慢でも事務的でもない。してはいけないような状況で何時間も長居したり、お店の雰囲気を壊すような声で話したりもしない。ちゃんと、お客さんの役割を演じているから、お店の人も気持ちよくお店の人の役割を全うしてくれる。


ドラマで見るバーや居酒屋さんでは、お客さんが本音をむき出しにして騒いだり、酔いつぶれる場面がよく描かれるけれど、私はそういう気の置けない人間関係を築くのが苦手で、ちょっとコンプレックスを感じていた。

気が小さいせいか、変に気を廻してしまい、くつろいでね、と言われても心からはくつろげない。世の中に使う人と使われる人がいるとしたら、私はとことん、使用人側の人間なんだと思う。同席した人が頼んだものを食べなかったり(居酒屋ではよくある)、大声でお店への不満を口にしたりすると冷や冷やして、お店の人の視線を気にしている。

いつか私もオープンマインドでお店の人に甘えられるようになるのかもしれないが、遠い未来の話になりそうだ。今は、Rさんとお店の人の距離感をかっこいいと感じる。

 

 

 


2014年

7月

31日

関西へ

早起きして、東海道新幹線に乗った。

空がぱっきりと青い。雲が流れている。

京都に近づくと山が多くなってきて、雲が濃い影を落としている。ものすごく暑そうだ。

後ほど、シッター役を引き受けてくださったRさんと落ち合うことになっている。Rさんは、大阪、兵庫、京都あたりのカフェにすごく詳しい。今日は、かねてから行ってみたい、とお願いしていた梅田の「ペンネンネネム」と、Rさんお勧めの淀屋橋「オフィシナ・デル・カフェ」に連れて行っていただく。

どちらも、隅々までこだわりがつまったお店だ。

Rさんも私も、今は飲食業とはまったく関係ない仕事をしているけれど、「お茶を飲む店」がすごく好きだ。

もちろん、外で食事するのも好きだけれど、ごはんを食べる店が味に重きを置きがちなのに対して、お茶を飲む店は椅子やテーブル、壁の色、ちょっとした飾りなんかにもこだわりや誇りが感じられることが多く、それを覗き見るのが楽しい。

おいしければ汚い店でもいい、という人もいるけれど、お店にいる間は味覚や嗅覚だけじゃなく視覚、聴覚、触覚も働いているので、汚れていたり、テーブルがべたべたしてたり、店員同士大声で喋っていたりする店は、味にも集中できなくて私はちょっと苦手だ。「猥雑な雰囲気を楽しむ」という心構えさえできていれば、それはそれで良いものだが。

一時、感覚を全部預けるという意味で、本を読んだり映画や演劇を観たりすることと、誰かが演出した空間に身を委ねるのは似ている。

Rさんは印刷や製本を工夫した同人誌を作っていらっしゃって、私はRさんがデザインした本や雑貨がすごく好きだ。だから、Rさんが選んでくださったお店を訪ねるのは、私にとっては何重にも贅沢なこと。

時間が許せば、Rさん愛用の印刷所や紙のお店もちょっとだけ覗かせていただく。楽しみ。

 


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